「無条件の優しさで悲しみは乗り越えられるか」君の名は。 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
無条件の優しさで悲しみは乗り越えられるか
東京で暮らす瀧(声・神木隆之介)は高校生。
夜な夜な、田舎で暮らす少女になっている夢を見る。
しかし、それは夢ではなく、その瞬間はその少女・三葉(声・上白石萌音)と心が入れ替わっていることに気付くのだった・・・
というハナシで、設定は大林宣彦監督の尾道三部作『転校生』を思わせる設定。
しかし、ハナシが進むうち、男女の入れ替わりによって互いのことを理解していった『転校生』の枠を超えていく。
瀧と三葉は、同じ時間を生きているのではなく、瀧からみて三葉は3年前の時間を生きている。
そして、三葉はある災害により、すでにこの世にいないことがわかる。
そこから主題が浮かび上がる。
「真実の愛を知ったひとが、その後その相手にめぐり会うことがないとしたら・・・」というもの。
おお、これは同じ大林宣彦監督の『時をかける少女』ではありますまいか。
『君の名は』といえば、稀代のすれ違いメロドラマのタイトル。
そこへもってきて、大林監督の『時かけ』とくれば、号泣必至。
なのだが、後半、どうにも怪しい方向に進んでしまう。
三葉が死んだ災害を瀧が知り、それを阻止しようとするのだ。
ありゃ、なんだが予想と違うぞ。
これは・・・おぉっ、韓国映画(のち米国でリメイクの)『イルマーレ』と同じパターン。
しかし、あちらは、いたって個人的な事故によるものだけれど、この映画では災害。
で、このあたりから少々気分が悪くなってきた。
映画の根幹部分に無神経さを感じてしまったのだ。
どういうことかといえば、瀧が、夢の中の記憶を頼りに三葉を探す過程で、三葉の暮らす土地の名が明らかになった際の、主人公・瀧の反応あたりから。
彼に同行した友人ふたりは、すぐさまその土地の名に反応するのだが、瀧は初めて聞いたか、すっかり忘れてしまったような反応を見せる。
これは、作術上、無神経すぎる。
なにせ、その災害は、彗星の欠片の激突により、村が消滅するほどの大災害だったから。
この災害は、未曾有であり、空前絶後ででしょう。
それを、たった3年で忘れる、というのはありえない(というか許されない)。
このリアリティの欠如が、その後の展開を嘘くさくしてしまっており、以後の展開の工夫が活かされなくなっているように感じた。
その後、災害を事前に知った瀧が三葉にそれを知らしめ、甚大な被害を回避するための行動は、彗星の激突という信じられないような出来事を、変電所の火事と停電、そして山火事という現実的な災害だと謀るあたり、かなり工夫されているにも関わらず、である。
甚大な被害を回避するという奇跡であるにもかかわらず、なんだか「災害なんてなかったことにしてしまえばいいんだ」のような「軽さ」を感じてしまったのだ。
たしかに、悲しい結末よりは、未来に向かっての明るい結末であるに越したことはない。
けれでも、このような「過去さえも変えられる」「なかったことにすればいい」とも受け止められる展開は、どうにも受け容れがたい。
もう二度と巡り合えない真実の相手と「片割れどき(彼は誰どき)」に出会う、という秀逸なシーン(図らずも落涙してしまったのだか)があったとしても、である。
そしてラスト、それから5年後、東京のどこかですれ違う瀧と三葉。
この図は、大林宣彦監督『時をかける少女』のラストそのままであるが、あちらの詩的な厳しさと比べると、この映画では、無条件に優しい。
あまりにも、無条件に優しい。
<追記>
今夏の東宝映画のふたつの流れが、この映画でぶつかった感もあります。
『シン・ゴジラ』→『君の名は。』の、東日本大震災を越えて、という流れ。
『世界から猫が消えたなら』→『君の名は。』の、個人の想いが世界を変える、という流れ。
この映画では、後者の流れが非常に強くでていますね。