ハッピーアワーのレビュー・感想・評価
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これしかあり得ない、絶妙なタイトル
夫婦間のすれ違い、子育ての戸惑い、仕事の重圧、計りかねる他者との距離感…。次々にあぶり出される、切実で身近すぎるあれこれ。観ている時は、「ハッピーアワー」とは何て真逆なタイトルだろうと思った。けれども、観終えてみると、これ以外のタイトルはあり得ないという気持ちに満たされた。噂に違わぬ、至福の5時間17分だった。
この作品で特筆すべきは、とにもかくにも「時間」だ。そこに流れているのは、めったに味わうことのできない、混じりない映画の時間。映画が終わったら何を食べようとか、何をしようとか、あれはどうなっているだろうとか、そういったものが入り込む余地が全くない。かといって、遊園地のアトラクションのように、別世界に引き込む訳でもない。4人のヒロインをはじめとする映画の登場人物と、観る者の時間がすっと重なる。彼らと共にそこに居合わせているような、そもそも昔から知って知るような、そしてこれからも何処かでふっと出会うような。そんな印象を、確実に残してくれた。
印象と言えば、画面いっぱいに顔(表情)が捉えられ、二者を交互に切り返しながら会話が描かれるシーンも忘れ難い。(往年の映画手法だが、最近はなかなかお目にかかれない。近作なら、黒沢清監督の「岸辺の旅」。また、濱口監督の共同ドキュメンタリー作品「なみのこえ」三部作でも、この手法が効果的に使われている。)臆面もなく、という言葉が思い浮かぶくらい真正面。それに耐えられる俳優さんたち(とはいえ、本作はワークショップから始まったであり、主役4人をはじめ多くは「新人」「素人」だが…。)も、スタッフの技も素晴らしいと感じた。また、人物の身体を逆光から捉え、漆黒のシルエットで描き出すシーンの数々も、凛として美しい。表情を押し隠したその影を、まばたきを惜しんで凝視せずにいられなかった。改めて、人をしっかり見る、言葉をきちんと聴くという、一見ありふれた行為の難しさや大切さに気付かされ、そんな行為を最近自分は怠っていたな、という自戒もわいた。
前半で身体ワークショップ、後半で朗読会のシーンがじっくりと映し出されることからも、「身体と言葉」が、本作で重要なテーマとなっていることは明白だ。その中で、桜子の義母の振る舞いは、一つの答えであるように思った。出番は少ないながら、彼女は主役4人に負けず劣らず魅力的で、軽やかな印象を残す。彼女の言葉や仕草はゆっくりとしていて、よくよく考えられ、選ばれたものであることが多い。息子宅の居候でもあり、周囲を気遣い、常に間合いを取りながら振舞っているように見えた。けれども、そのさじ加減が絶妙で、わざとらしさは全くない。ちょっと芝居がかったセリフや仕草までも、すとんと腑に落ちる。閉塞した状況に、ちいさいけれど絶妙な風穴をあける彼女。自分も、歳をきちんと重ねて、いずれはそんな振る舞いをできるようになりたいと思った。
今回は、5時間余を三部に分け、休憩を2度挟んだ上映形式で鑑賞したが、休憩というより中断に感じられた。休憩時間に外に出て空を眺めながら、様々な想いや引っかかりを反芻し味わえたとはいえ、この後、ちゃんと彼女たちに再会できるのだろうかと心配で堪らなかった。インターバルなしの濃密な上映も、ぜひ体験してみたい。
世俗な社会の切れ目に垣間見える聖性のようなもの
徹底して世俗なものにカメラを向けながら、ふとした瞬間に聖性が訪れる。そういう瞬間は5時間の間に何回もある恐るべき作品だった。ワークショップで、怪しげな鵜飼という男が、ナナメに椅子を立ててみせる。あの不思議な、何か世界に法則に切れ目が入ったような瞬間を捉え、それを境に4人の女性が生まれ変わったように変容していく。後に4人の女性の一人が鵜飼にクラブに連れていかれる。そこで彼女は、キリストのように両手を広げて、フロアの客たちにあおむけに運ばれる。世俗の中に異様な聖性のイメージ。低予算のワークショップだから、ロケ場所もよく見かけるありふれた場所だが、そんな場所で私たちが気が付けない異様なものをカメラが捉えている。実は、私たちの生きる社会でも目を凝らすと、そういう聖性が漏れているのだ。
奇蹟のような出会いや再会が何度も描かれるが、それがご都合主義ではなく必然に見えてしまうのは、そういう風に漏れだす聖性ゆえだろうか。
5時間しゃべりっぱなしの映画でもある。濱口映画は声に力がある。映画にとって声は何か、私たちは充分に考えてこなかったのかもしれないと思った。
胃の腑の声を聞く
「ハッピーアワー」
この題名?反意語?
