ハッピーアワーのレビュー・感想・評価
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気持ちを見せ合う難しさ
静かな映画、なのに監督さん、描きにくいもの、言葉になりにくいものをたくさん詰め込んで、5時間の時間量で描ききってやろうと、力技です。
友人、親子、夫婦といえども、心を素っ裸でさらけ出せるほど鈍くない。さらけたところで理解しあえる保証もない。トランプ♣︎の「神経衰弱」みたいに、気持ちのカードをめくって、答え合わせ。違うとみんな揺らぎます。淡々としてますが、ほんとは怒濤の嵐が吹き荒れている。でも決して表には出さず。静けさ、緊張感。
本音を探り合い、答え合わせするのは疲れる。ガッカリすることに怯えて一人、じっと耐えています。男たちは、自分とすら向き合わない。自分の気持ちを理解する、という発想すら封印。向き合うと、淡々と進めていけなくなるからね。万が一にも弱さに気付いたら、大変だ。キャパオーバーで、精神が壊れ、日常が壊れかねないものね。
見ざる・言わざる・聞かざる、というのが日本では先人の教え。器が小さいなら、最初から入れるな。先人は、厳しいですね。登場人物の一人の妹が「兄貴は、空っぽ、というのがバレないようにしてるんじゃないですかね」と評していた。リアリティあります。でも空っぽだから出来る役割を果たしているようです。
時に限界超えて、マグマが噴き出します。
ドロドロと空っぽ、どちらがマシか。私もわかりません。
どう生きていけばよいか、正解は簡単にはわからない。わかった人がいても、その人の正解が、自分の正解かわからない。
やっと見つけたと思っても、永遠の正解でもない。一瞬ですね、ハッピーアワーは。
ですが、みんな、意外とそれぞれに根は強い。
そして冷たい訳でもない。お互い心配。気にしてる、良くも悪くも。で、それがお節介や押し付けになっていないか、またチェックし合うのですが。気遣いは、「気にしぃ」となり、もう無限ループ。サジ加減はそう上手くはできない。近付いたり、離れたりしながら、流れていく。
コウヘイさんという、じゅんさんの夫、この人だけは私、本当に怖い。何が怖いって、離婚を望むじゅんさんに対し、冷静に悪意なく、「理解出来るまでは諦めない」精神で追いかけ回し、そこに研究者魂を発揮するところです。初めて恋したのですかね...
一生をかける気ですね、おい、それ愛じゃないよ。
完全なストーカー行為、相手の自由を侵害してるぞ。
頭良くて、小説の読解力も高いのに、コウヘイさん何故わからぬ。
執念。飽くなき探究心。理解できれば、対象を手中にできるという達成意欲と向上心か。
「こうしかできない。」
とコウヘイさん。
まあ人間ってそういうものかもしれませんね。
その方が楽で、ハッピー。一人よがりですが。
他の登場人物も「こうしかできない」症候群。
一人のハッピーアワーを、誰かとのハッピーアワーにしようと、実は健気に努力して。そして上手くいかず、もがいた挙句、諦めて。でもまた信じようとして。
愚かかもしれませんが、絶望しないことだけが、生きるには必要。
ハッピーアワーの夕焼けは、一人で見ても充分美しい。なのに誰かと見れたらもっと美しいかも、とつい想像して自分で寂しさの種を蒔く。でもまたやがて、そこも抜けて、もう一度夕焼けの美しさに気付く。幸せにも正解がないのでしょうね。
眠くならなかったのは想定外
長丁場に覚悟したが意外に観れる!
