「「高貴なスカイウォーカー家」の話から「皆のスターウォーズ」にした傑作」スター・ウォーズ 最後のジェダイ ヒロさんの映画レビュー(感想・評価)
「高貴なスカイウォーカー家」の話から「皆のスターウォーズ」にした傑作
上映時間中、ディズニーランドのスターツアーズに乗っているような、とても楽しい映画でした。
自分は昔からスターウォーズで納得いかなかった点が戦争で多くの人が死んでるのに、なぜスカイウォーカー家の話ばかりしてるんだろう、という所が腑に落ちませんでした。
しかし、今回はそこにバランスを取った話だと思います。
あと作り手は要所、要所でフォースをワザとおちょくっています。「フォース、なんでもありっすから(笑)」みたいな。(レイア姫の宇宙空間からの生還とか(笑))
また、ジェダイの古文書=「EP1〜6までのルーカスのスターウォーズ」のメタファーでそれを燃やしてしまうんだから、意地が悪いなぁとも思います(笑)
おそらく、昔からのファンが怒ってるのはこの前作までの捉え方なのだと思います。(ルークスカイウォーカーの扱いetc)しかし自分は凄く面白かったし、納得いきました。
【良かった点】
・クルーザーのワープ特攻
【良くなかった、惜しかった所】
・レイア姫の宇宙空間からの生還(あれはやりすぎ(笑))
・アジア人のヒロイン、ブスすぎ(笑)もうちょいカワイイ娘でも良かった気が…
・ルークは実際に来て欲しかった。皆な逃して一騎打ち⇒最期、生身で斬られて欲しかった。
【補足】
スノークがやられてカイロレンが敵のトップだと、帝国軍(スカイウォーカーの血統)vs共和国(名もなき人々)の戦いでそのままルーカスのスターウォーズvsこれからのスターウォーズになるなー。
【追伸】
ここで本来の趣旨からは外れるのですが、ライムスター・宇多丸さんがスターウォーズ 最後のジェダイを叩いているのでそれについて意見させてください。
宇多丸さんのラジオを10年近く拝聴し映画評論も参考にさせて頂いているのですが、宇多丸さんの本作への評論についてはどうしても納得がいきませんでした。
宇多丸さんの「スターウォーズ 最後のジェダイ」評が宇多丸さんという方の芸術へのとらえ方を表す良い材料になっていると思ったので、的外れ、趣旨外れは承知ですが述べさせてください。
宇多丸さんはどうもスターウォーズシリーズの評論には思い入れも深い分、本作への批評はあげ足取りのように感じ、普段の冷静さや俯瞰さを欠いているように感じました。
本作に限らず宇多丸さんの評論で頻出する単語に「文脈」という言葉があります。(例:その文脈で考えると納得がいく、等)これは文脈≒型や様式美、作品がどういうフォーマットで作られるべきかの作法で作品を評価されているのだと思います。
これはまさに今までのスターウォーズ(ルーカスのスターウォーズ、特にEP1~3)が陥ってしまった欠点だと思います。
EP4で作り上げた文脈から考えて設定を複雑化していった結果、血統主義、排他的になり熱狂的ファンを生み出しした一方、物語を自分自身で窮屈にさせてしまった。また、ライトな一般層はついていけない、作品を冷めた目でみてしまうという事態に陥ったと思います。(これと似たような状態に陥ってしまった作品にマトリックスシリーズがあると思います)
この文脈(設定)を複雑化させて作品を作る、楽しむというのはオタク的文化だと思います。それが悪いという訳では無く、宇多丸さんの場合はスターウォーズについてはそのように楽しんでいられていた分、今までの文脈を壊そうとしている本作を酷評したのかなと感じました。
では、なぜ宇多丸さんが作品を文脈で捉えるのかというと作品を深く知る、勉強をすることに主眼が置かれてしまっているのかなと感じました。
この作品を様式美で楽しむというのは勉強熱心で立派なことであり、悪いことではないですがクリエイターがその観点を持ってしまって良いのか、と感じます。
特にヒップホップというのは音源を他から持ってきて作る芸術なので当然、他作品の影響のもとにあるわけですが、そのパクってきた音源をどのような様式で流すのかがクリエイティビティであり、そこで他作品の文脈を考えるのは創作の放棄だと思うのです。
宇多丸さんのスターウォーズの評論から宇多丸さんは思いれが深いものほどこの文脈、様式美で考えられているのかなと感じました。
本作の感想とは異なりますが、宇多丸さんが創作物をどのようにとらえ、そして自身がどのように創作をされているのか私的に垣間見えたのでここに述べさせていただきました。
長文失礼しました、宇多丸さんの評論に納得いかなかったので書かせてもらいました。