30代は、森羅万象が押し寄せる未曾有の時間?
☆☆☆平凡な日常を送る4人の30代の女性が、非日常の事件に出会う。
そんな映画です。
濱口竜介監督のこの作品は、日常を描いていて「非日常」へ
連れて行かれます。
①ワークショップ
②朗読会
この2つのシーンが日常から非日常へと誘う鍵になります。
人は何故に講演会とか美術展、コンサート、展示会・・・
へ向かうのかが分かった気がする。
《非日常な空間に身を置く》
そのために人は、わざわざ出かける。
①ワークショップ
鳥飼の開催したワークショップは風変わりなものだった。
額と額を合わせて、相手の考えてたことを当てる。
鳥飼は最初にパイプ椅子を斜めに立てて見せます。
《ここで一気に非日常に時間は変わる》
2人1組になり、相手のお腹に耳をあてる。
音が聞こえる。
臓物の動く音。
胃が食物を消化する音。
これが聴診器を当てたように聞こえるらしい。
一気に他者が身近な人に変わる。
《魔法にかけられたのです》
そうして純は告白する。
1、離婚裁判をしていること。
2、理由は純の浮気
夫は別れたがらず、裁判は泥沼化してると告白する。
あかり(看護師)
桜子(主婦)
芙美(編集者。夫も編集者)
純(離婚訴訟中の女性)
あかり、桜子、芙美の3人は純の心配に心を砕くことになる。
★事件その①
純は妊娠している。
それも大嫌いは離婚を望んでいる夫の子供。
純は親友たち4人で出掛けた有馬温泉の一泊旅行のその足で、
失踪する。
★事件その②
桜子の中3の息子が幼馴染の女子を妊娠させる。
★事件その③
あかりが有能でない後輩看護師に腹を立てて、
階段を落下して骨折する。
☆☆☆朗読会(芙美の夫が担当する若い女性作家の)でも、芙美が混乱する。
★事件その④
芙美の夫が女性作家に恋をしているのを確信した芙美。
離婚を切り出して、別れを告げる。
★事件(おまけ)
芙美の夫が、トラックと激突して、あかりの病院に救急搬送される。
手術を受ける。
芙美が駆けつける。
「ざまあみろって言ってやる」
ここで映画は終わるのです。
結構な波瀾万丈の展開。
オープニングのピクニック。
4人の親友の女子会のはずが、とんでもない告白大会。
4人みんな本音で話します。
あかり「嘘があったら私は友達でいられない」
この言葉のように、日常の殻を破って行く女たち。
5時間超えの長編映画。
インターミッションの3分間が2度入ります。
中弛みなし。
主役の4人は素人俳優だとか。
結構な重み。
面白かったです。
映像も会話も凄い
良い映像と個性的な会話があれば無敵だということを実感させる映画。
クラブ、こちらを見る目のシーンがめちゃくちゃ良い。
セミナーや朗読会が妙に長いのも観客の同化という意味では正しいと感じた。
酷い棒読み
WOWOWで鑑賞。
濱口監督の作品はボソボソ話す大根役者が必ず主人公。
役者は感情を殺すように指導されてるのか?大根役者を使うのが好きなのか?
この作品では、スイスの映画祭で女優が最優秀女優賞を受賞したと書かれてますが海外では棒読みはわからないか。
いや、最優秀って?
本当ですか?
