祈りのちからのレビュー・感想・評価
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祈ったって面白くならない
こちらもハリウッド宗教映画。
見たばかりの『天国からの奇跡』は同じく宗教映画の類いであっても、家族の絆や人と人の交流、難病が私自身が患ったものと似ている所もあり、実話ベースなのも含めなかなか悪くなかったのだが、こちらは…。
老女クララは戦争で夫を亡くしてから、人生の不条理や悲劇と闘う事、祈る事を信じる。
とある家族。不動産業者のエリザベス、エリート営業マンの夫、幼い娘。一見裕福で幸せそうだが、仕事依存の夫に不満を募らせ、不倫も疑う。娘ともしっかり向き合えず、家族は問題を抱えていた。
ある日エリザベスは売却を考えているクララの家へ。クララは家族に問題を抱えている事を知り、クローゼットへ案内する。
そこは祈りの部屋。“ウォー・ルーム”。
クララはエリザベスに夫や抱えている問題を“祈る”事を提案する…。
ズバリ言えば、仕事で訪問した先が、宗教ばあさんの家。
勧誘され、ミイラ取りがミイラに。
夫や抱えている問題はサタンのせい。祈って、声高らかに追い出す事で救われる。
宗教ばあさんじゃなかった。宗教キチ○イ。
最初は乗り気じゃなかったエリザベスも次第に影響。宗教って、弱ってる人の心に入り込む。良くも悪くも。
祈ってから、夫やその仕事(クビになるほどの不祥事)、娘との向き合いなど家族関係が良くなっていく。
夫も祈るように。
祈った者は救われる。
迷える我ら子羊たちに祈りを。
そもそも“ウォー・ルーム”って…? 懺悔の部屋と違うの…?
宗教観もピンと来ず、ついでに話もつまらなく、祈りや宗教や神よイエスよ万歳でハッピーエンドと言われても…。
完全に宗教PR映画。
宗教に関心の無い者にとっては、こればっかりは祈ったって面白くならない。
この話をロシアとウクライナの人達に聞かせたいね。
ジーザスの贖罪って事だ。
良いね。
この話をロシアとウクライナの人達に聞かせたいね。
ちょっと、アナクロかもしれないし、男目線な所はあるが、争いを無くす戦略は真の敵を見つける事だと思う。
一歩間違えるとカルトな引きこもりになっちまうけどね。
『何があっても神を信じるんでしょ』僕も神みたいな者を信じたいけどね。
追記 キリスト教は信じる者を増やす事を良しとしている。一方でユダヤ教は選民思想だ。だから、ユダヤ教が迫害された歴史もある。その点も理解しないと。
批評されないことが問題
教会を通して前売りチケットが販売され観客の大半がクリスチャンである類いの(いわゆる)「クリスチャン映画」の典型で、この種の映画に感動する人は確かにいるから、こういう映画の存在には、それなりの意味はある。
しかし、映画を批判する人を「信仰がない」を決めつけたり試写会の関係者がチケットの前売りに協力しない教会や牧師を非難するような風潮の中では、万人の心を打つ優れた映画は育たない。
このサイトにも批判的なレビューは載っていないが、それは決して良いことではない。「批評に値しない」と思われて「無視された」可能性が高いのだから。
いや、それどころか、この映画は多くの人に不快と思われた可能性もある。
「最も関わりたくない人」をアンケート調査すると「他人に指図する人」や「私生活に干渉する人」が上位に挙がるこの時代、主人公を導く老婆の言動は「パワーハラスメント」でもある。主人公は、不動産販売の営業を円滑に進めるためには老婆との語らいを拒絶することができないのだから。
「うっかり教会に行ったら、こんな婆さんに付きまとわれるのでは?」と未信者に思わせてしまうことで、この映画は、キリスト教の伝道に害になる危険も孕んでいる。
また、この映画はキリスト教の教義とも相容れない点が多々ある。
信仰とは、こんなに安易なものなのだろうか?
・・・映画では「妻が夫を赦したら夫も反省してハッピーエンド」だが、いい気になった夫が更に妻を軽んじて虐待するのが現実社会だ。夫は、自分の犯行(会社の商品の詐取)を上司に告白し、映画では暖かく受け入れられるが、実社会では、彼は失業するはずだ。子供と一緒に参加した競技会でも下位に甘んじるだろう。そして、主人公も夫も、どん底に落ちるだろう。
この時こそ、信仰が試され、主人公も妻も、このどん底でこそ、主イエスと出会う「かも」しれない。本当の「祈りのちから」とは、ここから始まるはずなのだ。
キリスト教は、「祈ったらうまく行きました、めでたし、めでたし!」の「ご利益(ごりやく)信仰」ではない。
「祈っても祈っても何もよいことは起こらない」ところから信仰がはじまる。夫は、失業したあげく妻を殴り倒して失踪し、子供たちは家出し少年院に入るかもしれない。しかし、目に見える「現実」がそうであっても、「今まで私には見えなかったけど、本当は、祈りがかなえられていたんだ!」と解る瞬間が(もしも)妻におとずれたならば、そのときの歓喜と神への感謝こそが「祈りのちから」なのだ。
しかし、この映画は、「祈り」を幸福追求の手段のように描き、「祈りのちから」を「アラジンの魔法のランプ」のレベルにまで引き下げている。そして、そのことが全く気づかれず、問題にもされず、論じ合われることもない。
・・・これが問題だ。
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