「アマノジャクが吠える時」マネー・ショート 華麗なる大逆転 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
アマノジャクが吠える時
ブラッド・ピットの『ジャッキーコーガン』は、世界金融危機…サブプライム問題を題材にした映画で、すっごく面白かった。
アダム・マッケイの『俺たちハイパー刑事』は、バーナード・マドフ事件(サブプライムが発端で明らかとなった金融詐欺)が元ネタで、面白かった。
原作『世紀の空売り』は、経済ドキュメンタリーとしてだけでなく人間ドラマとしても充実していて、すっごく面白かった。
なのに本作は、あんまり面白くないという不思議。
—
この映画、クリアだった原作と比べると、いろいろと煙にまいてるような気がするんだよなあ。経済用語がどうのというよりも、登場人物達がどういう人だったのか、映画だけでは描ききれていないような気がする。
いや、クリスチャン・ベールら俳優陣は流石に上手いんで、マイケル・バーリがどういう人物なのか分かったような「気分」にはなる。セレーナ・ゴメスが経済用語も説明してくれるんで、分かったような「気分」にはなる。
観客を分かったような「気分」にさせて、物語を進めていく。
これって、サブプライムな低所得者層から審査する格付会社の面々まで、皆、事の本質を理解せず「大丈夫」という気分だけで進んでいった金融バブルと、まるで一緒だなあと思う。
おそらく、この手法、かなり意図的にやっていると思う。(じゃなきゃ単に作劇が下手。どちらにしても、ニュース・書籍・映画・ドキュメンタリー等で散々ネタになってきた事柄を一から説明する気はない映画だと思う。)
この映画は、金融危機を具体的に描き理解させる事が目的ではなく、何も分かっていないのに進んでいく空疎な「状態」を表現するのが主眼なのだと思う。
『ジャッキーコーガン』で金融危機をチンピラマフィアの行動形態と重ねたように、今回は、金融危機をコメディ映画の形態と重ね、空疎な「状態」を表現した。「金融危機にまつわるあれこれって、まるでコメディ映画みたいでバカだったよねー」という批判が目的だったのではないか。
—
そういった映画に対して、大変申し訳ないんだけど「経済用語を予習すれば分かる」とか言うのはちょっと違うんじゃないのかなあと(すみません)。
スティーブ・カレル扮する金融家は、何も気付こうとしない世間に対して吠える。「お前ら何も分かってないのかよ、4歳児かよ」と吠える。誰も何も分かっていないのに「大丈夫」と信じる共同幻想に対して吠える。世の流れに逆らうアマノジャクでありモラリストでもある。
この映画自体に対しては、レビュアーのしんざんさんが「この映画でわかることは何一つない」と吠えてて、ああ、まるでカレルのようだと思いました。「空疎な状態」を表現している映画に対して、「わかることは何一つない」というのは、その通りなんだよなあと。
—
現実の金融危機は、コメディみたいな状態が甚大な「悲劇」を生んだ。だから、この映画も後半、悲劇に転じる。
その悲劇の転じ方が、ちょっとステレオタイプかなあと。ブラッドピットの「何百万人が職も家も失うんだぞ」という説教は、ニュースをみてれば当然分かることで、そこまで当たり前の事を言わなきゃ観客は理解しないと思っているのかなと。もうちょっと、観客を信じていいんじゃない?と思った。
————————
『ジャッキーコーガン』では、
金融危機の問題は今に始まったことではなく、昔からずっと変わってないでしょ、と批判してみせた。
19世紀初めの第二合衆国銀行の頃から変わってないでしょ、と結論づけた。(当時トーマス・ジェファーソンらは「大規模な詐欺行為」と批判したが金融政策は続行されバブルを生み出し1819年恐慌へとつながる。)
本作では「金融危機を招いたCDOと似た金融商品が、また売られ始めている」という警告で締められている。
今に始まったことでもないし、これからも続く。
本作で、カレル扮する金融家は泣く。クソみたいな仕組みに気付き、吠えるが、結局その世界を変えることは出来ないし、その世界の一員であるからこそ儲けることも出来る。だから、泣く。
たとえ泣いたとしても。この世界が続いていくとしても。いや、続いていくからこそ、アマノジャクは吠え続ける。いつか変わるかもしれないと信じて吠える。そういうアマノジャクが必要なんだと思う。