「真実性と物語性の致命的な欠如。」君の名は。 ふぉるくんさんの映画レビュー(感想・評価)
真実性と物語性の致命的な欠如。
◯「秒速5センチメートル」にみる新海作品の特異性
新海誠監督の作品鑑賞は、「秒速5センチメートル(以下、秒速)」以来である。「秒速」は、主人公2人の「内なる世界」を描写した物語であった。主人公2人を異物として切り離すクラスメート、息苦しさの根源的要因として描かれる現代社会。その対立構造が、2人の関係性により特別感を演出し、短編作品としての完成度を際立たせるのに効果的であったように思われる。そこでは、2人の「内なる世界」の特別感を演出するために、それ以外の登場人物や社会そのものが2人にとっての「異物」、つまり「外なる世界」として描かれた。2人だけの世界では、2人の人間が感情を交流させていた、それ故に物語の世界から完全に孤立した「内なる世界」には特別感があった。短編作品としては、非常に完成度が高いように思われた。ただ、そこにはリアリティやストーリーテリングといったものの存在がない。「内なる世界」で紡がれる2人の関係性に特別感を演出するために、「外なる世界」のすべての事象は、機械的な記号として描かれたし(ストーリーテリングの欠如)、それ故、世界からはリアリティが欠如していた。しかしながら、僅かな時間と登場人物を以って、「内なる世界」で紡がれる2人の特別な関係性には、浮世離れした不思議な魅力が確かに存在していたし、その幻想的な世界観の演出を目的とした短編作品には、そもそも真実性(リアリティ)も物語性(ストーリーテリング)も必要なかったのであろう。
◯真実性、物語性の欠如からくる違和感
「君の名は。」という作品も、「秒速」と同様に瀧と三葉の「内なる世界」を描写したものであった。ただ、「君の名は。」と「秒速」には決定的な違いがある。それは、長編作品であるのか、短編作品であるのか、という点だ。そして、両者に共通するのは、やはりリアリティとストーリーテリングが致命的なまでに欠如している、という点である。順を追って説明を加える。
リアリティとは、「現実性」ではない。アニメ作品は、アニメ作品である以上、奇跡が許されているし、私もSF作品を好んで鑑賞する。ここにいうリアリティとは、「真実性」である。「君の名は。」に登場する瀧や三葉が生活する「空想の世界」が如何に真実性(リアリティ)に富んでいるか、そういった意味で受け取ってもらえるとよいだろう。さて、「君の名は。」に描かれる「空想の世界」のどこが、どのように、リアリティに欠けているのだろうか。男女の身体がリバースする、という設定はありふれているし、そこは問題ではない。ここで問題とすべきは、一度も顔を合わせたことのない男女が如何にして、尋常でないほどに恋い焦がれ合うようになるだろうか、という素朴な疑問である。リバースを重ねる度に、互いの存在を認識し、求めるようになったのであれば、常識的に考えれば、声を聞きたい、実際に会いたいと思うのではないだろうか。そうしたプロセスもなしに、瀧は、未だ実際に顔を合わせたことのない三葉のために尋常でない労力(コスト)を払う。その割には、三葉の父親である町長には、あっさりと引き退る。やはり、リアリティがない。真実性の証明が難しい場面が多すぎるのだ。
