「小松菜奈の横顔。以上。」溺れるナイフ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
小松菜奈の横顔。以上。
撮影と演出の一つ一つがいちいちシネフィル的な映画だった。広島弁に酷似した方言や広能・大友といった人名は深作欣二『仁義なき戦い』を、島に伝わる伝統的な祭事は柳町光男『火まつり』を、水辺での鬱陶しいほどのロングショットはテオ・アンゲロプロスを、アッパーさがかえって切なさを引き立てるラストシーンのif世界描写は本作の一年ほど前に本邦で公開されたディミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』をそれぞれ強く想起させる。しかし監督の知略の上に踊る映画史は自我を欠いた傀儡のようであり、どこまでいっても「賢い」以上の感慨を喚起しない。固有の文脈を紡ぐことのない不毛なパッチワークぶりを、俺はありったけの皮肉と揶揄を込めながら「サブカル的」と形容しよう。
音楽の引用に関しても大森靖子、tofubeatsというチョイスの浅薄さが目に余る。そのうえ彼らの強烈な自意識を正面から扱い切ることは避け、ナヨナヨしたしょぼいカバーでお茶を濁すという狡猾ぶり。脚本に関しても、素朴でご都合主義的な少女漫画的物語を敷設しておきながら最後の15分で梯子を外してサブカルの牙城に引きこもるという監督の身勝手な作家性に閉口した。菅田将暉、小松菜奈というミーハーな撒き餌に釣られた若者を知性でポカンとさせてやろうという下卑た戦略が見え透ける。監督などという職業を目指そうとする以上、強烈な自意識は必須の条件だが、作品の出来はその自意識の運用の巧拙に大きく左右される。本作のように明らかに受け手を知性によって欺こうという意図の見える映画はかなり最悪な部類に入るといえる。バカだけに焦点を絞って上から嘲笑するの、マジで悪しきサブカル知識人ムーブすぎる。
ただ、それらすべての不快さを補って余りあるほどに美しい小松菜奈の横顔。これに尽きる。InstagramやVOGUEで見かける正面静止画の彼女も確かに美しいが、やはり動いているところを真横から捉えたショットでこそ彼女の美しさは最高潮を迎える。横顔の立体性に美しさを見出してしまうあたりに俺の内に巣食う悪しき白人至上主義が露呈していることは否定できないものの、そこに「白人的」という褒辞には収まりきらない東洋的な美が顕れていることもまた事実だ。小松菜奈の横顔の美しさを見出し、それを最大化したという点において本作は無条件に肯定されるべきだろう。マジで今をときめく女優の中で小松菜奈より美しい女優っていないと思う。あまつさえ後の伴侶となる菅田将暉を粗暴なボーイフレンド役として据えるというファインプレー。『ディストラクション・ベイビーズ』と並んで二大「すだなな」フェチ映画だといえる。
演者にそこまで視点を絞らない俺にとっては、演者がいいという一点だけで大幅に加点したくなる映画というのはそうそう出てこないので、そういう意味では稀有な一本だった。