「genius」ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ とろさんの映画レビュー(感想・評価)
genius
2016.10.03 試写会にて
コリン・ファースとジュード・ロウの夢の初共演ということ、文学ファンとしては見逃せない題材ということで鑑賞。結論から言えば良い意味で期待を裏切ってくれた。
まずそもそもが実在した天才小説家トマス・ウルフを私の中で美形俳優という認識であったジュード・ロウが演ずるということに少々の無理を感じていたのだが(何故ならばトマスは大層な巨漢の大食漢であったから)、そんなことは彼の演技を見た瞬間に吹き飛んでしまった。それほどに見事な演技だったからだ。溢れる才能やエネルギー、鋭い感性、繊細さ、無邪気さ、極端な社交性の欠如、傲慢、そして見え隠れする天才が故の不安…どう言い表せば良いのかはわからないが、そんなトマスの魂をジュード・ロウから見て取ることができた。
そしてコリン・ファースもまた、素晴らしいの一言である。カリスマ編集者マックス・パーキンズという役柄上、演じ様によってはストーリー全体を支配できたのかもしれない。だが今作のマックスはそうではなかった。常に作家たちを静かな愛を以ってして支え励ます「黒子」のような存在だった。トマスにとっては同時に友であり父でもあった。そんな難しい役どころをコリン・ファースはなんとも絶妙に抑えた演技で表現している。
相反する二人を喩えるのならば静と動、理性と感性といったところだろう。そこのところのコントラストが実に面白い。編集部の一室で無言でペンを走らせるマックスと、感情が昂り地団駄を踏むトマス。ジャズバーで音楽には興味がないと黙り込むマックスと、そんな彼をも巻き込んで「芸術家」たちの奏でる音楽に興じる自由奔放なトマス。対極しているかのように見える彼らが、次第に打ち解け、互いを認め合い、やがては父と子のようにかけがえのない存在へとなっていく様は観る側を温かな気持ちにさせてくれた。そしてニューヨークのアパルトマンの屋上で二人が肩を抱きながら書くことの意味や物語の持つ力を語り、アメリカを一望するシーンではこの時代ならではのアメリカの影を見た気がする。
また、この作品は構成も秀逸だ。劇中にマックスがトマスの草稿に対し、ハイライトをより効果的にするには無駄なものを削げ、ブレずにシンプルであれと助言するのだが(細かな台詞などは違うが)、これはこの作品自体にも言えることだろう。稲妻のような初恋を表現するのに誇張した形容詞が要らないように、二人の物語を描く上で無駄な美化は要らない。だからこそああいったラストの展開になったのだと思う。トマスの死を変にドラマティックに演出することはせず、死後の描写を無駄に長引かせることもしない。茫々とトマスの死を傍観していたマックスが、二人で声を張り上げながら作品を推敲していたあの編集部のデスクの上で独り、彼が死の瀬戸際に書いた「もう一度君に会いたい」という手紙を読み、堰を切ったように大粒の涙を流す…ただこれだけだ。これだけのシーンで、彼らのすべてが描かれていた。
すぐに切り替わったエンドロールを眺めながら、私は泣いていた。
鮮明に残るのは病により突然倒れてしまったトマスの瞳のアップ。あの時あの瞬間、彼は何を思ったのだろう。誰を想ったのだろう。
この秀作にただ一つ難癖をつけるならば、何故原題であるGENIUSをそのままつけなかったのかという点だ。geniusには「天才」と共に「守り神」という意味がある。映画の内容から言ってもこちらの方が相応しいように思えてならない。劇中あれほどマックスがタイトルの重要性を語っていたのだからこそ、私は尚更に思う。