ハッピーアワーのレビュー・感想・評価
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これしかあり得ない、絶妙なタイトル
夫婦間のすれ違い、子育ての戸惑い、仕事の重圧、計りかねる他者との距離感…。次々にあぶり出される、切実で身近すぎるあれこれ。観ている時は、「ハッピーアワー」とは何て真逆なタイトルだろうと思った。けれども、観終えてみると、これ以外のタイトルはあり得ないという気持ちに満たされた。噂に違わぬ、至福の5時間17分だった。
この作品で特筆すべきは、とにもかくにも「時間」だ。そこに流れているのは、めったに味わうことのできない、混じりない映画の時間。映画が終わったら何を食べようとか、何をしようとか、あれはどうなっているだろうとか、そういったものが入り込む余地が全くない。かといって、遊園地のアトラクションのように、別世界に引き込む訳でもない。4人のヒロインをはじめとする映画の登場人物と、観る者の時間がすっと重なる。彼らと共にそこに居合わせているような、そもそも昔から知って知るような、そしてこれからも何処かでふっと出会うような。そんな印象を、確実に残してくれた。
印象と言えば、画面いっぱいに顔(表情)が捉えられ、二者を交互に切り返しながら会話が描かれるシーンも忘れ難い。(往年の映画手法だが、最近はなかなかお目にかかれない。近作なら、黒沢清監督の「岸辺の旅」。また、濱口監督の共同ドキュメンタリー作品「なみのこえ」三部作でも、この手法が効果的に使われている。)臆面もなく、という言葉が思い浮かぶくらい真正面。それに耐えられる俳優さんたち(とはいえ、本作はワークショップから始まったであり、主役4人をはじめ多くは「新人」「素人」だが…。)も、スタッフの技も素晴らしいと感じた。また、人物の身体を逆光から捉え、漆黒のシルエットで描き出すシーンの数々も、凛として美しい。表情を押し隠したその影を、まばたきを惜しんで凝視せずにいられなかった。改めて、人をしっかり見る、言葉をきちんと聴くという、一見ありふれた行為の難しさや大切さに気付かされ、そんな行為を最近自分は怠っていたな、という自戒もわいた。
前半で身体ワークショップ、後半で朗読会のシーンがじっくりと映し出されることからも、「身体と言葉」が、本作で重要なテーマとなっていることは明白だ。その中で、桜子の義母の振る舞いは、一つの答えであるように思った。出番は少ないながら、彼女は主役4人に負けず劣らず魅力的で、軽やかな印象を残す。彼女の言葉や仕草はゆっくりとしていて、よくよく考えられ、選ばれたものであることが多い。息子宅の居候でもあり、周囲を気遣い、常に間合いを取りながら振舞っているように見えた。けれども、そのさじ加減が絶妙で、わざとらしさは全くない。ちょっと芝居がかったセリフや仕草までも、すとんと腑に落ちる。閉塞した状況に、ちいさいけれど絶妙な風穴をあける彼女。自分も、歳をきちんと重ねて、いずれはそんな振る舞いをできるようになりたいと思った。
今回は、5時間余を三部に分け、休憩を2度挟んだ上映形式で鑑賞したが、休憩というより中断に感じられた。休憩時間に外に出て空を眺めながら、様々な想いや引っかかりを反芻し味わえたとはいえ、この後、ちゃんと彼女たちに再会できるのだろうかと心配で堪らなかった。インターバルなしの濃密な上映も、ぜひ体験してみたい。
世俗な社会の切れ目に垣間見える聖性のようなもの
徹底して世俗なものにカメラを向けながら、ふとした瞬間に聖性が訪れる。そういう瞬間は5時間の間に何回もある恐るべき作品だった。ワークショップで、怪しげな鵜飼という男が、ナナメに椅子を立ててみせる。あの不思議な、何か世界に法則に切れ目が入ったような瞬間を捉え、それを境に4人の女性が生まれ変わったように変容していく。後に4人の女性の一人が鵜飼にクラブに連れていかれる。そこで彼女は、キリストのように両手を広げて、フロアの客たちにあおむけに運ばれる。世俗の中に異様な聖性のイメージ。低予算のワークショップだから、ロケ場所もよく見かけるありふれた場所だが、そんな場所で私たちが気が付けない異様なものをカメラが捉えている。実は、私たちの生きる社会でも目を凝らすと、そういう聖性が漏れているのだ。
奇蹟のような出会いや再会が何度も描かれるが、それがご都合主義ではなく必然に見えてしまうのは、そういう風に漏れだす聖性ゆえだろうか。
5時間しゃべりっぱなしの映画でもある。濱口映画は声に力がある。映画にとって声は何か、私たちは充分に考えてこなかったのかもしれないと思った。
やはり濱口作品の会話劇は面白い
ようやく、劇場で鑑賞することができた。
