ブルーに生まれついてのレビュー・感想・評価
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幻想の「青春」と現実の「憂鬱」… あまりにも「ブルー」に生まれついてしまった者たちの哀歌。
ジャズ界の伝説的プレイヤー、チェット・ベイカーの生涯のうち、絶望的な状況に追いやられていた60〜70年代に着目して描かれた伝記映画。
麻薬と暴力により破滅寸前だったチェットだが、愛する恋人の支えを受け、プレイヤーとしての再起を図る。
主人公チェット・ベイカーを演じるのは、『ビフォア』三部作や『ガタカ』のイーサン・ホーク。
何故憂鬱な気分のことを「ブルー」というのか。
一説によると奴隷として使役されていた黒人が、雨だと休めるが青空だと強制労働させられるため、憂鬱な気分のことを「ブルー」と表現するようになったとか…。
なかなか興味深く、信憑性がありますねぇ。
本作で印象的だったジャズマンの生年を調べると、主人公チェット・ベイカーは1929年生まれ。
チェットを一蹴した帝王マイルス・デイヴィスは1926年代生まれ。三歳年上なので、チェットからしたら怖い先輩みたいな感じ。
チェットが尊敬する"バード"ことチャーリー・パーカーは1920年生まれ。年齢が9歳離れているので、チェットの青年時代のアイドルといった感じか。1955年に死去しているため、映画中では既に故人。
チェットのために「バードランド」での演奏をセットしてくれたディジー・ガレスピーは1917年生まれ。実は一番年長者。チェットにしてみれば先輩というより兄さんといった感じかな。生年は誰よりも早いが、没年は4人の中で一番遅い。75〜6歳まで生きており、破滅的な生活で早死が多いジャズプレイヤーの中ではかなりの長寿。この人は結構真面目な生活を送っていたのかも。
ニューヨークにある「バードランド」というお店。この「バード」はもちろんチャーリー・パーカーの愛称からとっている。
現在でも超有名クラブとして経営しているが、店舗の場所は移動しており、経営も60〜70年代とは様変わりしているらしい。なんとなく残念。
本作の主人公チェット・ベイカー。
元々ジャズ喫茶のオーナーだったほどのジャズ通、村上春樹はチェットの音楽を「紛れもない青春の匂いがする」と評している。以下引用。
ベイカーの作り出す音楽には、この人の音色とフレーズでなくては伝えることのできない胸の疼きがあり、心象風景があった。彼はそれをごく自然に空気として吸い込み、息吹として外に吐き出していくことができた。そこには人為的に工まれたものはほとんどなかった。あえて工むまでもなく、彼自身がそのまま「何か特別なもの」だったのだ。ー『ポートレイト・イン・ジャズ』ー
また村上春樹は、チェットが「特別なもの」を維持できた期間は決して長いものではなかったとも述べている。
彼が瑞々しい輝きを放っていたのは麻薬によりキャリアが潰れるまでの間であり、復帰後にはその青春の輝きは褪せてしまっていたのである。
顎を砕かれ、歯を根こそぎ折られてしまっては以前のような演奏はもう出来ない。彼の「青春」は永遠の幻想と化した。
しかし、その幻想を追い求め文字通り血の滲むような努力を積み重ねることで彼は別の武器を手に入れる。
地獄のような現実に生きる人間の「憂鬱」を表現することができるようになったのである。
しかし、新たに身につけた武器により再び手に入れた栄光は、本当に彼が必要としていたもの、唯一残された「青春」を奪い取ってしまう。
何かを得るためには何かを捨てなくてはならない。そんなリアルを痛烈に突きつけるラストシーンは涙無くしては見られない…😢
クールな映像、クールな劇伴、クールな演技…
何から何まで嫌みなくらいハマっている。
前半〜中盤までは退屈に感じていたが、終盤の盛り上がりは本当に見事だった。
本作のイーサン・ホークは本当に素晴らしい。
クライマックス、「バードランド」の控え室でのシーン。
ここでホークがみせた光と闇の間にいる人間の恐れと迷いの演技。ここはちょっと凄すぎる…
歌声がチェット・ベイカーに全然似てない!という批判もあるようです。
確かに聴き比べるとホークの声は低い。チェット・ベイカーの方が繊細で甘〜い感じがする。
とはいえ、ホークに歌うフリだけさせてその上に似ている声を被せるとか、そんなことされても興醒めなのでこれはこれでアリではないでしょうか!
ホークの歌声は素晴らしかったですし!!
