「童話としての「ホロコースト」」サウルの息子 ko_itiさんの映画レビュー(感想・評価)
童話としての「ホロコースト」
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サウルは遺体となった息子を弔うために奔走する。それが結果としてホロコーストの一部始終を描写することになっており。そして観客も事実(であろう)を知る作りになっている。だから息子の遺体はそのために必要だったのか?と途中までは思っていた。
それが最後で間違いだったことに気がつく。
サウルが最後に少年を見る表情が恐怖ではなく優しげなのは、少なくともあの少年にはサウルは永遠に(記憶)に残るからだ。
感覚を遮断していた “モノ” ではなく、あくまでも “ヒト” としてだ。
サウルが息子でもないものために奔走していたのはそのためだったのだ。“ヒト” としての存在を示したかった。だからこそなのだ。
間違いなくあの少年のサウルのあの時の表情は永遠に残るだろう。もしかしたら年をとったら孫にでもその時のことを話すかもしれない。
そして、それこそが彼の望んだことだ。
そうゆう意味では、これは童話でもある。しかし、恐ろしく悲しい童話でもある。
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