顔のないヒトラーたちのレビュー・感想・評価
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『アウシュヴィッツで犯した罪に対して、どんな罰を与えて良いのか、分...
『アウシュヴィッツで犯した罪に対して、どんな罰を与えて良いのか、分からない。』と言う検事である主人公に対して、
『罰ではなく、被害者とその記憶に目を向けろ』と答える。
さて、この映画は、裁判が始まって
ナチスの排除に繋がった、結論付けているが、だいたいはそうであっても、完全ではないと思う。なぜなら、今でも、ナチス的行為は存在している。
だから、この映画の結論は甘いし、その経緯に虚偽もたくさんあると思う。
しかし、
日本ではどうなのだろう。
東京大空襲や原爆を作戦した、アメリカ人のカーティ・ルメイに、佐藤栄作が首相の時、日本国は彼に勲章を授けている。
事の真相は兎も角、そういった歴史的事実すら、知らされる事がないのが、日本の歴史教育なのではないか、と僕は感じる。
大学入試に日本史を選ぶと、近現代史か出題される頻度が一番少ない。
『鎌倉幕府が何年に成立したか?』が『廃仏毀釈の理由』よりも大事な事の様だ。
検事達の個としての強烈な正義感と国を良くしたという崇高な使命感に、圧倒され羨望を覚える
ジュリオ・リッチャレッリ監督による2914年製作のドイツ映画。
ナチスドイツによるホロコーストに関わった収容所の幹部を戦後ドイツ人自身によって裁いた1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判開廷までの道のりを、フィクションを交えつつ事実に基づいて描いているらしい。
この裁判に関して、ドイツ国内に大きな抵抗や反対があったことを初めて知った。また当時、一般国民でアウシュビッツにおけるホロコーストの史実が風化していたことも初めて知った。そして、この裁判を成立させるために、有名らしいフリッツ・バウアー、その他検事達の個としての強烈な正義感と国を良くしたという崇高な使命感があったことを知った。
それら検事を、身内を裁く葛藤も含めて説得力も持って演じた、アレクサンダー・フェーリング、ヨハン・フォン・ヒューロー、ゲルト・フォスが、とても良かった。そして、日本と違って、自国の戦争犯罪を困難はあったが何とか自ら捌けたドイツの歴史に羨望を覚えた。
何がこの差をもたらしているのだろうか?自分も含め日本人の大きな問題を、突きつけられた思いがした。
製作はヤコブ・クラウセン ウリ・プッツ サビーヌ・ランビ、脚本はエリザベト・バルテル ジュリオ・リッチャレッリ、撮影はマルティン・ランガー ロマン・オーシン。
美術はマンフレート・デーリング、衣装はアンヌ・プラウマン、音楽はニキ・ライザー セバスチャン・ピレ。
出演は、 アレクサンダー・フェーリング(ヨハン・ラドマン検事)、フリーデリーケ・ペヒト(恋人)、アンドレ・シマンスキー(記者)、ヨハン・フォン・ビューロー (オット・ハラー検事)、ゲルト・フォス (フリッツ・バウアー検事総長) 、 ハンシ・ヨクマン(秘書)。
戦争は終わらせるべき、でも戦後は終わらせてはならない
ホロコーストものはほとんど見ているつもりだったけれど、アウシュヴィッツについての事実が明らかになったのが、戦後15年を経過してからだったということを初めて知った。不勉強を恥じている。
この映画のもとになったフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判については、国内でも「何を今さら」「敗戦で十分傷ついているのに」といった、検察側を批判する空気の方が半数以上を占めていたという。
しかし、百万単位での人命が失われ、その何倍もの人間を不幸にしたという事実、ドイツ人がドイツ人を裁くこと、罪は民族や国に対するものではなく、己の良心と正義に基づくべきものであること、いろいろな重い、重い事柄が次々と画面から投げつけられてくる。
