雨の日は会えない、晴れた日は君を想うのレビュー・感想・評価
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晴れた日は家を壊す。
設定があまりに似ているため「永い言い訳」と比較してしまう
のは致し方ないことだと思う。自分の心を再度新構築するため
他者と関わり子供を交えるのも似ているが、誰もが同じ方法で
立ち直れるなんてことはない。今作の主人公は徹底的に壊して
バラバラにして方法を探る手段に出るが、あまりにダイレクト
に家までぶっ壊すものでやや退いてしまった。詩的なタイトル
の意味は最後に分かるが、原題との差が大きいので戸惑う観客
もいると思う。自身もこういう内容だとは思わなったが、新鮮
な表現にギレンホールのはちきれんばかりのキレ演技が作用し、
何ともいえない印象を残した。義父のクーパーが好演している。
今まで人としての心を持っていなかった、何にも関心がなかった男が妻を無くしてから色々なことに興味を持ち始めていく。それは普通とは違う。分解、破壊という好奇心に駆られる。
本当は彼女が自分にとってかけがえのない人だったんだと気づいた。
初めて彼の演技を見たのはTVでやってた「day after tomorrow」だった。ギレンホールの演技は凄い。美形で睫毛長くて。
題名とパッケージの絵に興味を持って借りたが邦題は内容と関係ないと思う。
破壊
妻を失った夫の再生の過程が『破壊』という方法だったのが斬新。
色々なものを破壊していく過程で、亡き妻との生活、自分の行動や想いを蘇らせて、納得いくまで 破壊しまくる感じがクレイジーだった。
防弾チョッキ着ていても、あれはビックリ。
家庭環境はこどもの情緒にダイレクトに影響するなって確信が持てた!
色々な形の愛があるけど、包容力ってことなのかな。
ふつう
ウォール街のエリート銀行員として出世コースに乗り、富も地位も手にしたデイヴィスは、高層タワーの上層階で空虚な数字と向き合う日々を送っていた。そんなある日、突然の事故で美しい妻が他界。しかし、一滴の涙も流すことができず、悲しみにすら無感覚に自分に気付いたデイヴィスは、本当に妻のことを愛していたのかもわからなくなってしまう。義父のある言葉をきっかけに、身の回りのあらゆるものを破壊し、自分の心の在り処を探し始めたデイヴィスは、その過程で妻が残していたメモを見つける。それから彼の心は徐々に変わっていく。デイヴィスは脳に障害があったのだが・・・
思考停止男の悪あがき
突然妻が死んだ。だけど僕は悲しみを感じられない。
そういう始まりです。
西川美和監督『永い言い訳』とコンセプトが似ている作品です。
『永い言い訳』がとても好きなこともあって、ちょっと比べながら見てしまいました。
こっちの残された夫は、不倫していたわけはないです。
でも妻をとても愛していたかと言われれば、微妙。
何も感じずにただ無為に与えられた日常を生きていただけの人として
描かれています。おそらく巷にあふれる思考停止を生業としたような人たちの象徴なのかなと。
同じ車に乗っていた妻が死にました。
悲しくない。
悲しくなさにさすがにがっかりして、逡巡していたら、
妻の父に言われた「分解して再構築」というキーワードを
物理的に実践してしまい、妻関係でできた人脈に腫れもの扱いされていきます。
また、妻を失った病院の自動販売機が壊れており、
m&m(チョコ)が買えない。そのやるせない怒りを何度も
自動販売機のベンダーにクレームの手紙を書くことでちょっとずつ
吐き出します。まあ、クレームっつうか、自分語りの手紙でした。
その手紙を見て心配してくれたシングルマザーとその息子と知り合い、文字通り人生を分解して再構築していく話です。
ナオミワッツが最近どこでであってもよくて、今回もよかったです。
裕福でないシングルマザーで、一人息子を愛しながら、
少し心を閉ざし気味の息子をどう扱っていいかわからなくて、
人生の心もとなさを埋めようと、あんまりふさわしいとは
いえない人(会社の強面社長)と付き合っているという設定です。