ブルーに生まれついてしまったチェット。
しかし、彼の恋人ジェーンもまたブルーに生まれついてしまった人間である。
タイトルの元ネタであるメル・トーメ&ロバート・ウェルズの一曲『Born To Be Blue』を村上春樹が訳しているが、その歌詞を以下引用。
あなたに出会ったとき、世界は輝いていた。
あなたが去ったとき、帳が降りてしまった。
(略)
それでも、私はまだ幸運な方なのだろうか。
あなたを愛する喜びを味わえたのだから。
たとえそれだけでも、私には
身にあまることなのかもしれない。
だって私はブルーに生まれついたのだから。
この歌詞はチェットの心境というよりは、ジェーンの心境を表しているのだと思う。
結局は愛する恋人よりも音楽を優先させてしまったチェット。彼の裏切りが、2人の間に帳を降してしまったのである。
『Born To Be Blue』というタイトルは、チェットにもジェーンにもかかっている、実に秀逸なものなのだ!!
一応伝記映画のテイはとっているが、実はかなり脚色されているらしい。
ジェーンって架空の人物なんだとか…
まぁ、別に脚色するのは問題ないんだけど、現実のチェット・ベイカーは16年間もどん底のキャリアで踏ん張ってきた人らしいので、ラヴ・ストーリー重視でもいいからその辺りをもっと描いて欲しかったかも。
とまぁ色々書きましたが、予想を裏切ってくれるクライマックスは衝撃的だしかなり泣いた😭
期待を上回る良作でした!!
カネや女のために吹くやつは信用しない
映画「ブルーに生まれついて」(ロバート・バドロー監督)から。
1950年代のジャズ界で活躍したトランペット奏者
「チェット・ベイカー」その半生を描いた伝記映画、という紹介と、
「ブルーに生まれついて」というタイトルが気になり鑑賞した。
もちろん、演奏曲の1つ「Born to be blue.」は理解できたが、
何か意味があるのだろう・・と、メモ帳片手に字幕を追った。
曲ではなく台詞的には「今夜はブルーでいさせて」
「ブルーはいやだ」「青い部屋に引っ越そう」程度で、
あまり意味がなさそうだった。
鑑賞した方々の感想にも
「ブルーな世界からぬけだせない哀しみ」とか
「もがき苦しみながら奏でたブルーな響き」などの表現が、
あったけれど、やはりピンとこなかった。
今回は、ジャズ界の帝王「マイルス・デイビス」が、
若かりし「チェット・ベイカー」に厳しく呟やいた台詞、
「カネや女のために吹くやつは信用しない」を、
残しておこうと思う。
どんなことがあろうとも、麻薬に溺れてしまった彼を、
私は正当に評価できないな、と思ったから・・。
厳しい表現かも知れないが、それが私の本音である。
哀れな天才
ドラッグから抜け出せず麻薬ディーラーに前歯を折られ、入れ歯で演奏を練習し、バードランドで復帰し、マイルス・デイビス、ディジー・ガレスピーにも認められるまでになる。その後もヨーロッパで演奏を続けるが麻薬を断ち切れず、アムステルダムで死亡。狂気の天才と言える。
歌の字幕がひどかった
字幕版を見たが、最近の字幕がひどいときがあるがこれは最悪だった。
特に歌の字幕が恐ろしくミスだらけで直訳が多く、誰がこれをチェックしたのか、問題だと思いました。
手抜きとしか言えない。ポニーキャニオンの問題だと思います。
この作品は音楽がテーマなのですから、音楽の翻訳を誤るようではだめだと思います。
マイファニーバレンタインぐらいきちんと訳しましょう。
誤訳でそのシーンが台無し。
ストーリーは最後が尻切れとなっていますが、
薬物に手に染めてからの彼を描き、
二度目に恋した女との思い出話となっている。
チェットはとても歌がファルセットがまったくなく、低音をホールドした歌手でもあり、演奏者でもあったと思う。
彼の声の中にすべて答えがある。
俳優は俳優の演技の中で頑張っていたが、
それにはやはり及ばない。
それほどチェットが声についても発声を勉強した証であり
それ以降もこのような白人歌手が出てこないのはそのせいでしょう。
『お薬の時間ですよ』と看護士が呼ぶ
勿論、入院中の病室内のありふれた光景だ。しかしこれがホテルで、バーで、ライブハウスの楽屋でこのフレーズが脳内に響くシーンは又意味合いが変わってくる。