評判に違わぬ面白さだった。
恋愛と人間関係をテーマにして、実に様々な要素が含まれた
人間が持つ理性的な面と情動的な面、
個人の本来の(?)意思と、他者をよりどころとする行動、
演技と自然体、
肉体と精神。
そして、それらのどちらにも傾かず、それぞれを持つ人が互いに影響しあい、助け合い、前に進んでいく。
感情がない淡々とした会話(棒読みともとれる)もあれば、ワークショップやお酒の場の熱のこもった会話もあり、観客がそこに参加してるかのよう。話者だけでなく、聴いている人の表情が散りばめて映し出されているのもとても興味深い。
目線でいうと、カメラ目線が多様される。偶然と想像でも使われていたが、人の本心のようなものに触れた気がする。どこまでいってもわからないものだが、案外、人の目をじっと見るという機会は少ない。
自分が神戸にゆかりがあるからか、神戸には海があり、山があり、電車があり、と街も一つの役者として存在感を発揮している。
おわってみれば、330分という時間はなんということはなく、
台詞でも、芝居でも、演出でも楽しむことができた。
独善と信念と遠慮の暴力
濱口監督の作品を鑑賞するのは、ドライブマイカーに続いて2作目です。
本作は海外受賞歴もあり、レビュー評価も高いので興味はありましたが、上映館もなくそのままなっていました。
今回、大阪のシネヌーヴォでリバイバル上映され、濱口監督の舞台挨拶もあるという事を知ったので、5時間17分という上映時間には躊躇しつつ、意を決して鑑賞する事にしました。
結果、長尺という点は、3部構成になっていて途中休憩もあったので問題はなく、内容的には自分の日常生活を考え直させられるものでした。
この作品のテーマを簡潔に表現すれば、第1部「人と人との相互理解の均衡を維持する難しさ。」、第2部「円滑な関係を維持しようとする際に生じる独善や信念や遠慮の危うさ。」、第3部「些細なきっかけによるバランス崩壊で生じる混乱と、再構築に向けて動き出す強さ。」、だと理解しました。
これらのテーマについて、時間をかけて非常に丁寧な伏線と回収によって描き出されていたと思います。
まず、冒頭のワークショップで提示されるヒント。
複数人で呼吸を合わせて立ち上がる事、腹の内に耳を傾ける事、額で思考を読み取る事がいかに困難かが伏線として張られていたと思います。
この時はまだそれぞれが(表面的には)何でも腹を割って話し合える親友だと信じていた4人が、些細な隠し事で歯車がずれ始めます。
それはそれぞれが抱える家庭事情でも同じで、相手を慮るあまりによそよそしく他人行儀な会話しか出来ない妻や、一方的な価値観を他人に押し付けてしまうバツイチや、意思疎通が図れない夫と離婚訴訟中の妻や、家庭の厄介事を抱え込まざるを得ない状況の妻だという事が徐々に分かり始めます。
そして、それらが限界に達して、それぞれが自我を解放してしまう事で、それぞれが一旦は破綻(?)を迎え、そこからまた再構築へ向けて歩き始めます。
全体を通じて一番印象に残ったのは、タイトルにもある通り、家族を守るために必死に仕事に邁進する夫や、妻を愛する事とロジカル思考が混同してしまう夫や、悪気なく担当女流作家との関係性について妻にも共感を求める夫など、作品の方向性からは加害者的に描写されている男性陣にとって、誰1人として悪意を持ってそれをしている人間はいないという事でした。
しかし、それぞれの妻からしてみれば、人間性を否定されたとか、精神的に殺されたとか、理解されていないとか、形の無い暴力だとしか受け止められていないという事がショックでした。
自分が正しいと信じる信念や、優しさだと勘違いした遠慮や、相手への愛情と勘違いした独善は、道化師のように空回りをし続け、結果的にそれぞれの妻を望むのとは真逆の方向へ暴走させてしまう事になるのは、ワークショップの結果通り、相手の腹の中を真に汲み取って、良好な関係を築く事が如何に困難かを体現していると感じました。
一方で、それぞれの妻はそれまで抑制していた自我を解放し、行きずりの男性に身を任せる事で本来の自分を取り戻す、という帰結になっていますが、この部分については非常に違和感を感じました。
結局、そんな処に結論を見出してしまえば、フロイトのいうリビドーの様に、単に欲求不満だっただけであり、その部分が満たされると生きる原動力が生じたという短絡的な結論になる気がしたからです。
本来は、人間であればそんな外的要因に解決策を求めるのではなく、再度それぞれの夫と向き合い、本音を曝け出した会話によって関係性を再構築すべきだと感じます。
ただ、この後それぞれの家庭でのそれを描くと、上映時間は更に数時間必要になると思われますが…。
有馬電鉄…?
