「言葉にできないことの可能性へのまなざし」タレンタイム 優しい歌 ありきたりな女さんの映画レビュー(感想・評価)
言葉にできないことの可能性へのまなざし
我々が人と何かを伝え交わす時に、言葉で伝えきれないと感じることがあると思う。
それは適切な言葉が見当たらないという限界かもしれないし、言葉などで全てを掬い上げられないという抑えきれない何かがそこにあるからかもしれない。
どんな理由であっても、この物語の彼ら彼女らは若くしてそのことを皆知っているし、嫌でも知ることとなるプロセスを、家族や友人や先生のような親しい立場の視点からそっと見させてもらっているような映画だと思う。
よくよく考えたら、この物語の彼ら彼女らはなかなかにハードな状況ではないだろうか。
身内を殺されたり、病気で余命残り僅かな母親の最後の願いを汲んで敢えて会いに行かなかったり、突如訪れた最期は看取ったり、恋人と宗教の違いや悲しい過去によって引き裂かれたり、引き裂かれようとしていたり…
特にマレーシアという国がこんなにも多民族国家なのだということを初めて知ったし、日本だと考えられないような民族・宗教の違いによる諍いが身近に普通に存在することにまず驚いてしまった。
それ故に引き起こされるいくつかの悲劇や過去を、当事者たちが新しい時代へとどう乗り越えていくかというのも1つのテーマだったんだろうなと。
話を戻すと、マヘシュとムルーの恋がそのまなざしや控えめに触れようとする手の軌跡や、そういった細やかなもので充分にスクリーンから伝わるだけで胸がいっぱいになるし、ムルーの歌で恋に落ちた瞬間も彼女の想いも溢れているのが解るし、それを遠くからマヘシュとハフィドが聴いてるのが良い。
マヘシュはその気持ちを言葉にはできないけれど、彼女に接する姿から大切に想っていることがよくわかる。
ハフィドは母の看病もしながら、勉強もできて、ギターも歌も上手くて、完璧すぎるから…人の気持ちまで分かりすぎてしまうから、身を引いてしまうところがあるんだろう。彼はこの先1人でもやっていけるとは思うけど、どうかもう少しだけ自分のためだけに生きて欲しいようにも思う。
そして、母を喪った日にタレンタイムに臨んだハフィドの傍らで、カーホウが静かに二胡を弾くシーンで涙腺が崩壊してしまった。
予告にあったあの音楽が、まさかこんな意味を持っていたなんて。
彼は彼でつらい境遇があって、ハフィドを疎ましく思わざるを得ないのもわかる。だからこそ、ハフィドの状況を知って、そっと無言のうちに二胡の調べで寄り添う。まさに言葉ではなし得ないこと。本当の想いがそこに溢れていた。
映画の始まりで、タレンタイムを行う教室の電気が付き、それが消されることで映画の幕が引かれるのも素晴らしい。静かなさじ加減が絶妙な名作。