素人台詞とはこういうことかと、最後まで変わらなかったが、それ以外は集中できた。
なんか、全部男が悪くみえてしまう。
終わり方の投げっぱなしは余り好きではない。
演じることの彼方へ
上映時間5時間17分、やはり映画館へ行くのに少し怯んだのは事実。しかし冒頭からの素晴らしいシーンに引き込まれてしまい、ただただこの映画を観ている時間がこのままずっと続いてほしいと思うようになりました。でもプロの俳優さんではなくほぼ素人さんらしい。演技経験不問でワークショップに応募された人たちから選考を経て17名の方たちからスタートしたとの事。しかし演者と役がぴったりと重なっているかの様なこのリアリティー感は何なんだろうと感ぜずにはいられません。
映画の「演技」って何なんだろうと、改めて考えた時、役者はその役に恰もすっぽりと入り込み、観る人に如何にリアリティーを感じさせるか、という事になるのかも知れません。プロの俳優は磨き抜かれた演技で様々な役柄をその役に成りきり、役作りをします。種々雑多な役を私達の前にその人に成りきったかのように演じます。その演じることの集積の結果として映画はフィクションであるにもかかわらず、私達に恰も「本当」のことであるかの様に説得性を持ちます。役者が「役者であること」の必然性がここにあるかと思われますが、その演じることの方法を、ラジカルに覆してしまったのが「ハッピーアワー」では、と思ってしまいます。ほとんど演技経験のない人を集め、プロの役者とは次元の異なった演技の付け方《一例:シナリオの読み合わせの際、抑揚も付けず感情移入もせず棒読みを繰返しながら台詞を覚えていく》によって次元の異なったリアリティーを私達の前に差し出されたこの映画は、奇蹟としかいいようのない衝撃でした。
冒頭三十才代後半の女性四名がケーブルカーに揃って横並びに座り摩耶山へと登って行くシーン。観客である私達も彼女らと共に誘われるかのように、山上の映画という名の異空間の世界へと運ばれる。晴れわたっていたのに、頂上は白い霧雨に包まれ、期待していた眺望は望むべくも無い。彼女らは雨を凌ぐ東や風の休憩所で手作り弁当を前にたわいのない話に耽っている。しかし周りは濃霧に閉ざされ、この世から何か孤絶されたような不安な不穏なものに纏わり憑かれたかのように予感させられる。そしてケーブルカーで降りて行く彼女らを待っているのはどのような世界なのだろう。
四名の主人公の各々の人生が語られ始め、徐々に日常から非日常への転変を、「省略」という映画技法を敢えて駆使ぜず、たゆたゆ如くゆっくりと一人ひとり追っていく。
ということで5時間17分になっているのでしょう。
最後にお願い! 長尺ものですがどうかもっと上映して下さい。関西では神戸元町映画館で昨年12月と今年4月、京都の立誠シネマで2月に上映されただけです。それ以外の館主さん、宜しくお願いします。
夕暮れと朝焼けの物語
私の家族は映画を観ながらよく寝る。8割は寝る。(最近では『シビル・ウォー』で寝てて、すごく面白いのに睡眠障害ではないかと心配になった。)
本作上映時間、5時間27分。
プロの俳優さんではない方々が主演。
冒頭、公園のシーンがあまりにも棒読みで心配になる。これで5時間持つの?と。
朗読会のシーンなど眠気さそってんのか?と思わせる場面も延々と続く。
確実に寝るだろうなと思いながら家族と一緒に観た。が、一睡もしなかった。映画に釘付けだった。凄い映画だった。
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「ハッピーアワー」。
居酒屋などで「ハッピーアワー」と称してビール半額などのサービスをやってたりする。たいていは開店まもない夕暮れ、17〜19時くらいだろうか。
本作は、30代後半、人生の夕暮れにさしかかった女性たちの物語。
夕暮れ…昼とも夜ともつかない。変わり目であり分岐点の時間帯にさしかかった人たちの物語。
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親友で何でも分かり合っていると思っていた、あかり、桜子、芙美、純の4人。だが、互いに知らない素顔が少しずつ見えてくる。
最初は、アマチュアの方々の、こなれてない硬い演技が気になってしょうがなかった。だが所々、彼女らの真情が垣間見えるような、生々しい表情が映し出され、そのギャップにドキっとさせられる。彼女らの硬い皮を剥いで素顔を掘り出すような臨場感がある。登場人物たちが役の設定上被っている「硬い皮」であり、演者本人の皮でもある。「素顔を晒した」とこちらが感じても、それが本当の「素顔」かは判らない、判ったつもりは許さないスリリングさがある。
桜子、純が連れ立って街中を歩くシーンがあって、その姿があまりにも街並になじんでいて(有名は俳優さんだとどこかしらオーラがあって群衆の中で目立ってしまう)、ああリアルだなあと思う。観続けるうちに,私の知人もこういう表情するなあとか、前にどこかで会ったことあるような人たちだなあという親近感・既視感も湧いてくる。そういう意味でもリアルである。リアルな存在感が増していくのだが、その一方、麻雀のシーン(「はじめまして純です」)やクラブのシーン(担ぎ上げられるあかり)など、普段の生活ではこんなことしないだろうというシーンもあって、彼女らがリアルな人物ではなく、映画というフィクションの世界の住人であるという当たり前のことに気付かされたりもする。どこにでも居そうで、どこにも居ない人たち。