映画の中でも触れられているアイヒマン裁判においては、スタンレー・ミルグラムが服従の心理学を、ハナ・アーレントが平和に対する罪を論じているが、これはそのままこのフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判にも該当する。言われるままに従ったことが、結果としてどんな罪悪であろうとも、人はそれに対する良心の感覚を失ってしまうという事実。
ドイツがナチスを受け入れ、否定し、封じ込めるまでには4つの段階があったという。
第二次大戦自体は1939~1945の6年間で終わったけれど、それを精神的に理解し、愚かさを受け止めるにはその何倍もの時間がかかるのだ。
日本においても従軍慰安婦問題、南京大虐殺問題については素直に受け止めようとしない世論が一定レベルで常に存在する。日本が本当に自らの愚かさを受け止めるのはいつのことになるのだろう。
映画「顔のないヒトラーたち」作品レビュー
公開されてもうすぐ1ヶ月になるというのに、単館系の映画館で大ヒットしている作品。満員御礼で鑑賞するのに3回も都心に足を運んで、やっと見られました(^^ゞ
それだけ受けているのは、1958年の西ドイツでは、アウシュビッツ収容所についてほとんど知られていなかったという驚きです。おそらく日本人の3割は、知らない史実でしょう。その予想外から映画は始まります。
日本と同じ敗戦国ドイツは、そこから過去とどのように向き合っていったのか。ドイツ人がドイツ人を裁いた63年のアウシュビッツ裁判。そこに至る苦闘が、凝縮して描かれる。戦後のドイツを覆う戦争犯罪への無関心。そんな当時のドイツ人の空気の中で、主人公の駆け出し検事ヨハンは、悪戦苦闘して、ついにアウシュビッツの真実と戦争犯罪の証人や証拠に行き着くまでが、サスペンスタッチで、描かれていました。
駆け出し検事として登場したしきのヨハンの仕事は、交通違反専門といういささか検事としては退屈な日々を過ごしていたのです。罰金が払えないとけんか腰にやってきたマレーネといつの間にか恋に落ちてしまっているという職権乱用も(^^ゞ
そんなヨハンが、歴史に残るアウシュビッツの告発の担当検事になったきっかけは、とある記者からの密告からでした。
記者がいうには、元ナチス親衛隊員が違法に教師をしていると聞かされたため、調査を始めのです。調査の中で、次々とアウシュビッツからの生還者の証言に驚くヨハン。そのの実態を知った彼は、善き市民として暮らす元ナチスの人々の過去を暴き、戦争犯罪を裁こうとするのです。
しかしその件を検察の会議に出しても、誰も関心を示そうとしません。些細な問題に過ぎないのか、国民の多くが忘れたがっているナチスの問題を掘り起こすなど、もううんざりなのか。凄く違和感を感じる当時の検察の対応でした。
見た目では、この時期の西ドイツでは、アウシュヴィッツのことさえ忘れようとする傾向があったのではなかと思えてくるようなリアクションなのです。
それでもヨハンは理解のある上司と熱血の同僚の協力を得て、アウシュヴィッツの管理に当たったナチス幹部の生き残りにターゲットを絞って、起訴に持ち込もうとします。
しかし、消息を調査しようと各方面に当たってみたら、調べなければならない資料は山ほど出てきて大変な仕事となります。しかし、ホロコーストの罪を国民に知らしめるこのしんどい作業をやり遂げることこそ、ドイツは自力でナチスを法廷で裁くべきだとの使命感にヨハンはのめり込んでいったのです。
何万件というナチス党員名簿から、ひとりずつコツコツチェックしていくヨハンの直向きさに、彼の誠実さや正義感の大きさが滲み出ていました。
ヨハンの捜査は淡々と描かれていきます。こういう大真面目な堅い内容なのに、それでもサスペンスタッチと紹介したのは、元ナチス党員がどこに潜んでいるか分からない恐怖。実際に恋人となったマレーネの家にいるとき、ナチスのマークが刻まれた石が投げ込まれて、これ以上の捜査をするとどんな目にあうか分からないぞとの脅迫を、暗に受けるシーンが描かれていました。
ただ脅迫されるシーンは、ここだけ。もっといろいろ脅されるシーンを織り込んでおけば、捜査が進むほどに緊迫感が増して、メリハリのあるストーリーになっていたはずです。
でも、一般の観客も面白く見られるようにと、脚本と監督のジュリオ・リッチャレッリはずいぶん気を使ってくれたのでしょう。他にマレーネとの恋の行方が気になる展開をたっぷり用意したり、捜査の過程を少々ミステリー風にしたりとサービスシーンがたっぷり用意されていました。