心を閉ざし気味の息子ってのは、自分が何かってことにもやもやしているローティーンなわけで、有体にいうとゲイなのかもと悩んでいるんです。かわいい男の子なんですが。彼がディヴィスになついていく過程はとても好きでした。
ラストでね、ゲイバーに行ったのかな?そこでボッコボコに殴られちゃうのね、それが辛かったです。
正直ディヴィスの逡巡よりも、ナオミワッツとその息子の方に私は肩入れしてみていました。
そして、主人公ディヴィスです。
私は、思考停止した人が嫌いなので、実生活にいたらとっても嫌ってしまい、彼の気持ちを考えることはしないでしょう。
でも、映画なので、ちょっと寄り添ってみようかなという気になりました。
美しい妻となんとなく結婚して、妻の父の銀行で一生懸命働いているけど、それだけで。もちろんそれはがんばっているからなんですが。
妻がどう愛されたがっていたか分らず、
自分が妻をどう思っているかもわからず、
妻を失ったことで、その悲劇を悲しめなくなって初めて、
これじゃいかんと破壊を始めます。
トイレを壊し、家を壊し、パソコンを壊し。
妻のドレッサーを壊していて、妻の妊娠と中絶を知ります。
そしてその理由が、妻の浮気での妊娠だったからだと知ります。
妻は自分を愛していなかったか?
いや、そうではない。妻は、ディヴィスにもっと愛されたかった。
でも夫の愛を望むように得られなくて、悲しかったのではないか。
冷蔵庫のポストイット、車のサンバイザーの裏のポストイット、それから、記憶の中の妻の様子から、妻を思い、自分が見逃してきたものを後悔し、ついには妻を愛していたことに気づき、ようやく悲しめる、というお話でした。
まあ、デイヴィスの逡巡は、さしてわかりにくいこともないのですが、
鑑賞環境が良くなくて(他人の体臭や立てる音に集中を削がれ)、
ちょっと細々わからないまま見ていたんです。
特にサンバイザーの裏のポストイットは邦題の『雨の日は会えない、晴れた日は君を思う』と関連しているわけですが、なんのこっちゃわからんくって、
見た後でああ邦題!、だけどどんな文脈だった?っていう感じで、
ちょっと消化不良なんですね。
あと、描き方がちょっと抽象的な感じがして、あらすじから多分、
こういうことかなーと補完は出来なくもないんですが、
意図が読み切れない感じが、もやーーっとしたんですね。
機会があれば見直したいです。
『永い言い訳』との比較もあって、そっちが私的にすごく良くて、
なので、この映画はそれに比べりゃ踏み込みが浅いように思ってしまいました。
『永い言い訳』はもっと人とのかかわりから再生していく話で、
この映画は、自省がメインですね。それが悪いというわけではなく、好みの差です。
もうひと壊しして欲しい!
ジェイクギレンホールとナオミワッツ、そして子役の演技が冴えてた。出てくるキャラはどこか皆、壊れている。普通に生きることの難しさよ。
脚本は練られていたが、主人公が仕事の価値を見いだせない金融マンというのがやや記号的で残念。永い言い訳が引き合いにだされるが、死後に何かに気付くという話はどこか自慰的で共感しにくい。男の独りよがりぽくないか。
ところでラストシーンはなんだったのだろう。他に気になったものは義父の壁時計。雑踏の逆再生。子役の覗き趣味。地獄谷の猿。釘を踏んだら心も痛い!グルーミングしなくても髭は剃るもの。
人がいなくなって、より一層考える
近しい人が自分の人生からいなくなると
その人のことはもちろん、
その人との関係や
自分自身のことを見つめなおすことになる。
「一緒にいる時だけがその人のつながりではない」ということを再認識させてくれる映画。
人間関係は上手くいっていても、
いっていなくても
何らかの問題はあるもので
中々立ち止まって見つめなおすということはしないまま
日々を過ごしてしまうけど
人がいなくなると
そのことを立ち止まって考えずにはいられなくなる。
考えずにそのまま過ごしてしまう人もいるのだろうけど、
立ち止まる時間ができることはある意味幸運なのかもしれない。
すべてがメタファーに思えるという主人公のセリフにはとても共感しました。
今回の邦題、グッジョブだと思う。
雨の日に会えなくて、晴れの日にも会えていないんでしょ?