無名の女性4人がスイスのロカルロ映画祭で最優秀女優賞を受賞した。ニュースでも話題になっていた。しかも4人は演技経験のないほぼ素人。そして上映時間が5時間17分…!
この映画が公開されてからもう7年近くが経っていた。 当時かなりのインパクトを受けたことを今も覚えている。 DVDをネットで購入しようと思った矢先、運良く過去の濱口監督作品の再上映が地元の映画館で催しされるという情報を目にした。このチャンスを逃したらもう二度と映画館で観る機会は無いと思いさっそく上映初日映画館に出向いたのでした。
小さな映画館の前に大勢の人だかり。13時30分上映開始。19時10分終了。途中10分の休憩が2回。昼食も近くのコメダで軽く済ませ体調も万全。トイレも行った。こんな気合い入れて鑑賞に挑んだことは今までにないだろう。
…そして上映終了。
私は満足感と疲労感で心地よい余韻に浸っていたのでした。のそのそと映画館を出てすっかり陽が沈んで真っ暗な外の空気を深呼吸。「さあ、ここからは現実。自分の物語やぞ…」と、よくわからない覚悟をしてしまうほど映画と現実が繋がっているかのような気分で家路に向かっていたのでした。自分も何かしら抱えているであろう不安や悩みと重ね合わせて少しぐったりもしていました。思えばあっという間でした。観入ってしまいました。まさかの体験でした。これで3千円とは確実に元は取れました。
とにかく日常で繰り返される本心の言葉を導き出す独特な会話劇だった。相手が発した言葉をわずかも聞き逃さずに問いかける。「なぜ、どうして、なぜそう思う?」普段口にしない言わない言葉も人から問われることで自分の言葉で本心をさらけ出していく。友達や家族の前では見せたことのない真の自分の姿が、当の本人が困惑する程の抑えきれない言葉と感情が露わになる様が、これまでの自分と周りの人間性をも変化させて行く物語の流れが、全てがとても秀逸だった。
主演の4人がそれぞれ抱えている問題は何も解決はしていないけれど、皆確実に一歩前に進み出した。以前より自分ごとのよいにお互いを思いやる真の仲になっている。4人のこれからの人生がハッピーアワーなのかもしれない。
最初は一体何を観せられているのかとても不安にさせられる場面が結構な長尺で続いた。しかし後半へとちゃんと繋がっていた。お見事である。5時間17分。まだまだ観てられる。途中の休憩時間中、続きが気になって気になってしょうがなかった。一体どんな結末を迎えるのか予想もできなかった。観客も誰一人脱落者はいなかった。こんな映画体験は初めてでした。
そういえば濱口監督が突然役で出てきてびっくり。
バーでカッコつけた演技。セリフはやはり棒読み風で終始あの笑顔で。思わず鼻で笑ってしまった。唯一笑った場面。
また数年後、自分がこの先どんな人間になっているか想像もつかないけれど、またこの映画を見返してどう感じるか確かめてみたいと思う。
シネマスコーレ
「ハッピーアワー」
2022/4/2
追記
そして2024 12月末現在、濱口竜介監督特集上映中。
懲りもせず来週また「ハッピーアワー」観に行きます!
