さようなら(2015)のレビュー・感想・評価
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新たなる希望
SFの部類になるのだろう。
この日本の地と状況のなかで、主人公が南アフリカ難民ターニャという設定だ。
難民として受け入れてくれる国が指定する人数が順次「順番」によって移民していく。
しかしそれは無作為ではなく工作されたもののようで、犯罪歴のあるものや何らかの要因によって後回しになる人々も多い。
ターニャがまだ幼い時に父がくれたAIアンドロイドレオナ。
恋人のサトシと友人の佐野がいる。みなまだ順番が回ってこない。
さて、
この作品もまた難解な部分が多い。
120年ごとに咲く竹の花をAIが最後に見たのは、その前のターニャとの会話でAIはターニャを学習しており、ターニャが興味あることや美しいと思うことをデータベース上に管理していることで、ターニャと同化したと考えることができる。
ターニャが死んでからレオナは一切動かなくなったが、ターニャの肉体が朽ち果て白骨化したころ、レオナは急に動き出すとターニャの頭蓋をなでる。
その時初めて同化現象のようなことがおきたのかもしれない。
ターニャは外に出掛ける。そして竹林を見つけ坂を下りようとするが、勢い余って転倒する。ほふく前進でたどり着いた場所に竹の花を見るのだ。
これはターニャの夢でありその夢をターニャのようになったレオナが実現させたのだろう。
これが意味するのは、SFとしてAIによる意識の獲得のようなものだろう。
しかしそうなるとタイトルの意味はかなり広範囲になる。
逆に、
ターニャを中心に考えると、皆日本から出ていく。徐々に目に見えるように人口が減少していく。
婚約したサトシは、ターニャがなぜ日本に来たのかという理由と、彼女が言った「白人も黒人も同じ」という言葉と「白人が黒人に4000人殺された」に反応する。
「帰る」突然の言葉
彼の反応の意味が全く不明だ。
しかしこれは伏線で、みんなターニャに「さようなら」をしているのかもしれない。
佐野は息子との再会と夫の冷たさといつまで待っても来ない順番に絶望して火の中に飛び込んだ。
ターニャにはもうレオナしかいない。
彼女を一人にしてしまうのがこの物語の目的なのだろう。
そして2か月
随分体調が悪くなったターニャ
外には焼却炉の中に木片をくべる男がいる。この描写だけは何ひとつ読み取れなかった。
その後二人の男が道で出会いハグして別れるのは、移民順番が来たのだとわかる。
近隣には家もないのになぜ焼却炉と男がいるのだろう???
ターニャが裸だったのは、朽ちる様子を映像化したかったからだろう。
しかしこの作品の映像には長い気だるさのようなものが付きまとっている。
冒頭のシーンも朽ち果てるシーンも盆踊りも…
それは流れる時間を表現しているのか?
ターニャがレオナを連れて外出するシーンがある。その際外の景色はすべてカーブミラーに映し出されたように歪んでいる。
それはおそらく汚染を表現しているのだろう。
しかしレオナが一人で山へ行くとき、もう歪みはない。
汚染が除去されたのだろうか?
さて、
ターニャはすべてにさようならをした。
レオナは物理的に朽ち果てる様子を見届ける。
ターニャは汚染された日本を表現しているのかもしれない。
みな彼女のもとを去った。
レオナは物理的な死を経験すると同時に、ターニャのすべての記憶がある矛盾と葛藤したのかもしれない。
失ってしまったと思っていたターニャの記憶と思いとがある。
120年に一度咲くという竹の花を見たのは、希望であり、日本は死んでなかったということなのかもしれない。
この作品は絶望から希望を見出す物語だと思った。
舞台でみたほうが良いかな
設定もアンドロイドが役者に挑戦するのも面白い。でも、想像で補えてデフォルメもしやすい舞台のほうが適しているのではないかと感じた。
アンドロイドももう少し手間を惜しまなければチープ感が出ないように出来たはず。ボロが出ないようにロケーションを限定しているのだから、その枠外の部分だけもコストをかけてしっかり作り込んでほしかった。そうすればぐっと世界にのめり込めたのに。
とはいえ、この映画を観たことで舞台版に興味をもてた。その点においては感謝。
ミニレビュー
リアルな静かな映画でした。
原作を読みたくなった
温かさの中に見る、生と死。
いろんなことが淡々と残酷。 その残酷さは、あとからジワジワくる。 ...
もっとシンプルに
近未来がそうだったら。
寝てしまいました
多少の忍耐を要します
ちょうど正岡子規の「死後」という文章を読んでいて、言い知れぬ苦痛に襲われていたのだが、この映画を見終わって何か二度同じダメージを受けたような感じを受けてしまった。
死に向かう主人公がまさに子規であり、子規が半ば望んだ死の姿というのがミイラであり、ターニャも半ばそのように変わり果てていくー、どんな形で死というのを見せてくれたとしても、なぜか無駄なようにしか思えのが正直なところ。
死というものをジャミノイドFと同じ目線でスクリーンの前の我々が見ている。我々の気持ちは恐らくアンドロイドの彼女と同じであり、何の感情も湧き上がってこない。それが良いのか悪いのか分からない。多分意味なんて無い。ただその映像を美しいとか、酷いなとか、長いなとか、そう思う程度で、死そのものなんてどうでもいい。
アンドロイドを扱い、壊れゆく世界を扱ってはいるけれども、未来的とか革新的映像をとかそういったものとは無縁の映画。もう敢えて挙げてしまうが「サクリファイス」である。あの映画を見るのと同等の忍耐が必要なのである。
監督はかなり映像美にこだわったという発言をしていたが、個人的にはまだまだ不満が残るものであった。確かに、光の具合やロケーションには感心するものがあった。しかし、個人的に、構図と色彩にややこだわりの無さを感じてしまう。確かに、現代において写実的な油絵を発表するような難しさなのかもしれないけれども、それいゆえに尚更、絵的な部分にこだわりを持って欲しかったと思ってしまう。
ただ、フォルクスワーゲンの登場には舌を巻いた。社会的な問題をトコトン詰め込んだ映画にあって、まるで未来をも予測したようなVWの登場だっただけに、これはまさに社会派映画なのでは!?と勘違いしそうになるくらいだった。先見の妙なのか偶然なのか...まぁねぇー。
最後にひとつ、疑問に思ったことがある。死んだ人に、鳥肌が立つものなのかどうか、それだけが気になってしまった。どうでもいいことなんだろうけど。
ジェミノイドFが超好演
レオナ(ジェミノイドF)が感情あるように段々見えてくるね。舞台と違って、映画だと衣装変えられるし、色んなシチュエーションで撮れるから、本当に生きてるみたいに見えてくる。
「レオナ(ジェミノイドF)がいなくなったら、ターニャはどうなってしまうのか」って思うんだけど、冷静に考えるとレオナはアンドロイドなんだよ。それが拠り所にあるって不思議な感じ。
映画の主題は、アンドロイドとは特に関係ないところにある気がしたなあ。前半は、原発や人種差別の話で、後半はメメント・モリなのかな。
後半は象徴的なシーンが続いて眠くなんのね。そこを耐え切って観たら何か解るのかもと思ったけど、今日は眠くて集中しきれなかったな。体調万全にしてもう一度観ようと思うわ。
青年団の俳優さんも何人か出てくるから、青年団好きのひとは「あ、◯◯さんが」と思いながら観たら楽しいと思うよ。
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