彼女たちを捉えるアングルは、突発的なハプニング的なものではなく周到に考え抜かれたものであり、構図も極めて映画的な企みに満ちている。リアルさとフィクショナルな映画的企みが混然一体となって迫ってくる。
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終盤、芙美が朝焼けをバックに歩くシーンが印象的だった。
人生の分岐点にさしかかった彼女たちは「選択」する。
分岐点で惑って立ち止まっていた彼女らの時間が再び動き出したような気がした。ああ、これは人生の夕暮れの物語ではなく、何かが動きだし始まる物語だったのだと思った。朝焼けの物語だったのだと。彼女らの選択が「良かったのか・悪かったのか」が重要なのではなく(この映画は「判ったつもり」で断を下さない謙虚さに満ちている)、始まる事が重要だったのだと。
女性たちが毅然と歩き始めるなか、対する夫たちは分岐点で立ち止まったままだ。その対比もまた、残酷さと隣り合わせの映画的な面白さに満ちている。
これしかあり得ない、絶妙なタイトル
夫婦間のすれ違い、子育ての戸惑い、仕事の重圧、計りかねる他者との距離感…。次々にあぶり出される、切実で身近すぎるあれこれ。観ている時は、「ハッピーアワー」とは何て真逆なタイトルだろうと思った。けれども、観終えてみると、これ以外のタイトルはあり得ないという気持ちに満たされた。噂に違わぬ、至福の5時間17分だった。
この作品で特筆すべきは、とにもかくにも「時間」だ。そこに流れているのは、めったに味わうことのできない、混じりない映画の時間。映画が終わったら何を食べようとか、何をしようとか、あれはどうなっているだろうとか、そういったものが入り込む余地が全くない。かといって、遊園地のアトラクションのように、別世界に引き込む訳でもない。4人のヒロインをはじめとする映画の登場人物と、観る者の時間がすっと重なる。彼らと共にそこに居合わせているような、そもそも昔から知って知るような、そしてこれからも何処かでふっと出会うような。そんな印象を、確実に残してくれた。
印象と言えば、画面いっぱいに顔(表情)が捉えられ、二者を交互に切り返しながら会話が描かれるシーンも忘れ難い。(往年の映画手法だが、最近はなかなかお目にかかれない。近作なら、黒沢清監督の「岸辺の旅」。また、濱口監督の共同ドキュメンタリー作品「なみのこえ」三部作でも、この手法が効果的に使われている。)臆面もなく、という言葉が思い浮かぶくらい真正面。それに耐えられる俳優さんたち(とはいえ、本作はワークショップから始まったであり、主役4人をはじめ多くは「新人」「素人」だが…。)も、スタッフの技も素晴らしいと感じた。また、人物の身体を逆光から捉え、漆黒のシルエットで描き出すシーンの数々も、凛として美しい。表情を押し隠したその影を、まばたきを惜しんで凝視せずにいられなかった。改めて、人をしっかり見る、言葉をきちんと聴くという、一見ありふれた行為の難しさや大切さに気付かされ、そんな行為を最近自分は怠っていたな、という自戒もわいた。
前半で身体ワークショップ、後半で朗読会のシーンがじっくりと映し出されることからも、「身体と言葉」が、本作で重要なテーマとなっていることは明白だ。その中で、桜子の義母の振る舞いは、一つの答えであるように思った。出番は少ないながら、彼女は主役4人に負けず劣らず魅力的で、軽やかな印象を残す。彼女の言葉や仕草はゆっくりとしていて、よくよく考えられ、選ばれたものであることが多い。息子宅の居候でもあり、周囲を気遣い、常に間合いを取りながら振舞っているように見えた。けれども、そのさじ加減が絶妙で、わざとらしさは全くない。ちょっと芝居がかったセリフや仕草までも、すとんと腑に落ちる。閉塞した状況に、ちいさいけれど絶妙な風穴をあける彼女。自分も、歳をきちんと重ねて、いずれはそんな振る舞いをできるようになりたいと思った。
今回は、5時間余を三部に分け、休憩を2度挟んだ上映形式で鑑賞したが、休憩というより中断に感じられた。休憩時間に外に出て空を眺めながら、様々な想いや引っかかりを反芻し味わえたとはいえ、この後、ちゃんと彼女たちに再会できるのだろうかと心配で堪らなかった。インターバルなしの濃密な上映も、ぜひ体験してみたい。
5時間越えの長編とは思えないスピード感。
知り合いの方のオススメで見ました。
はじめは一章のみでも見てみようという気でしたが、次が気になって仕方がありませんでした。気づけば劇場にずっといました。
はじめは人間の温かみを感じ、落ち着いて見てられましたが、後半になるにつれて人間の冷たさが表れて、人の幅の広さとその怖さを感じました。生温いですが、人の冷たさからは出来るだけ目を背けたくなりました。
演技とは何か
30代後半の女性四人の日々を描いた今作。演技経験がない一般の女性が演じることで彼女たちがいる場所に自分もいるかのよう。そして自分ならその時どういう言葉を投げかけるか考える。
演技力がある女優によって撮られていたらここまで共感できただろうか。そもそも演技って何?