2016年暮れの映画で二つのジャズ映画が上映され、その一つが今作品。菊池成孔ファンである理由でしか、この人の事は知らない。ジャズのなんたるかさえも分からない身とすれば、菊池氏のこの人への愛すべきダメ人間の評価を聴くにつけ、その破天荒ぶりな人物像に興味が頭をもたげる。多分、今だといわゆるギャングスタラップの人達の人生みたいに思ったのだが、いやいや方向が違うらしい。その飽くなき『愛情』への飢え、そして認められたい『承認欲求』、名誉へのしがみつきが、稀代のジャズ界の『悪魔』を自ら作り続け、破滅へと疾走したのだろう。トランペッターにとって大事な前歯を喧嘩で折られたこと、あの悪魔の仔ダミアン宜しく、中性的なクルーナーの歌声。『マイファニーバレンタイン』は確かに聴く人に魔界への誘いを思い起こさせる。
そして、この作品、主軸はフィクションであるということも又、この人の悪魔たらしめてる雰囲気が醸し出すプロットなのだろう。
全体的にまるで薬の中での出来事、いるはずもない愛する女性、復活を賭けて薬を断ち切り、見栄を振り切り努力する姿、しかし、薬の対処薬に又、麻薬メタドンを処方しなければならない50年代のアメリカ、そして正にその夢が現実になる寸前に押しつぶされる弱い心、そして逆戻り・・・友を裏切り、愛する女性への婚約指輪代わりのバブルリングを返される仕打ち、 これが全て夢の中だとしたら、これこそチェズニーの真の伝記そのものかもしれない。
自分は麻薬は怖くて手は付けないが、この人間の脆弱さに大変共感を持てる。この悪魔的魅力は確かに希有だ。
その理由が故に、この悪魔のエピゴーネンがドンドンと世界中から量産されることとなる・・・
映画そのものが艶やかなブルー
学術的な意味合いや技術的な意味合いにおいて「優れた音楽」というのは確かに存在して、ただそういった音楽が人々の琴線に触れるかどうかは別の話。なぜなら、私たちの多くは音楽の専門家ではなく、ただ聞こえてくる音楽を感覚的に好きか嫌いかで判断しているからだ。この映画で、怪我をした後のベイカーの演奏や歌はとても頼りなく技術としては見劣りのするものだったはず。しかし、再びベイカーが活動するようになって、思わず聴衆が拍手を送らずにいられなかった彼の演奏には、きっと彼にしか出せない音が宿っていたからで、その彼にしか出せない音が、いかにして生まれたか、というものをこの映画は描こうとしたのかな?と感じた。
物語は、酒とドラッグと名声に溺れたチェット・ベイカーの姿から始まる。前歯を失ったことで活動が出来なくなったベイカーが、失意の中にいながらも、愛する女性の支えと励ましを受けて、少しずつ少しずつ自分らしい演奏・パフォーマンスを身に着けていくところにドラマを感じるし、カムバックを目指すようになるその心の変化を、イーサン・ホークやカルメン・イジョゴがきちんと演技にして魅せてくれる。フィクションの性質上、描かれない史実や語られないエピソードがあるのはやむを得ないことだし、この映画に関してはそういうこともまったく気にならずに見られた。この映画の時期は、ベイカーにとっては「影」の時代とも言えるだろうとは思うのだけれど、映画は決してこの時期を「影」としては扱わず、一歩一歩再起に向けて歩みを進め、芳醇な音を獲得するまでの前向きな時期として見つめているようで、なんだか共感を覚えた。
映画自体が、ジャズの音色のようにブルージーで艶っぽくてとても美しい。強いお酒を片手に観たくなるようなそんな風情がある。シーンのひとつひとつ、そして物語の見せ方が格好いい。
そしてこの映画はラブストーリーでもある。ベイカーとその妻その関係は、男と女、夫と妻、という以上に、人と人としての絆と信頼を感じる。ラストで訪れる一つの結論は、それ自体が「愛」だとでも言いたくなるほど。
イーサン・ホークの甘い声がいい
チェット・ベイカーは好きで、たまにSingsを聴いている。どんな生涯を送った人か知らずに、歌詞の意味も知らずになんとなく聴いていた。
イーサン・ホークも好きなので、絶対に劇場で観たかった。大きなスクリーンで良い音響で大正解。すっかり入りこんで観ることができた。
才能がある人の心の弱さや危うさ。甘い声。イーサン・ホークの演技が光る。
女は繊細で壊れてしまいそうな弱さを見せるダメな男を放ってはおけないのだ。子犬のような目で見つめられたら、離れられなくなってしまう。
そんな彼を支える女性との出会い。
彼女を見つめながら歌う「マイ・ファニー・バレンタイン」には心震えて涙が出た。美しい。歌詞も初めて知った。ステキな歌詞。甘い声が似合う。
彼女の妊娠がわかった時、お父さんからもらったトランペットのリングをチェーンに通し、プロポーズするシーン。たまらなくキュンときて涙がじわり。
