顔のないヒトラーたちのレビュー・感想・評価
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ドイツ国民の、ナチに対する捉え方を変えた「アウシュヴィッツ裁判」に...
ドイツ国民の、ナチに対する捉え方を変えた「アウシュヴィッツ裁判」に関しての映画。ひとりの行動が、周りを巻き込んで大きな結果に繋がっていく。その時代の当たり前や空気が、人を変化させるんだと痛感しますね。
過去を暴くことに抵抗する者たち
1958年西ドイツ。小学校のとある中年教師が
元ナチス親衛隊だったのでは告発される。元ナチス党員は全て公職追放のはずではないのかと、腕にナンバーが入墨された収容所にいたと思われるユダヤ人男性が検察局に訴え出るも、有耶無耶にされてしまう。そこに偶然居合わせて、疑問をもった若き検事が新聞記者に教えを請うのが発端
「アヴシュヴッツって戦時下のユダヤ人保護施設だろ?」と聞く検事に、取り合わない記者。戦後わずか12年で、真相が不明になってしまうことに驚きつつも、戦後ドイツにとっては口外したくない話題すぎて、普通の人は知らないままだったんだろうとも推測される
元ナチス党員でも、元党員ではなくても、過去を暴くことに抵抗する上司たち
今は人好きのする気の良いパン屋が、絶滅収容所の恐ろしい看守として、非道の限りを尽くしていたこと
そして「死の天使 医師ヨーゼフ・メンゲレ」のまともな感覚では考えつきもしない、幼い子供に対する数々の人体実験と、彼を守ろうとする一族たちの反発…
主人公は戦時下の記録を管理している米軍の施設を訪ねて、ひとつひとつの記録を洗い出し、時効にかからない犯罪を告発しようとする
主人公が若い青年で調査過程で知り合う女性との恋愛話も絡めているので、裁判に至るまでの歴史ものというよりは、かなりエンタメ性が強くて、その分鑑賞していて楽しかったです
メンゲレの下りは、冒頭に出たユダヤ人男性が台詞で語るエピソードですが、本当に吐き気がするほどの残酷さなので、そこだけ要注意
【第二次世界大戦中に全体主義に覆われたドイツ。終戦後もアウシュビッツ収容所で働いていた戦犯は普通の顔をして生きていたが、或る検事が収容所の戦犯を執念で探す骨太な作品。】
ー ドイツが自国を裁いたアウシュヴィッツ裁判までの真実を描いた作品。-
■ドイツ人自らナチスの犯罪を裁き、自国の歴史認識を変えた1963年の「アウシュビッツ裁判」までの道程を描く骨太ドラマ。
■1958年。経済復興の波に乗る西ドイツでは、大戦時に自国が犯した罪が忘れ去られつつあった。
そんな中、元ナチス親衛隊員が教師をしていることを知った駆け出し検事ヨハンは、さまざまな圧力を受けながらも、生存者の証言などから収容所の実態を執念で調べ上げていく。
◆感想
・冒頭の、ドイツの若者達がアウシュビッツの存在すら知らなかった事に、戦慄を覚える。
ー その後もアウシュビッツの存在自体を否定する者(この辺りは「肯定と否定」で描かれている。)や、今やネオナチが勢力を伸ばしているドイツ。-
・そんな中、若いヨハン・ラドマン検事は、アウシュビッツの戦犯を調べ上げていくのである。
ー だが、彼の両親や恋人の父もナチス党員だったことが分かる。-
<一度は、挫折しかけるヨハン・ラドマン検事だが、検事総長の後押しもあり、「アウシュビッツ裁判」に臨むのである。
ラスト、テロップにもあった通り、「アウシュビッツ裁判」によりドイツ人の過去に犯した歴史意識が明らかになった事は有名であるが、それを描いたこの作品の価値は高いのである。>
ユダヤ人に対する偏見はどこから来たのか。
元ナチスドイツ軍の兵士たちによる悍ましい犯罪の過去を法で裁く経験浅い若き検事。
内容が濃くかなり悶々と考えさせられた。
戦争犯罪というより人種差別。
ユダヤ人に対する偏見や嫌悪がどこから来たのか..、
ほんとうにわからない。
『アウシュヴィッツで犯した罪に対して、どんな罰を与えて良いのか、分...
