「違和感の正体」スター・ウォーズ 最後のジェダイ image_taroさんの映画レビュー(感想・評価)
違和感の正体
まるでエピソード4と合わせ鏡のような『フォースの覚醒』には郷愁をそそられたかのような気持ちになり、初見の時には半泣きになりながら観たのだが…本作には酷く興を削がれた感じがして、再見できずにいた。『スカイウォーカーの夜明け』は随分と持ち直したが、完全に挽回できたようには思えなかった。でも、やっぱりこのシリーズは基本的に大好きなので、改めて向き合ってみようか…と。
本作には間違いなく違和感がある。が、巷でよく言われるような、「ルーク・スカイウォーカーの人物像がこれまでの作品とあまりにも違いすぎる」という見解については自分は同意できなくて…そもそもジェダイとしての訓練を受け始めたのが適正年齢よりうんと遅かったルークは、非人間的なぐらいに感情抑制のできる他のジェダイ達と異なって、極めて不完全で人間的な弱さを持ち合わせたキャラクターであったはず。葛藤したり迷ったり判断を間違ったりという人間にとって当たり前の性質を持っていても自然なので、本作で描いているような“ルークの失敗”については、決して整合性が無いとは自分は思えなかった。ましてや、ルーク自身こそがジェダイの正式な訓練システムの中で育っていない状態でありながら、次のジェダイを育てようとしたのだから、そりゃミスを犯すリスクは非常に高いはず。だから、十分あり得る展開だな…という風に思っていたのである。
だとすれば、本作に感じるこの違和感はなんなのだろう?ロッテントマトのスコアを見ると、批評家の方のスコアは91%と圧倒的に肯定的な評価になっており、オーディエンスのスコアの41%と大きく乖離している。こういうスコアの乖離(逆パターンもよくある)はよく起こるが、大多数の批評家が大きな判断ミスを犯すとは思えない。プロの目から観れば、続編物の物語としての整合性についても、緻密によく出来ているように見えたということだろう。にも関わらず、やはりオーディエンスにはウケが悪かったのだ。
ということは、作品が広く受け入れられるためには「緻密で隙なく良く出来ている」だけでは足りないということではないのか?だとしたら、キャラクター造形とかシナリオとかそんな所に問題があったわけではない。受け入れられなかった原因は、多くのオーディエンスがスターウォーズに求める要素(端的に言えば、スターウォーズらしさ)を欠いていたが故に前作までの作品群との連続性が感じられなかった(だから、あれこれと辻褄が合わないように受け止められた)…ということかもしれない。本作をシリーズの正史から外そう…という一部の熱烈なファンによる運動が起こったのも、実は根底にそういう理由があったからではないのか、というのが私見である。
私なりに、過去の作品に比して、本作に圧倒的に足りなかったものが何かを振り返って考えてみるに…過去の作品がどんなに筋書き上で深刻な状況になっても失わなかったもの、それはエンターテイメント作品としての「遊び」だ。観ていて楽しい、ワクワクが止まらない…というような高揚感が伴うのがスターウォーズという作品の持つ基調だと思う(エピソード3のアナキンがダークサイドに転がり落ちるくだりでさえも同様だ)が、本作にはどうしてもそうは思えない非常に濃密な「陰鬱さ」「重苦しさ」が伴ってしまった。そう、残念ながら観ていて楽しくないし、苦しくなってくるのである。本作が持つ過去の作品には無いレベルの非常にネガティブな空気感が、スターウォーズらしからぬものであったがために、多くの人にとって受け入れ難いものになってしまった…というのが、実はこの作品に拒否反応を示す人が大量生産された最大の原因なのではないかと思う。本作のなかで起こる様々な出来事を、もっとエンターテイメント性豊かに、巧妙に描写することができれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
『LOOPER』や、『ナイブズ・アウト』『グラス・オニオン』を観るにつけ、ライアン・ジョンソン監督は決して力の無い監督ではないし、自分が構想した物語を語る分には非常に優秀だと思う。シリーズ物かつ大作の雇われ監督を担うのが性に合わなかっただけだろうし、スターウォーズの持ち味をオーディエンス目線でちゃんと理解できていなかったということだろう。
結果論だが、前後の作品のクオリティを見る限り、J・J・エイブラムスが本作も自ら監督すべきだった(そうすれば『スカイウォーカーの夜明け』はもっと良くなった)と思わないでいられない。