そして何よりも、最後の歌うシーン。
彼を愛してるが故に彼女には伝わってしまう悲しい真実。涙が溢れる。
愛に支えられて生きていっても、人間の弱さでそれを手放してしまう。ずっと後悔することになるのに…。人間はそんなに強くないから、愛を求めるし、過ちもおこす。
さみしいけれど、人生そんな繰り返し。
自分は、いつか本当の愛に出逢って、手放したくない。出会えないまま人生を終えることになるかもしれないけれど…。
ラストシーンがとてもとても余韻の残る印象的な演出でした。
伝説の白人ジャズマン、チェット・ベイカーの半生を描く映画です。いわゆる伝記映画というより、全力のトリビュートと受け取るべきでしょう。伝記映画がつまらなくなりがちな点として、その生涯をかいつまんで盛り込もうとするあまりに、内容が駆け足となり、希薄になってしまうこと。その点、本作はチェット・ベイカーが絶頂から再起不能に突き落とされて、這い上がっていく再起の物語として絞り込んでいるのです。しかも、自伝を知っている人ならお分りでしょうけど、本作には創作や脚色の部分が多いのです。でも史実の記録を律義になぞるよりも、ベイカーを素材にして、彼の持つどうしようもない「愛すべき弱さ」を浮かび描いたところが出色です。それは人間なら誰しも持ち得る内面であり、ドラマとして感情移入しやすいところ。
そんな本作は、問いかけてくるのです。なぜ彼の音楽に「ブルー」が生まれたのか。なぜだらしなく生きているのに、多くの聴衆を惑わしつつ、魅了されてしまうのか。それは、映像よりも本作で奏でられる彼の甘美で哀愁に満ちたなジャズで、静かに語られていくるでした。
さて、チェット・ベイカーは1950年代半ばにおいては時代の寵児とも目され、「ジャズ界のジェームズ・ディーン」とも形容されたスター。マイルス・ディビスをも凌ぐ人気を誇っていました。しかし、1950年代後半から1960年代にかけてヘロインに耽溺し、ドラッグ絡みのトラブルを頻繁に起こします。米国や公演先のイタリアなど複数の国で逮捕され、短期間ですが服役をしているところから本作は始まります。
その中性的なヴォーカルも人気があり、1954年にレコーディングされた「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」はチェットの代表曲の1つであり、同楽曲の代表的カヴァーの1つでもあります。このチェットの歌い方にジョアン・ジルベルトが影響され、ボサノヴァ誕生の一因となったと言われています。
さて本作の冒頭では、釈放されたベイカーが、往年の名ジャズクラブ「バードランド」で演奏するところが描かれます。聴衆にはなんとマイルス・ディビスがお忍びで聞いていました。マイルスは、彼の演奏を、「カネと女に媚びる音楽だ」と酷評するのです。そして直接ベイカーに、「修行して出直してこい」とつき放つのでした。確かにジャズの王道を極めたマイルスの攻撃的なジャズからすれば、ベイカーの甘ったるいジャズは、邪道に聞こえたはずです。また、ベイカーが白人だというだけで大衆的人気を獲得している状況を快く思ってもいなかったらしいのです。
但し、これは本作前半の重要な伏線となりました。後ほど述べるように、逆境から這い上がってきたベイカーは演奏が一変します。そして人間性そのものも。そんな彼の再起ライブを聴いたマイルスは高く評価して、それ以来、史実では仲も良かったと記録されています。
そんな絶頂期を迎えていたベイカーでしたが、ある夜麻薬の売人から暴行を受け、大切な前歯を失い、アゴの骨まで砕けて、医者から二度とトランペットが吹けないと告げられるほどの重傷を負ってしまいます。ベイカーは、キャリア終焉の危機に直面しますが、若き日のベイカーをテーマにした映画で妻役を演じた女優のジェーン(カルメン・イジョゴ)に支えられて再起へと向かうのです。その過程は、かなり過酷なものでした。当初は折れた前歯のあとから血のりが吹き出しているのに、それでも彼は、トランペットを放そうとしませんでした。当然生活も厳しくなっていき、ジェーンとともに場末の演奏場を回りながら、車で寝泊まりする放浪生活の日々を続けます。実家に一旦戻ったときなど、ガソリンスタンドでアルバイトまでやって日銭を稼いでいたのでした。ところがその病んだ魂と深い絶望が、マイルスに酷評された彼の甘ったるいだけの演奏が激変するのです。