『アウシュヴィッツで犯した罪に対して、どんな罰を与えて良いのか、分からない。』と言う検事である主人公に対して、
『罰ではなく、被害者とその記憶に目を向けろ』と答える。
さて、この映画は、裁判が始まって
ナチスの排除に繋がった、結論付けているが、だいたいはそうであっても、完全ではないと思う。なぜなら、今でも、ナチス的行為は存在している。
だから、この映画の結論は甘いし、その経緯に虚偽もたくさんあると思う。
しかし、
日本ではどうなのだろう。
東京大空襲や原爆を作戦した、アメリカ人のカーティ・ルメイに、佐藤栄作が首相の時、日本国は彼に勲章を授けている。
事の真相は兎も角、そういった歴史的事実すら、知らされる事がないのが、日本の歴史教育なのではないか、と僕は感じる。
大学入試に日本史を選ぶと、近現代史か出題される頻度が一番少ない。
『鎌倉幕府が何年に成立したか?』が『廃仏毀釈の理由』よりも大事な事の様だ。
検事達の個としての強烈な正義感と国を良くしたという崇高な使命感に、圧倒され羨望を覚える
ジュリオ・リッチャレッリ監督による2914年製作のドイツ映画。
ナチスドイツによるホロコーストに関わった収容所の幹部を戦後ドイツ人自身によって裁いた1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判開廷までの道のりを、フィクションを交えつつ事実に基づいて描いているらしい。
この裁判に関して、ドイツ国内に大きな抵抗や反対があったことを初めて知った。また当時、一般国民でアウシュビッツにおけるホロコーストの史実が風化していたことも初めて知った。そして、この裁判を成立させるために、有名らしいフリッツ・バウアー、その他検事達の個としての強烈な正義感と国を良くしたという崇高な使命感があったことを知った。
それら検事を、身内を裁く葛藤も含めて説得力も持って演じた、アレクサンダー・フェーリング、ヨハン・フォン・ヒューロー、ゲルト・フォスが、とても良かった。そして、日本と違って、自国の戦争犯罪を困難はあったが何とか自ら捌けたドイツの歴史に羨望を覚えた。
何がこの差をもたらしているのだろうか?自分も含め日本人の大きな問題を、突きつけられた思いがした。
製作はヤコブ・クラウセン ウリ・プッツ サビーヌ・ランビ、脚本はエリザベト・バルテル ジュリオ・リッチャレッリ、撮影はマルティン・ランガー ロマン・オーシン。
美術はマンフレート・デーリング、衣装はアンヌ・プラウマン、音楽はニキ・ライザー セバスチャン・ピレ。
出演は、 アレクサンダー・フェーリング(ヨハン・ラドマン検事)、フリーデリーケ・ペヒト(恋人)、アンドレ・シマンスキー(記者)、ヨハン・フォン・ビューロー (オット・ハラー検事)、ゲルト・フォス (フリッツ・バウアー検事総長) 、 ハンシ・ヨクマン(秘書)。
本当の事実
まず、ドイツ軍がユダヤ人に行ったことについて1968年まで世間に知られていなかったことが驚きでした。そのような事実を世界の人は知らなかったということに。そして、検事の人があなたは今教師をやっていますね?今の生徒達に自分が人を殺していたということを言えるのか?人を殺していた人が生徒に教育しているのですか?と昔収容所でユダヤ人を殺してたドイツ人に対して言っている所にすごく衝撃を受けました。そのような人も戦争が終わってからもずっと普通に生活をしているという事実に。もっと恋愛要素ではなく、そのような事実について詳しく描けばわかりやすいのになと思いました。
戦争犯罪を個人が償う意味
相次ぐヒトラー映画。ドイツ本国では氾濫するヒトラーものをどのように受け止めているのだろう。
