「同化への仕掛け」サウルの息子 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
同化への仕掛け
ナチスのユダヤ人収容所では、労働力として生かされるユダヤ人たちがいた。ゾンダーコマンドと呼ばれるその人々は、各地から運ばれてくるユダヤの同胞を「処理」することをその使命とされている。
そのゾンダーコマンドの中の一人、サウルがガス室で息絶えなかった少年を見つける。しかし、すぐにナチスはこの少年を殺してしまうのだ。
この後、サウルはこの少年は自分の息子なのだと言って、ユダヤ式の埋葬をしようと、閉ざされた収容所の中を奔走する。
「処理」されるユダヤ人たちには、映画の冒頭からレンズの焦点が合わない。35ミリの狭い画面はサウルの姿でほぼ占められている。観客は、彼の周囲の状況をそのごく限られた余白でしか窺い知ることができない。
このサウルの捉え方も、大部分が彼の背中からのショットである。観客はサウルのあとをついて歩いているかのような錯覚を抱く。そして、その錯覚がサウルの抱えるストレスと同じ恐怖や焦燥につながっていくのだ。
サウルが抱えている遺体の少年は、本当にサウルの息子なのか。
死者を葬るために、生きている者たちが命を危険にさらす意味があるのだろうか。
収容所内で反乱を起こし、果たしてドイツ軍やナチス親衛隊相手にどこまで戦えるのだろうか。首尾よく収容所を抜け出したとして、どこまで逃亡すれば安全が確保できるのか。
それらの疑問もまた観客にストレスを与え、憔悴したサウルその人へと同化させる。
映画はこのように、カメラワークとシナリオによって、観客に主人公そのものを疑似体験させる。
サウルの身に起こったことの追体験は、われわれに早くこの状況が終わって欲しいと願わせる。ことの成否よりも、尊厳を失うことなく早急に生を終えることのほうが重要であり、そこにこそ当事者のその絶望的な感情を理解させる仕掛けがあるのだ。