なんかおしゃれ、って言ってほしいような邦題に、こりゃまたつまんない邦題をつけやがったか?と懐疑的だった。
最後の最後に、この言葉が書かれた付箋がサンバイザーの裏から出てくる。バイザーを開いてはじめて気が付くように、生前の妻が仕込んだものだ。言葉の内容はなぞなぞ、答えはサンバイザー。冷蔵庫の水漏れとかに付箋を使っていたので、ここでの付箋の登場に違和感はない。
しかしこの付箋を見つけたデイビスは、それまで妻の死に鈍感であった(と思い込んでいたが実は相当に参っていたが)感情を、雪崩のように崩してしまう。そりゃそうだ、サンバイザーは、まるで妻のことなのだから。
気持ちを入れ替えて、妻の残した資産の使い方を考えるデイビス。それは、かつての思い出を守るような結論。幻想的にも思えるメリーゴーランドのシーンに涙。
だけど、「永い言い訳」に遠く及ばない。
カレンの息子とのふれあいはいいが、銃を撃たすのはどうか、と思う。
カレン自身、クスリに手を染めているのも同情できない。
自販機管理会社へのクレームがきっかけ、はいいが、何通もの手紙には違和感。それを読んでストーキングするのも違和感。
なにより、「まず分解してみる」ていうのはわかるにしても、家をそこまで壊すのはどうよ?
所詮、金持ちだから、そんな無駄金を使えるんだろうし、いつまでも凹んでいられるんだろう。貧乏人には、もう目の前に日々の生活が迫ってきていて、そんな感傷には浸っていらんないよな、って結局冷めたのが正直な感想。
恋愛映画じゃない
妻の喪失をキッカケに心身のバランスを崩した主人公が、分解と破壊、同じくパートナーへの無関心や社会的承認に苦しむ母子との関わりを通して、妻への愛や他者との関わりに気付くまでの物語。
ポイントとなるのは主人公の自己の再生。
破壊するのは周囲の物品ではなく、独我論("solipsism")的パースペクティブに基づいた世界観や、それを形成する自我・自己認識。
ひび割れた"見ざる・聞かざる"のJakeの劇場ポスターは、Davidの世界観の崩壊の序曲であり、"隠喩"。
ラストの少年たちと駆け出すシーンは、かけっこが好きだった少年時代の"隠喩"であり、両親からの承認を求めていた少年時代宜しく、他者との関わりの中で生き始めた象徴。
キーワードは"grooming"(身繕い)と"regards"(愛情、関心、思いやり、眼差し; attention, care)。
妻の回想シーンから分かるように、Davidの中には、妻の思いやりが経験的記憶として刻み込まれ、無意識に"愛された記憶"として残されてゆく。
妻の死から、投げかけられる愛情("regards")は失われ、代わりに他者とDavidの隙間は彼の"好奇心"で埋められてゆく。
それは初め純粋な好奇心からの"分解"として発露し、義父への怒りを交えながら"破壊、解体"に転化してゆく。
それは、「国を守りたい」などの幼稚な自我の現れだった。
だが、その幼稚な自我を無軌道な行動によって表面化し、無意識下の自己を"自分自身にやって見せ"ることによって、Davidは、自分の中のJuliaの存在に気付くことができた。
中絶した事実からも分かるように、他者からの気遣いに飢えながらも、妻は最後までDavidからの気遣いが投げ返されることを待ち続けていた。
それを中断した衝突事故は悲劇的。
結局、全遍を通して、観客もギレンホールも、妻の死から立ち直るまでの間、冒頭5分の車内に閉じ込められていたのだと思う。
夫の無関心を咎めるような妻の眼差しは、愛情の裏返しであり、見るたびとても切ない。
妻からの愛情に気付く出来事が、全くの他者だった"ドライバー"によってもたらされるのもユニーク。
自分と妻との関係、あるいは浮気相手の存在に悩むDavidにとって、事故を起こしたドライバーはそれまでの関係性の輪の外側にあって、全くの他者だった。
妻の死を思い、再び自己認識の世界にこもるDavidにとって全くの"surprise"であり、外に向いた関心を契機に、タイトルのメッセージに、ようやく妻の言動の意味、妻からの愛に気付く。
レビューのタイトルにある通り、これはただの恋愛映画ではございません。
誰しもパートナーや友人、周囲の気遣いに気が付かず、後で思い悩むことがあると思います。
これらをすべて飲み込んでエンディングを迎えた時に得られる"赦し"の感覚がたまりません。
"I wait, and I wait, to make a new start.