独特な乾いた感じの作品
女たちの気持ちはめちゃくちゃ分かるのに、男たちが全員本当に気持ちが悪かったというかなんだか気味悪く感じましたね。この男たちの気持ち悪さを人に例えるなら、斎藤元彦兵庫県知事かな。DV男だったらわかりやすいダメ男ですが、話が通じず自己中すぎて相手を慮らないのが逆に恐ろしい。女たちも男たちも少しずつ真綿で首を締め合う関係になってしまったというか何というか。
“結婚は行くも地獄止まるも地獄”
男と女が分かり合えるわけはなく上手く行くはずはない。周りを見ても世間が書いた脚本通りに(幸せを忘れながら)生きている。でも、女たちは自分の気持ちに正直になることを諦めない。自分の気持ちを抑えない。
監督、この異性という宇宙人との噛み合わなさを狙ってます?男性が観ると逆に「女って怖い」って感じたりして。
脚本が良いので全く長く感じませんでした。劇場で鑑賞して良かった。
こんなにダメでもみんな生きてるんだ
5時間を超えるのに、眠くなることが全然なかった。例の濱口映画特有の「棒読み」は、慣れてはきても時々やはり違和感を感じる。普通にドラマに没入しかけたところで「あなたはいま濱口映画を見ているんですよ」と注意喚起されるかのようだ。
眠くはならなかったが、見ているのが苦痛というか、こういう人/場はものすっごく苦手なので自分だったら一分一秒も早く逃げる、と思ったシーンがいくつかあった。エロでもグロでも不正でもないのにそこまで忌避感を抱かせるのはすごい。濱口竜介の映画をみると、そういう自分でも気づいていなかった自分の志向のようなものがあらわになって、ひそかに狼狽させられることが多い気がする。
実はこの「自分でも気づいていなかった自分の志向に狼狽する」というのが、この映画の主題である。それによって人生変わったり大ショック受けたり別人のようになっていったりするのが、37歳の4人の女性親友グループと、その夫など周囲の人々。
37歳というのが微妙な年齢。濱口監督自身、当時それに近い年齢だったようだが、「こうやって生きていくしかない」と思い込んでいながら、「押し殺していた自分を発見して人生が変わる」ほどに若い、逆にいえばまだやり直しがきく年齢だ。決してハッピーではないが、それぞれ何かが変わった、動き出した、というところで映画は終わる。
「普通の」「ちゃんとした」としか言いようのない、働いて(主婦も含)普通に生活して法律まもって税金はらって、ごくまっとうに生きている人々。なんだけど、大切な相手からみれば、あるいは自分でふと気がついてみれば、どうしようもなくひどい人間であったりする。
見て元気が出る映画ではないんだが、逆に「こんなにダメでもみんな生きてるんだ」「人生ってこういうものだよね」と苦笑させられ、ちょっとだけ気が楽になった。
胃の腑の声を聞く
「ハッピーアワー」
この題名?反意語?
30代は、森羅万象が押し寄せる未曾有の時間?
☆☆☆平凡な日常を送る4人の30代の女性が、非日常の事件に出会う。
そんな映画です。
濱口竜介監督のこの作品は、日常を描いていて「非日常」へ
連れて行かれます。
①ワークショップ
②朗読会
この2つのシーンが日常から非日常へと誘う鍵になります。
人は何故に講演会とか美術展、コンサート、展示会・・・
へ向かうのかが分かった気がする。
《非日常な空間に身を置く》
そのために人は、わざわざ出かける。
①ワークショップ
鳥飼の開催したワークショップは風変わりなものだった。
額と額を合わせて、相手の考えてたことを当てる。
鳥飼は最初にパイプ椅子を斜めに立てて見せます。
《ここで一気に非日常に時間は変わる》
2人1組になり、相手のお腹に耳をあてる。
音が聞こえる。
臓物の動く音。
胃が食物を消化する音。
これが聴診器を当てたように聞こえるらしい。
一気に他者が身近な人に変わる。
《魔法にかけられたのです》
そうして純は告白する。
1、離婚裁判をしていること。
2、理由は純の浮気
夫は別れたがらず、裁判は泥沼化してると告白する。
あかり(看護師)
桜子(主婦)
芙美(編集者。夫も編集者)
純(離婚訴訟中の女性)
あかり、桜子、芙美の3人は純の心配に心を砕くことになる。
★事件その①
純は妊娠している。
それも大嫌いは離婚を望んでいる夫の子供。
純は親友たち4人で出掛けた有馬温泉の一泊旅行のその足で、
失踪する。
★事件その②
桜子の中3の息子が幼馴染の女子を妊娠させる。
★事件その③
あかりが有能でない後輩看護師に腹を立てて、
階段を落下して骨折する。
☆☆☆朗読会(芙美の夫が担当する若い女性作家の)でも、芙美が混乱する。
★事件その④
芙美の夫が女性作家に恋をしているのを確信した芙美。
離婚を切り出して、別れを告げる。
★事件(おまけ)
芙美の夫が、トラックと激突して、あかりの病院に救急搬送される。
手術を受ける。
芙美が駆けつける。
「ざまあみろって言ってやる」
ここで映画は終わるのです。
結構な波瀾万丈の展開。
オープニングのピクニック。
4人の親友の女子会のはずが、とんでもない告白大会。
4人みんな本音で話します。
あかり「嘘があったら私は友達でいられない」
この言葉のように、日常の殻を破って行く女たち。
5時間超えの長編映画。
インターミッションの3分間が2度入ります。
中弛みなし。
主役の4人は素人俳優だとか。
結構な重み。
面白かったです。
酷い棒読み
WOWOWで鑑賞。
濱口監督の作品はボソボソ話す大根役者が必ず主人公。
役者は感情を殺すように指導されてるのか?大根役者を使うのが好きなのか?