酷い演技と棒読みに見る気も失せます。
眠気が襲ってきます。
離婚話をするシーンとか棒読み過ぎて笑いが込み上げてきました。
そして、魅力的な登場人物が1人も居ない。
「寝ても覚めても」は少しはマシでしたが「ドライブ・マイ・カー」は主人公の西島秀俊の棒読み演技に途中で眠くなって挫折。
今回も時間が無駄だと感じて挫折。
濱口監督の作品は私には無理みたいです。
絶えざる懊悩の果て 自己倫理の手触り
とりあえず何か褒めてみようと思うのだが、何一つ気の利いた褒辞が思いつかないのは、本作がたかが数文字、数行の言葉では決して攻略することのできない深みと広がりを有していることの証左だ。世界が単純な二分割法によって白か黒かに塗り分けられつつある昨今だからこそ、この緻密で複雑なパズルのような大作はますます大きな意味を持ってくるのではないかと思う。
たとえば純の夫の公平ははじめこそ本当に腹立たしい奴で、離婚裁判の最中に自分が不利になることを知っていながらも必死に自己自身を開示する純に対して「君に勝ち目はない」などと言い放つような冷血漢だったのだが、後半の朗読会シーンでは、若手作家の詩情溢れる短編小説に対して的確かつ真摯な感想を述べている。豪放磊落な性格で4人の仲を取り結ぶ芙美も職場では後輩に対してお局的な嫌味を言いまくっているし、ワークショップで不思議な存在感をみせた鵜飼はそこいらの女に手当たり次第しょうもない口説き文句を垂れる。
いうなれば登場人物の誰も彼もが明と暗、正義と悪、男と女、自我と非我といった両義性のあわいをゆらゆらと揺れ動いていて、引き裂かれていて、要するにどこか一点に固着するということがない。もちろん「○○はかくあるべき」という使い古しのコンセンサスに拝跪することもない。
とはいえ一方で本作は安易な相対主義的言説、すなわち「逃げの一手」としてのオープンエンドとも一定の距離を取っている。終盤にかけて諸々の人間関係がドミノ倒しのように崩れていくさまは見事としか言いようがない。これはひとえに彼らが両義性の波に揉まれながらも、最終的に自分なりの選択に踏み切ったがゆえの悲劇(あるいは喜劇?)だ。
生きていれば否が応でも判断せざるを得ない状況がいくらでもある。しかしそのような構造そのものに反旗を翻したところで、それは空想上の遊戯に等しい。彼らが絶えざる懊悩の末に手にするのは、「○○はこうあるべき」とも「みんな違ってみんないい」とも様相を異にした、いうなれば自己倫理の感覚だ。たとえば芙美が鵜飼の妹に「好きな人とする性行為しか意味がない」と披歴するシーンがあった。ありきたりの言葉であるはずなのに、それは確かに彼女だけの言葉だった。終盤はそういう自己倫理の重みを湛えた素晴らしいシーンがいくつもあった。
また、終盤のドミノ倒し的展開にアクションスリラー的な作為性を感じないのは、おそらくそれ以前の4時間以上にもわたるドキュメンタリー的なナラティブが土台として存在していたからだと思う。あの丹念な言葉と言葉の、あるいは人間と人間の交通の蓄積を思えば、崩壊は必然だったと誰もが納得できる。本作における人間関係の崩壊は「目的」ではなくあくまで「結果」なのだ。
つらつらと所感を書き連ねてきたが、なんだかんだ一番すごいのは本作が物語映画としてメチャクチャ面白いということかもしれない。5時間といえば『七人の侍』とか『ゴッドファーザー2』の1.5倍くらいの時間だ。そのような長丁場をほとんど言葉のやりとり(しかも法廷劇のようなド派手な口上さえない)だけで映画として成立させてしまう濱口監督の手腕にただただ脱帽するばかり。『ドライブ・マイ・カー』でのカンヌ脚本賞受賞もむべなるかな、という気持ちだ。
見応えがありました。
wowowで録画し、2回視聴しました。
5時間超の作品でしたが、非常に見応えがありました。主人公4人の日常が丁寧に描かれ、4人それぞれの決断も見れて良かったです。
何気ないシーンがたくさん伏線になっており、全てが繋がっている映画です。意味のないシーンは一つも無かったように思えます。
序盤のワークショップでの「腑を聞く」は、後々の女性4人やそれぞれの夫婦の関係性に当てはまり、腑を聞くことの重要性が浮き彫りになりました。ワークショップ後の自動販売機の伏線も見事に回収されてましたね。
また印象に残った点は、あかりは「友達なら全部話して欲しい」に対して、芙美は「友達でも(聞かれなければ)全部話さない」という点は2人それぞれに共感しましたね。
残念な点は、ところどころセリフが聞き取り難かったです。終盤に電車で男性が桜子に何と声をかけたかが、いくらボリューム上げても聞き取れませんでした。
また、終盤に展開を詰め込みすぎた感があるので、もう少し尺が長くても良かったかなと思います。
理解あっていいねっていう台詞の空虚さよ
冒頭のシーンで「配偶者が理解あっていいね」と4人の女性が言い合う。この理解ってなんだっていうのはこの作品のテーマなのかなと思う。
人が他者を理解するというのはなんて難しいことなんだろう。家族だろうと夫婦だろうと友人だろうと、なかなかうまくいかない。他者は謎に満ちている。
コミュニケーション不全だったり、そもそも伝えることを諦めていたり恐れていたり、発した言葉が感情とズレを生じていたり、自分の価値観と違うものを受け入れられなかったり、代弁は無意味だしなどいろんな要因で、人は理解しあえないということが作品を通じて伝わってくる。
世界は人によっては美しかったり残酷だったりする中で、じゃどうすれば?どうやって理解しあえば?