女性なら誰もが経験する(した)であろうことを丁寧に描いていく。5時間という時間の長さにためらわれがちだけど、意外とあっという間に観れるので時間がある方はぜひ。
もともとコミュニケーションというのはぎこちないもの
この映画が女優賞を獲得したことは衝撃というほかない。というのも、ひとりひとりの演技は非常にぎこちなくて、はっきりって上手くない。決して下手ではない。内面というものを巧みに表現できているような印象をもつから、むしろ素晴らしい表現をしているといえる。ただ、その台詞回しは非常にぎこちない。でも、それが不思議なリアリティーを生み出しているように感じてしまう。何せ、この世の中のコミュニケーションというのは、実はぎこちなかったりするわけで、上手い役者のようにはなかなか振る舞えないものであるのだから。
この映画の最大の難点はなんといってもその長さ。すべてを見ようとすると5時間以上もかかってしまうわけで、気軽にというわけにはいかない。正直あんなに長い必要があったのかどうか大いに疑問に思うところもある。しかし、その脚本はその長さの分だけ濃いものがあり、手を抜いていたずらに長くしているのではなく、詰め込みたい内容があるから長尺になってしまったという意気込みは感じる。ただ、さすがに削れる部分はあったように思ってしまう。
導入部分、正直睡魔に襲われた。しかし、語られるセリフの量が増えるに従って徐々に魅せられていく。人々の会話の面白さ、会話の中で巧みに捉えられるひとりひとりの表情、それらが見事に融合して、人間関係の面白さがどんどん伝わってくる。
話の内容は、現実世界に起こりうるものばかりで、突飛な展開というのもそれほどない。しかし、どこにでもあるような展開されているはずなのに、人々が織りなす人生模様が非常に面白い。そう感じてしまうのは、見事な脚本があったからなのかなーと感じた。
後半もやや退屈感を感じてしまう。それまで、会話や表情などで丁寧に描かれていたものが、それこそ特殊な出来事や展開に頼ろうとした意図が見え隠れしていて、それがかえって自分の興味を削いでいったように思う。展開を動かしたこと自体に不満はないけれど、丁寧な描写が徐々に薄れていったように感じてしまったことが、後半の退屈感につながっているように思う。
それにしても、この映画がどのように構築されていったのか、その演出とか撮影風景なんかが全くイメージできない。まるで、そこら辺で起こったことをそのまま編集したような印象を持ってしまう。それくらいリアリティーがあったし、それゆえの女優賞なのだろう。自分としては、勝手ながら、監督賞が最適かなー、と感じた作品。
昔、日本語ペラペラのイスラエル人に 「真っ白なカーペットに赤いイン...
昔、日本語ペラペラのイスラエル人に
「真っ白なカーペットに赤いインクを落すようなものだ!」
と非難された事があります。
本作もそんな感じ。
仲良し30代後半の女性4人組にある事が明かされ次第に波紋が広がっていく。
ホラーでもサスペンスでもなく、
今の時代、この世代に起こり得る人間模様が描かれている。
冒頭、4人がピクニックに来て土砂降りの中お弁当を食べるシーン。
それは彼女達の波乱の始まり。
バツイチで看護師で姉御肌のあかり、
主婦で中3の息子のいる桜子、
キュレーターで編集者の夫を持つ芙美、
そして既婚の純。
舞台は神戸。
神戸を知る人は知っている場所が映るし、何より言葉やイントネーションが心地よく感じるだろう。
濱口作品は『親密さ』しか観ていないけど独特な作風で
『親密さ』でも芝居が丸々映されていたように
本作もワークショップやある女流作家の朗読会が丸々映されている。
自分も参加している体験ができるけど、逆に興味があって参加したワークショップや朗読会ではないから少し退屈に感じたり。。。
でも必要。
あとは別れのシーンや乗り物に乗ってのシーンが好きだな。
彼女達4人の着火剤的存在の脇役のセリフが棒読みで感情が見えにくいのも特徴。
ドラマチックな展開になりえるだろうシーンも冷静な気持ちになって新鮮に感じる。
317分の時間の中で彼女達の“ハッピーアワー”を探してみる。
街の居酒屋の“ハッピーアワー”の短い時間なのかもしれない。
真っ白なカーペットに着いた赤いシミをどのように落とすのか想像してみるのも悪くないと思う。
観る価値なし
俳優さんの演技は素人にしては見応えあり。特に女性陣はプロには出せない素人ならではの良さが引き立ち、映画の内容に合っていた。その分が星ひとつ。
映画そのものは駄作、5時間と3900円かけて観たのに残念、腹が立って仕方がなくて一晩眠れなかった。
普通の人の日常生活を単にトレースしただけの内容にエンターテイメントとしての映画の価値は見出せない。登場人物は自分の枠組みと思い込みの中だけで生活して、出来事は色々と起こるがそこに発見も気づきも変化もなく話が進んでいく。30代後半の女性仲良し4人組(独身、既婚子供あり、既婚子供なし、既婚離婚訴訟中)が織りなす学園ドラマ版のような映画。現実の方がもっと厳しく、あたたかく、複雑ですよ。人物の描き方にも深みがない。
観る側の立場に全く立たず作られた作品。浅い。
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