A new beginning, but it feels like the end."
"I'm trying to see the bright side, ....The more I look up, the more I feel below."
情感たっぷりのintroと共に歌い出されるHalf Moon Runの"Warmest Regards"。
この歌詞の最後でも分かりますが、この物語の中における"赦し"は、与えられるものではなく自分の中に"気付く"ものになっています。
タイトルの"Warmest Regards"、親しい人への手紙の結びによく使われる言葉ですが、何気なく使われるこの言葉の意味が、この映画以降、全く異なる意味合いを帯びてゆきます。
ここで言う"regards"とは、形式的な言葉一つ一つに加えて、そこに載せられる"注意(attention)"、"配慮や気遣い(care)"のこと。
Davidが内なる好奇心に気付き始めた際のの"Probably I saw it, but not paying attention." や、義父との関係を再構築する際の"There was love between me and Julia, but I did not take care of it." のattentionとcareは、 この「他者に向けられる意識」のことを指します。
何気なくされる挨拶や仕草、一つ一つは形式ですが、相手への特段のattentionがあれば、その行為に意味が生まれるし、受け取る相手がそれを汲み取れば、そこに異なる関係性が生まれます。
観客にもDavidと同じく他者理解を追体験させようとしているのか、人物の動機づけの説明や心的描写のシーンがほとんどありません。
それを一々登場人物に説明させずに、"手紙"というまとまった機会に落とし込めたり、さり気なく独り言のように呟かせたりと、とても上品な映画だと思いました。その代わり、観る側にとても強いる映画になっています。
セリフや表現による分かりやすい主人公の動機付けに乏しく、Davidの動機が分かる独白や手紙のシーンは、キーとなる重要なポイントのみに限られています。
それ以外は、Davidの無意識も含めた心境の変化を隠喩的に散りばめたシーンの連続で、動機づけや隠喩、各シーンの意味合いは前後関係から観客自身が探らねばなりません。
("影絵"のシーンなど、両義的な表現もあり、観客同士の対話を促す側面もあります。)
視聴する際、一定のポイントといくつかのキーワードを設けると一通りの解釈を得ることができます。
観るたび元気付けられる映画です。
人に優しくする、というより、"この人は何をしようとしてるのかな"、と他者への関心がよみがえる映画。
現実の"私"の関係性は変わり続けるから、いつ見ても新しい。
この映画を観る時間帯によっても面白さが変わるかもしれません。
普通の社会人なら、週末日曜の夕方最後の時間帯に映画なんて観に行かないと思うんですよ。
翌朝の出勤前に、何を想い、この映画を見に来たのかな、とか。(来週この時間帯に行ってみようかな……。)
少なくとも二回目以降、私にとって、この映画を観る時の劇場は特別な空間でした。
正直に生きてるわけじゃない
期待していたのに、全然感情移入できずわりとずっと傍観してるかんじだった…
妻を亡くして心のバランスが知らず知らずの内にに崩れていくのは分かるんだけど、その振り切れ方が結構すごかった。
ちょっと去年末の、ワイルド 私の中の獣 を思い出した。
m&mの会社に手紙を綴って自分語りをするのは面白かった。
登場人物みんなどこかおかしかった。
ビジュアルの美しい人ばっかりだったから飽きずに観ていられたけど。
大麻を常用するシングルマザーのカレン、彼氏はなんか怖いし主人公を尾行したり家に入り浸らせたり冷静に考えると嫌だわ
息子のクリスはその危うさ故かすごく綺麗だったけど、防弾チョッキ着てるからってそんな簡単に人を撃たないでくれ〜 ってヒヤヒヤした。
最後もよくわからない。
なんかスッキリ終わったような雰囲気醸し出してるけど、あのビルの崩壊はなんなの?