一つ提示されるのは身体的コミュニケーション。接触する、抱きしめる、セックスする。でもそれはちょっと癒やされるだけで、解決にはなりえない。
では?
「では?」の後を語らないのは、底の浅さを見透かされたくないからだっていう自嘲も挟まれるけど、確かにこれはもう、どうしようもない話。
だから、ドライブ・マイ・カーと同じく、こんなわけのわからない世界でわけのわからない他者とつきあって苦しんだり喜んだりしていくのだから、わたしたちには「ハッピーアワー」が必要だよね、ってそう思う。
ドキュメンタリーのようにリアルな感じで淡々とした4人の日常が描かれる。特にたいして大きな出来事もないままなのに、その中で起きるあれこれや発せられる言葉は、なかなかいい具合に刺激的でいろいろ考えさせられた。新しい映画の楽しみ方を感じた。
ただ個人的にどうしても気になったのは共同脚本にしてなぜこれかなと思う点。
「○○には女性を殴る甲斐性はない」と女性が男を評するシーン、この言い方必要かな。その女性の浅さを示そうとしてるにしても、なくていいかなと思う。この台詞が気にならないことが残念。
500分を超える長さだけど不思議と飽きない。 普通の映画だとカット...
500分を超える長さだけど不思議と飽きない。
普通の映画だとカットされるような登場人物の行動、心情を細部まで描いている。これが観ていて面白いし、まだまだ観ていたいなと思う。
贅沢な時間づかいの中で特に2つのワークショップが印象的。
最初のワークショップは講師の空っぽそうな感じと内容でこんなんで良いんだと驚きつつ、相手のはらわたを聞くつもりで人と向かい会えていないなとか思ったり、
2つ目のワークショップから上辺だけでなく、自分の心を言葉として伝えてなくちゃなぁとか思わせてくれた。
決定的な何かがあったわけではないが、不安や寂しさなど様々な感情から起きるすれ違い、衝突。
観ていてもどかしくもなるが、こればかりはどうしようもない。ラスト、私はちょっと苦々しく感じた。
長かったけど…
女性の友情が壊れていく様子が、とても上手く描写されていた。女性でないので、女性の考え感じかたに共感はできないものの、勉強になりました。人を理解することはこんなにも難しいのか…。本音が聞ける機械が有れば良いのに🎵
ドキュメンタリー手法の金妻(古い)
それこそフレデリック・ワイズマンが「金曜日の妻たちへ」を撮ったらこうなるのでは?という感じのドキュメンタリータッチの壮大な現代家族ドラマ。
やむにやまれぬ人間達の行動によって、喜怒哀楽が、静かに、しかしダイナミックに積み上げられていく。
まあ一通り生きてきた「おばちゃん達」(「おじちゃん達」もか)の曲がり角と再生の物語ですかな。
素晴らしい。
60年近く経過する超レトロな映画館での鑑賞。
5時間以上の映画とはどんな映画だろうか。
自分はそんな映画をしっかり観ることができるだろうか。
不安と覚悟を決めて鑑賞。
正直、面白かった。
5時間無駄なシーンも無く。
誰一人として知らないキャスト。
始まりは棒読みみたいなセリフ。
でも徐々にリアリティに思えて、
ワークショップでも朗読会でも
自分がそこにいる様に感じる。
こんな映画は初めて。
7,8年振りにパンフレットを買ってしまいました。
素晴らしかった。
大河ドラマのようでした。要所で大笑いしました。
早寝早起きの自分が、何年かぶりに夜更かししてしまいました。ときどき、顔が暗くて見えないまま話しつづけるショットがあり、それが妙にミステリアスで最初に引き込まれました。これはもう数回みて考察してみようと思います。心理学でいう「ペルソナ」のことかな?そりゃ考えすぎかな。
主人公4人でもあり、1人1時間は必要であるとして、決して飽きずに、大河ドラマ5-6話分を一気に見終わった気分でした。4人とも女性だが、若くして成熟しているともいえるし、しかし実はまだまだ若く、成長の余白と希望がある。その一方、さくら子の義母は生き抜いた老人の知恵がある。彼女は常に論理を超えた存在にも見えた。そんな対比でみていました。また主人公らは決して回避せずにもがいており、逞しく、その振る舞いはむしろ羨ましいと映った。その点、男どもは何とも脆弱で、女性の手のひらの上で泳がされているだけかいな、と何度も大笑いしました。
キャスティングは最大の演出
なんだか凄いの観ちゃいました。3部構成5時間超。
全く飽きない。眠気もない。引き込まれて引き込まれて。
まさかね、まさか、こんな展開になるとは?の始まりのシーンから一気です。
一部、二部、三部 全てスキ無し、無駄無し、息つく暇なしです。
休憩時間中の続きが待ち遠しい気持ち、こんな気持ちいつぶり?