この作品では、スイスの映画祭で女優が最優秀女優賞を受賞したと書かれてますが海外では棒読みはわからないか。
いや、最優秀って?
本当ですか?
酷い演技と棒読みに見る気も失せます。
眠気が襲ってきます。
離婚話をするシーンとか棒読み過ぎて笑いが込み上げてきました。
そして、魅力的な登場人物が1人も居ない。
「寝ても覚めても」は少しはマシでしたが「ドライブ・マイ・カー」は主人公の西島秀俊の棒読み演技に途中で眠くなって挫折。
今回も時間が無駄だと感じて挫折。
濱口監督の作品は私には無理みたいです。
絶えざる懊悩の果て 自己倫理の手触り
とりあえず何か褒めてみようと思うのだが、何一つ気の利いた褒辞が思いつかないのは、本作がたかが数文字、数行の言葉では決して攻略することのできない深みと広がりを有していることの証左だ。世界が単純な二分割法によって白か黒かに塗り分けられつつある昨今だからこそ、この緻密で複雑なパズルのような大作はますます大きな意味を持ってくるのではないかと思う。
たとえば純の夫の公平ははじめこそ本当に腹立たしい奴で、離婚裁判の最中に自分が不利になることを知っていながらも必死に自己自身を開示する純に対して「君に勝ち目はない」などと言い放つような冷血漢だったのだが、後半の朗読会シーンでは、若手作家の詩情溢れる短編小説に対して的確かつ真摯な感想を述べている。豪放磊落な性格で4人の仲を取り結ぶ芙美も職場では後輩に対してお局的な嫌味を言いまくっているし、ワークショップで不思議な存在感をみせた鵜飼はそこいらの女に手当たり次第しょうもない口説き文句を垂れる。
いうなれば登場人物の誰も彼もが明と暗、正義と悪、男と女、自我と非我といった両義性のあわいをゆらゆらと揺れ動いていて、引き裂かれていて、要するにどこか一点に固着するということがない。もちろん「○○はかくあるべき」という使い古しのコンセンサスに拝跪することもない。
とはいえ一方で本作は安易な相対主義的言説、すなわち「逃げの一手」としてのオープンエンドとも一定の距離を取っている。終盤にかけて諸々の人間関係がドミノ倒しのように崩れていくさまは見事としか言いようがない。これはひとえに彼らが両義性の波に揉まれながらも、最終的に自分なりの選択に踏み切ったがゆえの悲劇(あるいは喜劇?)だ。
生きていれば否が応でも判断せざるを得ない状況がいくらでもある。しかしそのような構造そのものに反旗を翻したところで、それは空想上の遊戯に等しい。彼らが絶えざる懊悩の末に手にするのは、「○○はこうあるべき」とも「みんな違ってみんないい」とも様相を異にした、いうなれば自己倫理の感覚だ。たとえば芙美が鵜飼の妹に「好きな人とする性行為しか意味がない」と披歴するシーンがあった。ありきたりの言葉であるはずなのに、それは確かに彼女だけの言葉だった。終盤はそういう自己倫理の重みを湛えた素晴らしいシーンがいくつもあった。
また、終盤のドミノ倒し的展開にアクションスリラー的な作為性を感じないのは、おそらくそれ以前の4時間以上にもわたるドキュメンタリー的なナラティブが土台として存在していたからだと思う。あの丹念な言葉と言葉の、あるいは人間と人間の交通の蓄積を思えば、崩壊は必然だったと誰もが納得できる。本作における人間関係の崩壊は「目的」ではなくあくまで「結果」なのだ。
つらつらと所感を書き連ねてきたが、なんだかんだ一番すごいのは本作が物語映画としてメチャクチャ面白いということかもしれない。5時間といえば『七人の侍』とか『ゴッドファーザー2』の1.5倍くらいの時間だ。そのような長丁場をほとんど言葉のやりとり(しかも法廷劇のようなド派手な口上さえない)だけで映画として成立させてしまう濱口監督の手腕にただただ脱帽するばかり。『ドライブ・マイ・カー』でのカンヌ脚本賞受賞もむべなるかな、という気持ちだ。
見応えがありました。
wowowで録画し、2回視聴しました。