まあメリーゴーランド復活させて良かったね で終わられても困るけども。
とにかく釈然としなかった。
けど意外にも笑いどころが多かった。
ファック使いすぎのくだりは本当好きだし、デイヴィッドの濃い顔の表情芸も楽しめた。
振り切れた彼と通常運転の周りとのズレたやり取りもなんか面白かった。
演技もかなり良かったし。
仕事で疲れきった夜に観たのが悪かったのか、いちいち現実でこんなことしたら! って考えて上手く映画に入りきれなかったのかも。
私自身色々抑えすぎてストレス溜まってるからデイヴィッドのようにワーーッてなりたいんだけどね…
今の私には心を温めて全身包んでくれるような映画が必要です…
まあまあだった
奥さんが死んだのに泣けず、最後に奥さんを思って号泣でもするのかと思ったら、改めてやっぱり好きでなかったというような自分本位ぶりを確認するようなお話で、文学的ではあるものの全然感動もできず、がっかりする結論であった。
シングルマザーの連れ子と銃で遊んで撃たれる場面は面白かった。
疎かにした愛の報復。そして修復のための破壊。
妻を交通事故で亡くし、そのやり場のない感情をなぜか商品が出てこなかった自動販売機のカスタマーセンターへの苦情の手紙に認(したた)める男。愛する人を失って悲しい、という物語ではなく、失った人のことを心から愛していなかったことに気づくやり切れなさ、そして涙も出ない悲しみも押し寄せてこないことに対するもどかしさ、確実に心は壊れて傷ついているはずなのに、そのことに自分だけが気づかないまま日々が過ぎていく。そんな男が、義父に言われたある言葉を思い出し、行動に移す。
それは、原題の意味でもある「破壊」「解体」。壊れたものを修理するには、一度分解する必要がある。男は「修復」のための「破壊」を繰り返す。自宅の冷蔵庫、オフィスのトイレ、挙句には妻と暮らした家そのものまで壊し始める。その「壊す」という行為がなんだかとてもシンボリックに見えて、ちょっとしたフェティズムまで感じるほど。この映画、撮りようによってはちょっとしたヌーヴェルヴァーグ映画のようになっていたかもしれない。この映画の破壊にもし官能が加わっていたら、それは現代のヌーヴェルヴァーグだったかも。
簡単に言ってしまえば、妻を亡くした男のこころの再生の物語、ということになってしまうのだけれど、その過程が「破壊」であるという独自性と信憑性のつけ方が個人的に好きで、作品のタッチも私好みだった。
この邦題のつけ方も悪くない。映画を見た後で、ついついこの邦題について語りたくなってしまうって、ある意味すごく巧い戦略。実際、作品を見れば、このタイトルの意味が分かる仕組み。なるほどね、と。疎かにしてしまった妻への愛の有様を、妻亡き後、助手席のサンバイザーに張り付けたメモが語るという巧さね。しかもそれを一度、読まずに握り捨てているのも鍵。こういう映画、好きです。
あまりにもメタファーだらけの作品で、セリフで説明しない部分も多いので、本当に映画全体を見渡していないとなかなか理解しにくい部分もあるかもしれないし、主人公の気持ちに寄り添えないと「共感できない」の一言で片づけられてしまいそうなのだけれど、逆に主人公の気持ちに心が重なって、物語の意味が突然ふと分かる時がくると、すごく心に染みるいい映画だと思えると思う。私は偶然この映画が心にハマって、じっくりしみじみ胸が震えるような感覚でした。
日本語タイトルが指すところ
原題は「DEMOLITION」(解体、分解)。
これが何故、こんな日本タイトルになったのかしらん、と訝しく思うことしきりなのですが、それは観てみて、よくよく考えるとわかる。
金融会社のエグゼクティブを務めるデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)。