人間関係や、人間同士のコミュニケーション(友人、夫婦などなど)の根幹となる人間の気持ち、価値観、考え方、そこから導かれる生き方・・・こんなこと永遠に解き明かせないんじゃない?・・・なことに真正面から向き合って、ほんの一部ではあるけども、人間そのものを切り取る・・4人分。
そりゃ、5時間でも足りないですよね(笑)
まず、演出のキーであるキャスティングが素晴らしい。演技経験がほぼ無い方々を起用されたことが、作品にリアリティと説得力を生んでいると思います。テイク数も少なかったんじゃないのかなー?なんて勝手に推測。生々しく、体温を感じるんですよね、映像から。
演者のみなさん、最初はセリフ棒読み気味ですが、どんどん演じることに慣れてきた感じになり気にならなくなります。棒読み気味でも朴訥な感じが場面によっては緊張感、緩和を生み出してますし、あのなんとも形容し難い「間」。あれは演出なのか?いやいや、長回ししてるので演者たちが作った、いや経験がないからこそ生まれた「間」なのでしょう。
演技としては稚拙と言われるのかもしれませんが、僕はとてもよかった絶妙なのです。その存在が。
また、カメラワークは単調のようで、顔のアップ、切り替え多用で動きがうまれ、会話劇をより深く描いていると思います。なぜなら女優陣含め皆演者の表情が良いんです。
役柄と同じ生活されてるのでは?なんておもっちゃいます。全員。
あぁ、ここまででかなり書いてしまいましたが、もう少し。
さてさてお話。よくもまぁこんなお話つくれましたね!と驚嘆です。日本映画すごいじゃん!
4人の37歳の女性がそれぞれ異なる生活基盤のもと問題(問題の種)を抱えつつ生活していく。
それぞれの繊細な心の動き、微妙な違和感、心の中の揺れ動きを映像としてを丁寧に丁寧に、そうですねぇ例えるならひと針ひと針刺繍を作っていくかのように描いていきます。
若干、「ん?」と思うようなイベント出来事はあるものの、あまり気になりません。出来事で成り立つストーリーではなく、出来事によって変わる心情がメインだからかな?
本作は自分を知るとは?他者を知るとは?。
他者の中の自分。他者と対する自分。(色んな)社会の中における自分。それらを通じて「自分」を見出し、「自分に素直に」次の扉を開くまでのお話だと思います。もちろん他者も知る中で。
自分を理解し、認めて受け入れることはできているようでできていない。・・・自分自身と向き合う勇気がないからなのか?自分をわかっていると勘違いしているから?
いや、何かから(ひとそれぞれの手枷足枷)解き放たれていないからかもしれないです。
自分を理解し、受け入れ自分に素直になる。。。。素直に行動する。。。素直に求める。。。
その結果はもしかしたら一般的に言われる幸福ではないかもしれないし、一般邸に言われる苦労しかないかもしれません。自身の置かれている立場や環境によって変わるのでしょう。
しかし自分に素直になるとは揺るがない強さを手に入れることだとも思います。
でも、人間としてはもっとも幸せ(ハッピー)なのかもしれません。それが。
そして、わかったと思っても、また新たなことも発見したり調整が必要になったりするのでしょう。
そんなに単純じゃないですからね、人間なんて。何度も繰り返すのでしょう。他者と自分の「解り合い」を。
他者と自分の「解り合い」
それこそが、自身を前に進めるためのものであり、他者を前に進めるためかもしれません。
その時間こそが「ハッピー(を作る)アワー」なのかも?