再びレコーディングのチャンスを得たベイカーからは、唯一無二の甘く切ない歌声が歌い上げられ、哀愁に満ちたトランペットが奏でられるのでした。それはまさに、タイトるどおりのブルーが生まれた瞬間となったでした。しかし、スポットライトへ近づくほどベイカーが背負う影は濃くなっていきます。それは表現者の宿業のようなものでしょうか。
それでも、妊娠したジェーンとの愛に生きようと決意する彼に、音楽の神、いや悪魔が“待った”を仕掛けてくるのです。再起をかけた「バードランド」のライブ。マイルスも見守るなかで、忍び寄ってくる重圧、そして誘惑。果たしてベイカーは、愛するジェーンと固く約束したドラッグ抜きで、演奏に立ち向かっていけるのでしょうか。ラストシーンがとてもとても余韻の残る印象的な演出でした。
そんな揺れる天才プレーヤーの内面を描こうとしたのが、ロバート・バドロー監督。主演のイーサン・ホークととも熱狂的ベイカーファンを公言してきたそうです。だから全編に渡って、ベイカーへの愛おしさがヒシヒシと伝わってきました。
特に、ベイカーを演じるイーサン・ホークの悪戦苦闘にどっぷり期しようとする真摯な熱演が、かなりいいのです。普通の幸福を生きられない男。人間らしい弱さを抱えて、でも、闘わずにはいられない男。ホークは、その内面の震えを全身から絶えず発していたのでした。実際のベイカーのそれよりも若干細い歌声も、物語の内容と相まって、むしろ強い印象を残してくれました。実は演奏シーンは、吹替えでなく、半年の集中特訓でホーク本人が演奏している点にも好感が持てます。
ホークが体現する愛すべき弱さ、そして尋常ならざるエゴ。そこに惹き付けられて止まないペーソスが溢れていて、忘れられない作品となること請けあいです。
既視感ありのミュージシャンもの。
イーサンホークがチェットベイカーを演じるということで、見てきました。
まずもってすきっぱにびっくり。イーサンの美貌が台無しよと思いました。
いつも思うのですが、隻腕の役とか、歯がいたんでいる役とかを体現するとき、
実際の腕や、きれいな並びの歯をどうやって隠しているのか、すっごく気になるんです。
脚の切断された姿などね。歯抜けの入れ歯?入れ歯入れるために抜歯してるとか?
一昔前の役者ならともかく、今もなの?なんていうことが気になりました。
映画はね、楽しめたっちゃあ楽しめたけど、
お薬がやめられないありがち過ぎるミュージシャンに、
やはりまったく共感できず、
加えて、出会った頃からジャンキーだったチェットの
何処がよかってんジェーンよ、君、目を覚ませ!
という怒りで、あんまり面白くなかったです。
よかったのは、音楽と、
映画の中で撮影中の映画とチェットの回想あるいは幻覚が、
白黒映像で時々差し込まれていて、
その造り、くらいかしら。
イーサンの歌もよかったですよ。ラッパもよかったですよ。
お薬を横においたとしても、
ジェーンの献身が当たり前とおもい、
彼女自身の望みは、自分のそれよりも優先されなくてしかるべき
という態度に、かっちーんときましたよ。
てめーの面倒は自分で見やがれと。
でも、てめーの面倒を見られない人だから、
ヘロインにおぼれたのですよね。だから言うだけ無駄な話です。
ジェーンの数々の自己犠牲の元で、立ち直りつつあるなか、
バードランドで再び演奏したいと自分で望んでおきながら、
そのプレッシャーをやり過ごすために、結局自分でヘロインをやる。
浅はか。
人間らしいといえばそうなんだけど。
ブルーに生まれついた自分を肯定できたら、また違ったのかなあ。
もうほんとーーーに、ミュージシャンの映画は
ジャンキー映画ばっかりね。
そろそろ見るのをやめるべきかもしれない。
みんな一緒なんやもん。
ラストシーンに安心
全くジャズファンでも何でもなく、何となくミュージシャンの栄光と挫折と復活くらいの話しかと思って観に行ったら、途中までは駄目野郎が天使な女と出会って、落ちぶれたことを馬鹿にされたり薬漬けの過去を揶揄されたりしながら順調に復活してゆく、ただのラブストーリーじゃんって感じで、音楽は良いけどちょっと肩透かしだなとか思ってた。もっとクズエピソードにまみれてると思ってたのに。ただ最後の最後に何よりも音楽を求めて(という口実で?)ろくでもない道を選んでくれたのは、こういうのが見たかったんだよと安心。破滅的で刹那的な天才の生き様とかそういうのが好きなら悪くないかもしれない。しかしマイルス・デイビスがすげえ感じ悪かったのだが、あんな人なのか?
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