「サイコパス」クリーピー 偽りの隣人 stさんの映画レビュー(感想・評価)
サイコパス
「サイコパス」という言葉が世に出て久しく、もはやジャンルにまでなってしまった感もありますが、これまで観た「サイコパス」作品はしょせん作家の思い描いたサイコパスであり、本来の「サイコパス」ではなかったと痛感されました。
得体の知れないものを得体の知れないもののままで置いておける黒澤監督ならではの巧みな演出に感服です。
後半に進むにつれて段々とカメラ位置が降りてきますが、前半はやたらと見下ろすショットが多いのは、「サイコパス」に対して世界中の人間(サイコパスを含む)が「そういう人もいるよね」という傍観者を決め込んでいるからこそのカメラ位置だったのでしょう。
数時間後に思い返せば、「なんでそんな運びにくいボウルでシチュー持ってくの」「警部!そこ絶対落とし穴あるでしょ!」など、ライトタッチの映画なら確実に突っ込みを入れたくなるようなギャグショット満載なんですが、鑑賞中は「まあそういうこともあるかな」という不思議な魔術にとらわれてしまいました。
この作品はクエスチョンマークがほぼすべてのショットに生じます。主要な登場人物の全員が不可解な行動をしていて、だいたいの行動の動機が不明です。でもそれでいいのです。なぜなら我々の生きる現実世界がそうなのだから。
普段、電車で隣に座った乗客や会社の同僚、行きつけのカフェの店員、ひいては親しい友人や家族の行動の動機に対して、いかに自分が無関心であるか、いったいあの行動はどういう意味だったのかを果たして自分はどれほど考えているのか、実はほとんど考えてなく、環境が成す魔術に冒されて盲目的に「まあそういうこともあるかな」で済ませているのではないか、そして、他人の行動の動機を考えたところでそれは自分の都合のいい解釈に過ぎないのではないか。この映画の怖さの対象はけっしてサイコパスに対するものではなく、自分を取り巻くこの世界に向けられたものです。
ラストシーンは、生き残った3人の言動の不可解さが凝縮されていましたし、そもそも高倉が西野を撃ち殺すプロット自体に黒澤監督らしくない演出を感じ、それが奇妙なカタルシスを感じました。
サイコパスとは何か。
そもそも人類はなぜサイコパスという言葉を作ったのか。
名前をつけて分類することで、なんとなく危険な感じがする人、自分の周りにはいないと思うけど、世界のどこかにはいるらしい危ない人を自身の世界から切り離しつつ、自分の手の届くところに置いておいて、ただ安心したいだけではないか。
この作品は、言葉や絵、彫刻といった、個人の思考が介入したメディアによるものではなく、現象を現象として客観的に見据えることができるカメラが描いた映像作品です。
おそらく、サイコパスというものが本当に存在するとして、それを正しく捉えることができるのは、カメラしかありません。
黒澤映画に語り部は必要なし。
素晴らしい作品でした。