それを実現してくれるであろう他者との時間は友人との時間。
短いながらも「ハッピー(な)アワー」。
ナイスな題名だと思いました。
こーいうドラマ、地上波で多くの方に見てもらいたいと心から思いました。
人間関係がやたら殺伐感が増し、コミュニケーション不足が言われている昨今だからこそ。
最後にこれからご覧になる方々へ。
一部で描かれるワークショップはしっかりと観てください。本作のテーマがぎゅっと詰まっています。
濃密な時間
さすがに長いだけあって、描写が丁寧に描かれ臨場感があった。
4人が揃った時、2人になった時、夫婦の会話、それぞれの変化をありのままをさらけ出されて、その外側で見る感覚。客席側の一体感みたいな物を感じた。
平凡の大功徳
夏目漱石は「文学論」の中で、J.オースティンの小説を「平凡の大功徳」と評したそうだ。
この映画では、普通では考えられない長時間にわたって、J.オースティンさながらの“卑近”な話が、「寸毫の粉飾」を用いずに描かれる。
どこかで聞いたような愚痴や口げんか、「こういう奴、居るな~」という登場人物。
さらに、第1部の「ワークショップ」や第3部の「朗読会」のシーンは延々と続き、少し居眠りした後に目覚めても、まだやっているほどの長さであった。
その結果、自分の中の“日常感覚”が生々しく反応する。映画を観ているのに、実生活の中で聞いているような感覚に陥るのだ。
あたかも自分も参加しているような、あるいは、“盗み聞き”しているような感覚だ。
そのことで、漱石の言葉を借りれば「奇なきの天地を眼前に放出して」、「客観裏に其機微の光景を楽しむ」効果が生まれる。
“劇的”な演出とは、真逆の手法だ。
時間感覚も、マヒしてくる。
頭と目をフル動員して、激しい展開を期待する映画なら、次第に疲れてくるだろう。しかし本作品の、実生活のひとコマのような“まったりした”時空の中では、317分でも長く感じない。
上記と関連して、この作品には「謎」がある。
「打ち上げ会」のシーンなどで、役者の台詞が、しばしば“棒読み”になるのに、なぜ面白いのか?である。
台詞のあいだ、役者の身体の動きが止まっていることも多い。
現実には、人間は考えながら、そして身体を動かしながら喋る。他人の話に割り込むことも、しばしばである。
だから、あれほど抑揚の乏しい、言語明瞭かつ理路整然とした会話は、現実にはあり得ないし、映画の台詞としてさえ異常である。
身体の動きを止めた“棒読み”は、役者が“素人”だからというだけではなく、監督が積極的に求めた演技だろう。
この場合、演技の要素は、すべて台詞の中身に存在する。
だから観客は、もはや映画でありながら映画を観ているのではない。複数人による“朗読による演劇”を観ているのだと思う。
一方、“棒読み”とは逆に、ハッとさせるほどに、自然な発声による会話も出てくる。
冒頭の「お弁当」のシーンや、「朗読会におけるQ&A」のシーンなどは、現実世界の何かのトークを、そのまま脚本にねじこんだと思われる。
脚本家が、頭で書いたのではないはずだ。
映画館の客席には、女性も目立った。
しかし驚いたことに、脚本家は3人全員、男らしい。その男たちが、女性の“生活”を描く。
この作品が本当に成功しているかどうかは、女性がどう感じたかで決まると思う。
自分としては、ビターな家族関係や性愛をテーマにした“だけ”の本作品は、非生産的で面白くはなかった。
ただ、各々の登場人物が、ズレながらも絡み合い、複雑な経路を辿りながら、伏線を回収しつつ、それぞれのカタルシスへと向かっていく“織物”のようなストーリーは、とても狡猾に吟味されていると思う。
自分としては、結末よりもそこに至るプロセスが面白い。“あけすけな”独特の会話劇は、間違いなく一見に値する。
丸1日費やしたが、良いものを観た。
【自分と向き合うことと、解放感と】
自分自身と、自分の奥底に潜むものと向き合うのは大変だ。
だが、そうしないことには、自分のことを好きになれなかったりする。
この長い長い作品を観ながら、僕達は自分自身を理解しようと試みることになるのではないのかと思う。
女性は女性としてシンパシーやエンパシーを感じるだろう。
