ファブリックの女王 : 映画評論・批評
2016年5月10日更新
2016年5月14日よりヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
この映画はまるで、画かれていない背景が宿るマリメッコのファブリックそのもの
今でこそオーガニック・コットンは当たり前に流通しているが、女性のリアルクローズが主にシフォンやウールで仕立てられていた1950年代初頭、フィンランド産コットンに大胆なプリントを施し、それを生活全般に応用可能なテキスタイルとして発表したデザインハウス“マリメッコ”がいかにセンセーショナルだったか!? 創始者、アルミ・ラティアの創造と格闘の日々を、アルミと舞台劇でアルミを演じる女優マリア、二つの視点で辿る映画は、巨大なファクトリー内で全シーンをまかなう斬新な演出も含めて、単なる人物伝の枠には収まらない矛盾と謎に満ちている。
ミニマルでカラフルな柄がプリントされた布をモデルたちに纏わせ、ショーのラストで賞賛の拍手が待ち受けるランウェイに悠然と登場するアルミだが、共同経営者でもある夫ヴィリヨとの関係は冷え切り、自分はハンサムなイギリス人男性と不倫にのめり込む。私生活での挫折をバネにアメリカ進出を果たした彼女は、英語に即興でフィンランド語を交えてブランドの個性をアピールするメディア攻略法を心得ていた。また、アルミの過剰な投資と浪費が会社の経営を圧迫していることを理由に退陣を迫る男性役員陣が寛ぐサウナに乱入し、論破。全裸の男たちが帽子で股間を隠して退散する場面には、アルミが男性優位社会に戦いを挑んだ闘士で、同時に、巧みな交渉人だったことが象徴されてもいる。
ライフスタイルの開拓者にして、愛に飢えた主婦。破綻した経営者にして天性のパブリシスト。相反する要素が混在するアルミをマリアは理解できず、混乱するばかりだが、映画はマリアにも、そして、観客に対しても、アルミ・ラティアなる人物の本音を曖昧にしたまま幕を閉じる。果たして、1967年から74年まで“マリメッコ”の役員を務めた経験を持つ監督のヨールン・ドンネルは、本当に何を見て、何を映像で伝えたかったのか?
原色同士が絶妙のセンスで組み合わされ、ケシの花が全面を覆い尽くす布たちはどれも鮮やかで洗練されているけれど、裏返すと、長い冬を閉ざされた室内で過ごす北欧人の太陽への渇望が透けて見えるようだし、ストライプの横ラインに縦ラインを重ねると、間に縦横が交差して幻覚のような捻れが現れる。そう、生地に実際には画かれていない背景が宿るように、もしやアルミ自身も、表層に覆われた自らの本質に気づいてなかったのかも知れない。「ファブリックの女王」とは、まるで、彼女が作り出し今も受け継がれるファブリックそのものだと、筆者は結論づけたい。
(清藤秀人)