「少女たちの眩しさが、古い慣習に縛られた社会に打ち勝つ。」裸足の季節 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
少女たちの眩しさが、古い慣習に縛られた社会に打ち勝つ。
冒頭から、眩しいようなシーンが続く。舞台は北トルコの田舎町。突き抜けるような水色の空、ターコイズブルーの海と白い浜。柔らかなオレンジ色の輪郭をした光が差し、濃緑の草や葉がそれを跳ね返す。まるで自然という名の万華鏡を回すように色彩豊かで煌びやかだ。更にその中に駆け込む少年少女の若々しさ。服も脱がずに海に飛び込み、しぶきをあげて燥ぐ少女たち。あまりの瑞々しさに目が眩む。しかし、その眩しさこそが、少女たちの運命を変えてしまう。
つまりは、海辺で男の子に肩車されて無邪気に遊んでいたのを、周囲の人々が勝手に性的なイメージと結びつけて「穢らわしい」と非難しはじめるのだ。田舎町の小さな世界の中では、そんな風評が広がっては嫁の貰い手がなくなると、少女たちは家の中に閉じ込められ、窮屈な日々を送る羽目に合う。そして本人の意志とは関係なしに縁談を勝手に取り決められてしまうのだ。それにしても「下半身を男の子の首に擦り付けていた」だなんて、なんて下品な解釈だろう。ただの微笑ましい肩車だったのに。
ここで取り上げるべきは、少女たちが自分たちなりの方法でそんな古い慣わしと閉鎖性に反抗する点だろう。泣いて嘆いて悲劇に浸る者はないのが心強い。それでも最後に望まない結婚に従うしかできないところに、空しさと切なさが残る。少女たちも、慣例に刃向かいながら、一方で従うことを受容している。これはこの映画だけの話ではないし、トルコだけの話ではない。もっと身近な身の回りの世界に通じることだ。日本でも、女性を性のレンズ越しにしか見ない風潮はまだ色濃いし、それに迎合することで得しようとする女の存在もある。自立したキャラクターで売れていた女性タレントが結婚し子どもを産んだ途端に家庭的アピールを始めるなどは、まさしく「慣例に反発しながら最後には慣例を受容してしまう」典型ではないか。
だからこそ、最後に末娘のラーレが見せる反逆と脱獄に一気に熱がこもる。女性を縛ることしかできない古い慣習にラーレは堂々と蹴りを入れて駆け出す。その小さな少女の姿に、大きな勇気をもらう。
この映画に出てくる少女たちは、本当にキラキラと輝いて目映い。ポップコーンのように飛び跳ね、鈴の音のように笑い、姉妹がじゃれ合う姿はまるでジェリービーンズが転げているかのよう。正真正銘「少女の輝き」に溢れている。そんな姿を見ていると、強い風に吹かれ気ままになびく長い髪のように、少女は自由であるべきだと強く思う。