特に、マレーネとの関係が急に悪くなるきっかけとなったのが、マレーネの父親が元ナチスだと知って、父親を罵ったことから。しかし、その後マレーネの父親ばかりか、自分の母親の再婚相手、さらに実の父親までがナチスだったと分かって愕然とするのです。実の父親から、当時はみんな入党したのだ、そんな時勢だったのだと聞かされて、ヨハンは正義を見失って苦悩し、自暴自棄に。
マレーネとも別れてしまい、検事もやめてしまったヨハンには、アウシュビッツ告発の情熱が消えてしまったのか。ナチス幹部の告訴はどうなっていくのか、ちょっと意外な結末は劇場で。
ところでこの物語は、架空の登場人物もいますが、大筋は実話に基づいて作られています。脚本も手がけたジュリオ・リッチャレッリ監督は、これが長編デビュー作とは思えない手腕を見せてくれました。
過去を掘り返されることを周囲が嫌がる中、少しずつ協力者が増えていく感動。膨大な資料と格闘しながら、容疑者を1人ずつ追いつめる興奮。重いテーマながら、見事なエンターテインメントに仕上っていると思います。
善良な人々はなぜナチス党員となったのか。問題の本質に迫ろうとする作り手たちの真剣さに、きっと心が打たれることでしょう。
余談ですが、ドイツ人は、戦争犯罪に全然無関心だったのに、日本の新聞は戦後70年間も、慰安婦だ、南京事件だとでっち上げの記事まで使って、日本人の反省を説き続けてきました。同じ敗戦国ながら、余りにも対称的ですね(^^ゞ
ドイツ版久利生公平
『HERO』よりはもっともっと重いテーマだけど、シナリオ構成的には似ていると言ったら失礼かもしれないが・・・
第二次世界大戦中のドイツナチスが行った愚行の象徴というべき、アウシュビッツを日の本にさらけ出す、若き検事の話であるが、やはりこのテーマは人間の業というとても深い底である故、何時間かけてもとても語り尽くせない内容である。であるから今作品もどうしても深く追求できにくい部分があるのは否めない。上手く演出又は脚色、そして演技力が求められ、そのレベルに達した作品が世に出たとき、若しかしたらドイツでの反省と謝罪が終わるのかもしれないと思うのは浅はかなのかもしれない。
只、今回の映画はそれでもかなりの部分進んでいるのではないかと思う。
国民全員がナチス党員であり、そしてだからこそその悔恨に苛まれ、その苦悩が親から子や孫に否応なしに引き継がれ、全員が加害者であるその現実が、常に矛盾となって付きまとう、その現実をきちんと踏まえて物語が進んでいる。
史実を元にしているためネタバレもないのだが、主人公の恋や仲間との遊興、そして葛藤挫折も折込み、さながら青春グラフティでもある。内容が内容だけにバランスをきちんと取っているのだろう。関係無いが、唸ったシーンは、主人公と恋人がパーティに出席した際、恋人のドレス(恋人自身の制作)が他の参加女性達に気に入れられ、どこで買ったのかと問いかけられて、恋人が答えに窮していたところ、主人公がその恋人の店で作ったものだと助け船を出した場面である。何気ないその一言に主人公のスマートさが感じられ、女性ならば胸を射貫かれる感じなのだろう。
話を元に戻す。
自国民が自国民を戦争裁判にて裁く、このまるで天に唾する行動をこの一検事が出来ることは多分、フィクションも含まれているから難しいのかもしれないが、チームとしての勇気がここまでの偉業を成し遂げる過程はワクワクしてくると同時に、そこはかとない寂しさも又付きまとう。人間はいつだって現実から目を逸らせたい。でもその行動を否定し、きちんと相対する、その勇気を教えられる作品である。
臭いものの蓋をあける
身内も有人もドイツ人全てが裁かれる側の人間ではないのかという葛藤の中、みえない力に立ち向かい、ドイツ人が事実を白日のもとに曝した話を、ドイツ人が映画にしたというのが素晴らしい。
少し綺麗過ぎる感じはあるが、事実が明かされて行く様子と検事の心の揺れがテンポ良く展開し楽しめた。
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