ストーリーテリングはどうだろうか。たとえば、瀧の考えを追認し、無償で支援する友人たちの存在はどうだろうか。親しい友人であれば、そう易々と瀧の考えをすべて追認するとは考えにくい。であれば、瀧の考えを、考えなしに追認するような関係の浅い友人が、無償の支援を行い得るだろうか。友人の存在に対する漠然とした違和感は、ストーリーが終盤に進むにつれてより強くなる。意味深げに画面に映る巫女は、神社は、何か物語の根幹部分を成していただろうか。自らしか隕石の危機を知らぬはずの瀧が、尋常でない労力を払った挙句に、町長の説得を試みず、そう易々と引き退るのが自然だろうか。そこからは、ストーリーテリングを感じ取れぬ。この作品に物語性はあるのか、と問わずにはいられないのである。(SF作品としての作り込みの甘さは、ここでは言及しないが、「内なる世界」を描くという目的に対して、SF作品としてのリアリティを追い求めることは、無意味であるとの判断があったのだろう。詳しくは以下を参照。)
◯違和感の正体
私は、「君の名は。」も「秒速」と同様に瀧と三葉の「内なる世界」を描写して作品であると指摘した。つまり、2人の特別な関係性を演出することを目的とした作品であるからこそ、そこにはリアリティもストーリーテリングもはじめから存在しないのではないか。「内なる世界」で紡がれる2人の特別な関係性を演出するためには、友人も、家族も、街も、風景も、隕石ですらも、それをより効果的に引き立てるための記号に過ぎないのである。であればこそ、そこには真実性も物語性も存在しないし、寧ろ存在する必要はないのである。そして驚くべきことに、「内なる世界」の特別感を演出するという目的を完遂するためには、瀧は瀧である必要性はなく、三葉は三葉である必要性はないのである。2人もまた、「内なる世界」の特別感を演出するための記号に過ぎないからである。だからこそ、ストーリー序盤ではリバースがコメディのように描かれ、恋愛作品としてのリアリティすら感ぜられないように思われても、終盤にかけて、瀧は実際に会ったこともない三葉を恋い焦がれ、尋常でない労力を払うというストーリーテリングのカケラもない行為に及ぶことが可能なのである。
以上が、違和感の正体である。
「君の名は。」という物語は、「内なる世界」の特別感を描写してきたら新海作品の一作品に過ぎない。では、なぜ「秒速」を評価しておきながらも、同様に「内なる世界」の特別感を描写した「君の名は。」の評価を☆1とするのか。答えは、明瞭だ。何故なら、「君の名は。」は、長編作品としての体を成していないからである。私にとって「君の名は。」という作品には、PVを長編アニメーション作品に引き延ばした、といった印象しか持ち得ないのである。
短編作品で真実性と物語性の欠如が許されるのは、PV(プロモーション・ビデオ)が非物語的なアプローチで製作することを許された芸術作品であるからだ。そこが長編作品との最大の違いであり、「君の名は。」はそうした意味では、長編のアニメーション作品としては、評価のしようがないのである。
映画作品において、真実性と物語性が欠如しているといるということは、世界観が作り込まれず、登場人物が感情を持たない記号として存在していることを意味する。ここまでこのように長い駄文を読み進めてくださった読者であれば、それが物語としての死を意味することは、想像に難くないことであろう。
◯補稿(Y2さんコメントいただき有難う御座います。真摯に受け止め、可能な部分については返答致します)
>これほど「外なる世界」と戦った新海作品は他に無い
「君の名は。」鑑賞後、新海作品をおおよそ鑑賞しましたが、共通するのはやはり「内なる世界」の特別感を描写している、という点です。「君の名は。」の場合、男女の恋愛という「内なる世界」に、隕石災害という「外なる世界」の大事象が直接的に接続されています。しかし、これ自体が「内なる世界」の特別感を効果的に演出する目的で隕石災害という事象を記号=道具(演出装置)として登場させたに過ぎないように思われます。
>交換日記、あるいは文通ってしたことあります?