また、男性は、女性4人が主人公だけれども、その視点で男性としての自分に共通する部分を見つけたり、当然、彼女たちを取り囲む存在としての男性を通じて感じるものもあるだろう。
この作品を観た、その日の夜、Eテレの100分で名著「ディスタンクシオン」の最終回で、著者である社会学者ブルデューの随分古いインタビュー映像が流れた。
移民労働者に関する著作に収められた移民との対話を読んで、自分自身を見出したという人達の反響が多かったこと、中には、自分を理解することが出来たという女性もいたことが語られていた。
大袈裟な言い方かもしれないが、この「ハッピーアワー」は、登場人物を通して、僕達を自分自身に向き合わせる、そんなエネルギーを秘めている気がするのだ。
僕は、ジェンダレスな社会を志向する方だ。
ただ、この作品を観ながら、「批判的な意味ではなく」、ジェンダーから逃れることは、改めて難しいなと感じるし、そして、この事実と折り合いをつけながら生きていかなくてはならないのだろうなとも思う。
話は変わるが、鵜飼がボランティアをしていたと言っていた東日本大震災の被災地、神戸、そして、有馬は、もしかしたら、象徴的に使われたのではないか。
神戸は阪神淡路大震災で被害の大きかった場所だし、有馬は、こずえの朗読でも出てきた通り、有馬高槻断層帯でも知られる場所だ。
この作品は15年の公開だが、18年の大阪北部地震は、この断層の一部が動いたものだ。
僕達は、生きていく中で、悩みなど様々な歪(ひず)みを抱えて過ごしている。
純の起こした離婚裁判は、長いこと蓄積された断層の歪みの反動のエネルギーのようなもので、更に、これに突き動かされたように、桜子、芙美、あかりの人生も揺り動かされる。
活断層が動いた後の余震のようだ。
何事もないように立っていたビルや住宅、道路や、畑や田んぼにも亀裂が入り、元に戻すのは容易ではない。
だが、そこに折り合いをつけて、また、僕達は生きていかなくてはならないのだ。
前段で、ジェンダーと折り合いをつけながら生きなくてはならないと書いたが、そもそも、僕達の存在そのものが微妙なバランスを保ちながら生きている。
あの、鵜飼がワークショップで見せた、一点立ちの椅子のようだ。
あっと言う間に、倒れてしまう。
丹田に耳を当て、耳を澄まし身体の音を聞いてみたり、背中を合わせて呼吸を合わせて立ち上がることが出来て、楽しくても、何かを感じても、それは、何かを理解したことにはならない。
やはり、言葉は重要だ。
だが、時として、言葉は耐えられないほど軽く、心の奥底を表現するのが難しかったりする。
こずえの小説の中に出てくる拓也を模したのではないかと思われる人物。
こずえの気持ちを窺い知ることが出来ても、こずえが拓也に直接好きだと言う方が、本当はより伝わりやすかったり。
だからといって、更に踏み込んで、誰かと肌を擦り合わせ、肉体を合わせても、本当に欲しい回答を得られるわけではない。
有馬で4人の写真を撮ってくれた滝好きの女性。
父親が祖父の死を隠していたことを話す。
父親はよく嘘をつくのだと。
純は、それを聞いて何を感じていたのだろうか。
僕は嘘ではなかったのでないかと思う。
父親は、祖父が生きていると信じたかったのではないかと。
純が、公平に対して起こした離婚裁判には、真実じゃないものもあるのかもしれない。
しかし、溜まりに溜まった歪(ひず)みから生まれた公平に対する感情は真実だ。
何かを掴みかけていると言って、身重で一人旅立つ純。
事故を起こした拓也にざまみろと言ってやると話す芙美。
家を出ていかないし、良彦に謝ることはないと言い放つ桜子。
怪我をしながら、複数の男と寝て、桜子に詫びてやり直したいと、純の帰りを待って、また、旅行に行きたいと言うあかり。
自分に向き合って、何か吹っ切れたような4人は、前よりも、もう少し、いや、もっと自分を好きになっているに違いない。
※ 年末で過去放送のドラマの再放送オンパレードだったりするが、この作品は夜中にでもテレビ放送してあげたら良いのにと、日本中の人に見て欲しいと思うくらい、素敵な作品でした。
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