彼がいまの地位にいるのは、妻のお陰。
妻の父フィル(クリス・クーパー)が会社の社長で、結婚を機にいまの地位を得た。
しかし、エグゼクティブとして多忙な日々は、妻との生活を遠ざけてしまっていた。
そんな中、デイヴィスは妻が運転する自動車に同乗していて事故に遭う。
そして、こともあろうか、妻は死に、自分は生き残ってしまう。
妻が不在の日々・・・
けれど、デイヴィスには悲しみの気持ちが湧いてこない・・・
というところから始まる物語で、デイヴィスの悲しみさえ湧いてこない空虚な心を抉(えぐ)り出すような映画である。
この後、デイヴィスは二つの行動をとる。
ひとつは、妻が亡くなった日、病院の集中治療病棟で利用したスナック菓子の自動販売機が不調で商品が出ず、そのことについてクレーム状を自販機会社に送ること。
その際、妻が亡くなった日であること、それをきっかけにして、妻と自分の過去を思い出し、クレーム状に綴っていく。
これは、その後、自販機会社の顧客担当カレン(ナオミ・ワッツ)とその息子との何やかやの事件へと発展する。
もうひとつは、事故に遭う直前に妻から頼まれた水漏れ冷蔵庫の修理。
「修理の前には分解することが必要」という義父の言葉を妻から思い出し、分解する。
ただし、分解ではなく、解体・破壊といったような状況。
その後、この解体衝動がデイヴィスにつきまとう。
解体したかったのは、さまざまなモノではなく、自分の心だということに気づいているのかいないのか判らずに。
解体した自分の心が、カレンとその息子との触れ合いで再生していく・・・
簡単に言えば、そんな物語なのだけれど、ひとえに演出に起因するのであろうが、気づいていく様がわかりづらい。
この映画でキーとなる台詞はいくつかあるが、いちばんのキーポイントは、自分の心と妻の心に気づいたデイヴィスが、終盤、フィルに言う台詞。
「愛はありました。しかし、疎かにしていました」
夫婦生活が危うくなっている中で、どうにかにして、幸せだった日々を思い出してほしいと、妻が発信していたメッセージを気づかなかったデイヴィス。
それに対して後悔を表した台詞である。
そして、妻が発信していたメッセージは・・・
ひとつは「水漏れを止めてちょうだい」、
もうひとつは「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」、
そして「椅子以外は、あなたは座るところに興味がないのね」。
ひとつめの「水漏れを・・・」は、妻がデイヴィスに頼む事柄であるが、冷蔵庫の内側に付箋紙で貼り付けられている。
これは、冷蔵庫自身が発している言葉でもある。
ふたつめの「雨の日は会えない・・・」は、自動車のサンバイザーに貼り付けられている付箋紙の言葉。
これも、サンバイザーが発している言葉であるが、同時に、妻がデイヴィスに発している言葉でもある。
最後の「椅子以外は・・・」は、デイヴィスと妻が、まだ幸せだった日に、海岸の古い回転木馬にふたりで乗った日、木馬に乗った妻が傍らに寄り添うデイヴィスに言った言葉(ただし、映画では台詞の音声は消されている)。
そして、これは、事故直前に妻がデイヴィスに投げかけた言葉。
いずれも、危機的状況の中で、わずかながらの希望と愛を信じて、デイヴィスに投げかけていた言葉。
デイヴィスは、それに気づかなかった。
そして、もうひとつ、この映画で重要な点は、妻が妊娠していて、中絶をしたということ。
映画の中で、妻の母親から、子どもは妻の情人の子どもだったとデイヴィスに告げられるが、そこのところは、あからさまには描かれない。
というか、妻に情人がいたことは、少しも描かれていない。