>想像力がかき立てられる分、むしろ恋の炎が燃え上がっても不思議は無いと思います
あります。
不思議はないでしょうが、そうした仮説を決定づけるような描写(心情の変化)、演出には心当たりがありません。
>単純に三葉の父親の胸倉をつかんだあとの詳しい描写がされてないだけ
どこかで新海監督のインタビュー記事を拝見しましたが、瀧と三葉の心情に焦点があるため、その場面を描くとブレが生じるといった趣旨のコメントをされていました。しかし、その場面を描写しないことで、物語の接続が曖昧になり、ストーリーテリングが薄弱化しています。映画は大衆作品である以上、物語の整合性は非常に重要なことのように思われます。ただ、この場面のストーリーテリングの軽視が、「内なる世界」の特別感を演出するのには必要なかったからであるとすれば納得がいきます。
>好きな相手の無茶に付き合うことに理由は無いと思いますよ
それにしても、瀧にとって「都合の良い」友人として描かれ過ぎていることには違いありません。これも、「内なる世界」の特別感を演出するのには、友人らは瀧の考えを追認するのが都合が良かったということであれば納得がいきます。
>三葉が東京に来たとき瀧に会えたのは偶然というにはおかしすぎる
この点は、どのような作品にも散見されることなので問題はないかと。
>三葉の日記がなんで物理的に消滅してしまったか
リアリティとストーリーテリング軽視の結果でしょう。
ふぉるくんさんに冷静なコメントもらってびっくりです(汗)
私は割と情緒的に映画とか見ちゃうんで、どう考えても対立する構図だったもので……
で、個々の見解はとりあえず置いておきましょう。いいこと無いし(笑)
なのでひとつだけ書いておきますと(ふぉるくんさんのコメント内からの引用でもありますが)結局この作品の評価は、観賞した個々人が「真実性」と「物語性」を許容できるかどうかに収束するのではないかと
まあ悪い言い方をするなら、新海監督はこの両者を描くのがあまり上手くないということですかね……だとすれば、そのあたりはふぉるくんさんに同意です
とはいえ、そうなると世の中の人たち大半が割とそこまで考えてないってことになっちゃうんでそれはそれでどうかって気もしますが(^^;)
ではでは
ふぉるくんさんの意見に完全同意します。
この作品は料理に例えると高級食材と一流シェフをそろえ、雰囲気のいい店内で出された料理がなぜか生煮えだったという印象です。
いくら素材がよくても料理として完成していないものを客に出してよいわけはありません。
この作品を擁護する人は「客が自分で少し煮れば最高級料理になる」という人がいますが、調味料程度ならともかく、客が調理をしないと完成しない料理を出す店が地球上に存在するのでしょうか?
雰囲気や世間の評判に流されず作品そのものの価値をしっかり見極めてもらいたいものです。
じゃ、ちょっとだけ……
>「君の名は。」という作品も、「秒速」と同様に瀧と三葉の「内なる世界」を描写したものであった。
私は真逆のイメージを持ちました
これほど「外なる世界」と戦った新海作品は他に無いと思います
>度も顔を合わせたことのない男女が如何にして、尋常でないほどに恋い焦がれ合うようになるだろうか
交換日記、あるいは文通ってしたことあります?
ましてやこの作品の二人は周囲の友人達と接することで、入れ替わった相手がみんなに愛されている人間であることを認識しています
想像力がかき立てられる分、むしろ恋の炎が燃え上がっても不思議は無いと思います
>その割には、三葉の父親である町長には、あっさりと引き退る
単純に三葉の父親の胸倉をつかんだあとの詳しい描写がされてないだけだと思いますが
>瀧の考えを追認し、無償で支援する友人たちの存在はどうだろうか
作中で、奥寺先輩は瀧のことが好きで、司は奥寺先輩のことが好きで、テッシーは三葉のことが好きで、サヤちんはテッシーが好きという描写がなされてます
好きな相手の無茶に付き合うことに理由は無いと思いますよ
まあそもそも、三葉が東京に来たとき瀧に会えたのは偶然というにはおかしすぎるとか、ネット上に残した三葉の日記がなんで物理的に消滅してしまったかなど、致命的な疑問点はいくつもあるんですが(笑)
でも新海監督自身が107分の全てで退屈させない作品を目指した、と言うとおり、これまでの作品とは異なるエンターテイメント性の極致を目指した結果ではないかと
私の評価としては、これまでの新海監督作品の方が好きですけど、あまり肩肘張らずに見れる本作品もそれはそれで面白かったなというところでしょうかね