「もったいぶった演出とピントのずれたアレンジのせいで退屈な作品」マクベス(2015) メンチ勝之進さんの映画レビュー(感想・評価)
もったいぶった演出とピントのずれたアレンジのせいで退屈な作品
映像にこだわりがあるのは分かるが、作品としては退屈で非常に眠かった。余計な脚色のせいで『マクベス』の根本的な魅力を失っており・・・別に脚色すること自体が悪いとは言わないが、少なくとも本作においては失敗だったといわざるを得ない。
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原作の『マクベス』が、同じシェイクスピアの『リチャード三世』に似ている、というのは昔から言われてきたことだ。
どちらも身分の高い主人公が王や政敵を暗殺してみずから王になるが、暴政を布いて人々の恨みを買い、最後は反逆軍に敗れて戦場で死ぬ、というほとんど同じ展開で、殺された人々が亡霊になって現れ主人公の良心を苛むという点もおなじである。
両者の違いは主人公のキャラクター造形にある。
『リチャード三世』の主人公ヨーク公は「悪のスーパーヒーロー」とでもいうべき人物で、悪事に対してブレないし、非常に弁舌も立つ。女性とガチで言い争いをして言いくるめるような男がどれだけいるだろうか。ある意味、目からビームを出すよりすごい特殊能力といえるだろう。
ところが、『マクベス』においては主役はマクベス夫妻ふたりといっていい。
つまり野心を持って実際に王になることと良心の呵責に苛まれることはマクベスというタイトルロールに残されているのだが、悪事に手抜かりなく毅然とし、しかも弁舌で他人を言いくるめるという部分はレディ・マクベスに分割されている。
言ってみれば、この二人は夫婦漫才のような組み合わせなのだ。典型的には宮川大助・花子のような、奥さんがマシンガントークで畳み掛け、旦那は勢いに飲まれてつい「すいません」と言わされるような、あの感じに近いのである。
ステロタイプではあるが「いざというとき役に立たない男」と「いざというとき腹の据わった女」という対比でもあり、マクベスが王を暗殺する二幕二場など、その両者の対照振りが際立って面白いところである。
要するに「キャラが立っている」わけだ。
そしてドラマの構造としては、マクベス夫人が悪事をけしかけることで物語が推進し、それにマクベスが逡巡したり錯乱したりすることで人物の深みを表現する、という役割にもなっている。
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ところが、本作は妙なアレンジをほどこし、この基本的な構造を壊してしまっている。
最大の改変ポイントは「死んだ子供」の存在だ。
おそらくマクベス夫妻の子供であろうが、作品冒頭は子供の葬式のシーンから始まるが、これはオリジナルにはないシーンである。
こんなものをわざわざ冒頭に付け足したからには、おそらく本作の監督は
子供を失った悲しみや絶望が、夫妻を悪事に駆り立てた
という話にしたかったのかもしれない。
実際、(原作にはない)死んだ子供の亡霊ともいうべきような映像が、この作品には幾つか存在している。原作でマクベス夫人が夢遊病になるシーンでは白い服を着た子供の幻影に語りかける場面に改変されているし、作品の狂言回しである三人の魔女たちが同じように白い服を着た子供を連れてもいた。
作品のラスト、三人の魔女+子供は戦場に現れてマクベスの最期を看取るような演出が為されていたが、死と生の境界にいる存在だということを意味していたのだろう。
それから作品の中盤ごろ、王になった後のマクベス夫妻が二人で会話をするシーンで、なかば錯乱気味のマクベスが短剣を夫人の腹になぞりながら話すところがあった。
あれも、失われた子供(あるいはこれから生まれるはずの子供)を意味していたのかもしれない。
だが。
オリジナルのセリフをそのまま流用したこの作品において、死んだ子供の存在がどうマクベス夫妻の野望につながったか、あるいは彼らのその後の転落とどう関わったか、そこはほとんど描かれていないのである。
実際、この映画においても、マクベスの野望は魔女の予言に触発されてのことだし、彼が錯乱し始めるのは宴席においてバンクォーの亡霊を見てからのことだ。どちらもオリジナルどおりで、物語の転機に「死んだ子供」はまったく関わっていない。
要するに「死んだ子供」に関するシーンはなんとなく雰囲気的に意味ありげなだけで、物語の本筋にはなんら関係していない。ゆえに「もったいぶった演出」と「ピントのずれたアレンジ」と言ったのである。
そして、「子供を失った悲しみ」を表現しようとしたためか、本作のマクベス夫人は弱体化が著しく、そのために物語の推進力が低下してしまっている。
ゆえにこの作品は退屈で、眠い。
まあ、ときどきはマクベスがギラギラした野望を演じて見せることがあって(こういうシーンではファスベンダーの演技力が光る)、そこでは話が進むのであるが、時に逡巡したり野望をむき出しにしたり、その辺のつじつまが合わないので全体としてはよくわからない感じにもなってしまっている。
個別のシーンがつながっていない、という印象だ。
つじつまが合わないといえばラストシーン、マクベスがマクダフから「女の腹から生まれたのでない」種明かしをされる有名なシーンも演出がおかしかった。
この作品ではマクベスがマクダフに馬乗りになり、あと一刺しというところで種明かしをされ、「勇気を挫かれた」といってあきらめてしまうのだが、少なからぬ観客が
そこまで行ったんならつべこべ言わず刺せよ!
と思ったに違いない。不自然なのだ。
その後、マクダフに降伏を促されたマクベスが降伏を拒むのはオリジナルどおりの話の流れだが、さきほど止めを刺すのをあきらめておいて、いまさら何言ってんのと・・・この辺も非常に不自然な展開で、監督がシーンの意味をよく考えていないためにこうなってしまった、といわざるを得まい。
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最後に字幕について、一点指摘しておく。
本作に登場する地名(というかマクベスの領土の名前) Glamis はこれで「グラームズ」と発音するが、一箇所「グレミス」と字幕が当てられていた。スコットランドのではなく、アメリカのカリフォルニア州にある Glamis は「グレミス」と読むので、そちらと間違えたのかもしれない。
もっとも、他の箇所では「グラームズ」と正しく表記していたものがあった。
推測するに、元の字幕では間違えて「グレミス」としてしまったのだろう。そして試写会か何かで誤りを指摘され、一方は修正したものの他方は修正漏れしたと考えられる。
いずれにせよ本作の字幕をつけた人物は、邦訳の『マクベス』にあたって確認する作業をしなかったことは容易に想像がつく。
教養もなければ誠意もない仕事ぶり。
もちろん誰もが予測できる通り、本作の字幕は戸田奈津子である。