さらに、デイヴィスを付け回す自動車の主が、妻の情人ではなく事故の加害者だったということから考えると「情人はいなかった」と推察できる。
つまり、子どもはデイヴィスの子どもであったが、なんらかの理由で中絶したということ。
その理由は、エンディングからこれも推察すると、妊娠時検査により胎児がダウン症だったからではなかろうか。
推察する根拠は、
胎児のエコー映像に何らかの文書(診断結果と思われる)が一緒に出ていること、
エンディングで、妻と一緒に乗った回転木馬(解体ではなく修理している)に、ダウン症の子どもたちをたくさん乗せて楽しんでもらうイベントを行っていること、
そして、そのイベントで子どもたちと一緒になって義父も微笑んでいること、
などを挙げることができる。
そういう意味では、この映画の後半、物語はすこぶる厚く、ドラマチック。
なのだが、監督のジャン=マルク・ヴァレは、そんなドラマチックなストーリーテリングを拒絶するかのように、説明を省略し続ける。
「愛はありました。しかし、疎かにしていました」、それさえ判ればいいだろうといわんばかりに。
これだけ長々とレビューを書いたのは、観終わって、この映画にどこかしらの蟠り(わだかまり)を感じたから。
ストーリーテリングを拒絶するようなぶっきらぼうな演出と、その奥に隠されていると思われるドラマ性。
それを、自分なりに読み解いてみたかったから。
まぁ、かなり、一緒に観た妻に助けられたところはあるんだけれど。
評価は結構迷ったのだが、演出のわかりづらさはやはり減点せざるを得ないだろうから、この点数としておきます。
蓄積された
主人公が行なった破壊活動は見ていてとても爽快な気分になりました。私達が普段抱え込んで塞ぎ込んでしまうようなところを主人公は破壊(分解)を行うことによって自分にわかりやすいように咀嚼したのではないでしょうか。だからこそ、私達はカレンと同じようにあなたのように正直になりたいと思うのだと感じました。主人公に愛を疎かにされながらも、ジュリアが車のサンバイザーにメモを残してあったところでは心の中に温かいものが広がりました。類をみない作品だと思います。
私にはわかりにくかったのですが
頂いたチラシを読んであらすじチェック、妻に先立たれた夫の…という事で、夫婦愛を描いた泣ける感動映画、亡くなった奥さんの深い愛情に、仕事人間の夫が人間らしさを取り戻していく…なんてストーリーを勝手に想像。
そう思い込みつつ映画が始まり鑑賞しているも違和感が、まず亡くなった奥さんの愛があまり感じられない事。
仕事人間の夫デイビスは徐々に奇行に走り出し、突然非常停止レバーを引いて電車を止めたり、公共物を勝手に分解しまくったり、精神が病んできたかのような行動を起こすが、「物を大切に」「他人に迷惑を掛けない」という日本人感覚の私はあまり同情できなかった。そんなこんなでハッピーエンドのような結末を迎えますが、私はあまり釈然としないまま。
(以下ネタバレですが)映画の帰り道、同行者とちょっと語り合ってみたのですが…自宅を破壊したデイビスが奥さんの鏡台から発見した書類、私は何だかわからなかったのですが、同行者によれば胎児のエコー写真だったとのこと。なるほどつまりこれが不貞の証拠だったのか。あと最後のメリーゴーランドも、楽しんでいた子供達が障害者ぽかったという事で、基金の使途は社会福祉的なものだったのねと納得。他にもアレコレ、ちゃんと見ていればそれと繋がるようなシーンが随所に隠されていたようで…私にはちょっと高度過ぎました!慧眼の同行者のおかげで評価がちょっとあがりました。
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