5時間超の作品でしたが、非常に見応えがありました。主人公4人の日常が丁寧に描かれ、4人それぞれの決断も見れて良かったです。
何気ないシーンがたくさん伏線になっており、全てが繋がっている映画です。意味のないシーンは一つも無かったように思えます。
序盤のワークショップでの「腑を聞く」は、後々の女性4人やそれぞれの夫婦の関係性に当てはまり、腑を聞くことの重要性が浮き彫りになりました。ワークショップ後の自動販売機の伏線も見事に回収されてましたね。
また印象に残った点は、あかりは「友達なら全部話して欲しい」に対して、芙美は「友達でも(聞かれなければ)全部話さない」という点は2人それぞれに共感しましたね。
残念な点は、ところどころセリフが聞き取り難かったです。終盤に電車で男性が桜子に何と声をかけたかが、いくらボリューム上げても聞き取れませんでした。
また、終盤に展開を詰め込みすぎた感があるので、もう少し尺が長くても良かったかなと思います。
理解あっていいねっていう台詞の空虚さよ
冒頭のシーンで「配偶者が理解あっていいね」と4人の女性が言い合う。この理解ってなんだっていうのはこの作品のテーマなのかなと思う。
人が他者を理解するというのはなんて難しいことなんだろう。家族だろうと夫婦だろうと友人だろうと、なかなかうまくいかない。他者は謎に満ちている。
コミュニケーション不全だったり、そもそも伝えることを諦めていたり恐れていたり、発した言葉が感情とズレを生じていたり、自分の価値観と違うものを受け入れられなかったり、代弁は無意味だしなどいろんな要因で、人は理解しあえないということが作品を通じて伝わってくる。
世界は人によっては美しかったり残酷だったりする中で、じゃどうすれば?どうやって理解しあえば?
一つ提示されるのは身体的コミュニケーション。接触する、抱きしめる、セックスする。でもそれはちょっと癒やされるだけで、解決にはなりえない。
では?
「では?」の後を語らないのは、底の浅さを見透かされたくないからだっていう自嘲も挟まれるけど、確かにこれはもう、どうしようもない話。
だから、ドライブ・マイ・カーと同じく、こんなわけのわからない世界でわけのわからない他者とつきあって苦しんだり喜んだりしていくのだから、わたしたちには「ハッピーアワー」が必要だよね、ってそう思う。
ドキュメンタリーのようにリアルな感じで淡々とした4人の日常が描かれる。特にたいして大きな出来事もないままなのに、その中で起きるあれこれや発せられる言葉は、なかなかいい具合に刺激的でいろいろ考えさせられた。新しい映画の楽しみ方を感じた。
ただ個人的にどうしても気になったのは共同脚本にしてなぜこれかなと思う点。
「○○には女性を殴る甲斐性はない」と女性が男を評するシーン、この言い方必要かな。その女性の浅さを示そうとしてるにしても、なくていいかなと思う。この台詞が気にならないことが残念。
500分を超える長さだけど不思議と飽きない。 普通の映画だとカット...
500分を超える長さだけど不思議と飽きない。
普通の映画だとカットされるような登場人物の行動、心情を細部まで描いている。これが観ていて面白いし、まだまだ観ていたいなと思う。
贅沢な時間づかいの中で特に2つのワークショップが印象的。
最初のワークショップは講師の空っぽそうな感じと内容でこんなんで良いんだと驚きつつ、相手のはらわたを聞くつもりで人と向かい会えていないなとか思ったり、
2つ目のワークショップから上辺だけでなく、自分の心を言葉として伝えてなくちゃなぁとか思わせてくれた。
決定的な何かがあったわけではないが、不安や寂しさなど様々な感情から起きるすれ違い、衝突。
観ていてもどかしくもなるが、こればかりはどうしようもない。ラスト、私はちょっと苦々しく感じた。
長かったけど…
ドキュメンタリー手法の金妻(古い)
素晴らしい。
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