常に自戒の念を呼び起こされるのか、自分とは関係のない遠い過去のものとして捉えるのかー―この映画の若者たちのように。
ドイツ国内で、ナチスの行ったことがこんなにすぐ風化してしまっていたことに驚いた。日本では日本国民を鼓舞するために、軍部の行った非道を寧ろ喧伝していた歴史があるが、ドイツでは違ったということだろうか。
戦争下では残虐の限りを尽くした人間が、平和になった街角でパンを売っている。この矛盾。
主人公の行おうとしていることは、自分等国民のために戦った同胞を、非難し貶める行為でもある。故に反発を招く。
確かに戦争という常軌を逸した条件下で、何が正気で正義であったかを個人に問いただすのは見当違いなのかもしれない。
しかし個人の罪を問うことで、戦争下の人間がいかに非道になりうるかを世間に知らしめ、それにより戦争の抑止力とすることはできるのだと思う。
映画では人体実験を積極的に行った医師を、捕まえるべき最大の悪として描かれるが、逮捕されたのはほぼ一般市民だ。
この題材、同じドイツのベストセラー【朗読者】を思い出した。
主人公が思いを寄せた年上の女性も、同じように裁判にかけられた。
その時、彼女は言った。
「一体どうすればよかったんですか」
私も同じ立場だったら惑うだろう。
軍に逆らい自分の命を危うくしてまで、ちっぽけな正義を貫けるのかと。縁もゆかりもない人間に情けをかけることによって、家族や自分の安全を差し出せるのか、と。
たまたま生きている時代に戦争が起きて、たまたま敵をいたぶってしまった「元々は罪のない」個人を糾弾してどうするのですか、と。言ってしまうかもしれない。
結局、戦争で一番矛盾を抱えて苦しむのは、戦争を始めた国家ではなく、戦争をさせられた一般市民。
自分だったら…と、自問し続けた二時間だった。
やはり、一人が頑張らなければならない。
大方の人は事なかれ主義で、現状を否定してくる人に対して、なだめたり、貶したり、愛国主義に反するとか。そんななか、真実を突き詰める。正義感に貫かれるというか、そういうことができるのはやっぱり、本当に一人の勇気や行動。ドイツですら、あのような状態だったのかと驚く、日本ではいわんや。やはり、私や、あなた具体的な誰かが勇気を持って行動しなければならない。
1人の検事の存在が、アウシュビッツの真実を伝える!
スタンフォードの監獄実験や、ミルグラム実験のように、全良な一般市民でもその場の状況や環境によって、人は命令に従い悪魔のようになれる恐ろしさを感じました。
アウシュビッツの看守達も、戦争が終わればパン屋だったり教師だったり普通の生活を送っています。
数十年前は何十人、何百人もの命を殺めたはずなのが信じられません…。
裁判によってその真実が明かされますが、反省の色を一切見せない彼らは一体どんな心境なのでしょうか…。
裁判で少しでも、加害者達の心の内が見えてくることを願います。
第二次世界大戦は、誰もが被害者であり加害者でもあったのだと、改めて感じました。
1960年代初頭のドイツ
1960年代初頭の西ドイツ、若い人の中にはアウシュヴィッツを知らない人が増え、世論も今更もういいではないか、という空気に支配されようとしていた。
若い検事がある訴えから調査を開始、検事総長はユダヤ人で収容された経験があったため、正式に認められる。
恐ろしい強制収容所の実態が明らかになるが、戦争犯罪を自国で裁くという途方もない試みには障害が多かった。
自分たちの父親がナチ党員だったことが大きな負い目を背負わせる。
ドイツはきちんとけじめをつけていた。
タイトルをあらめてみて納得しました笑 「顔のないヒトラー達」ヒトラ...
タイトルをあらめてみて納得しました笑
「顔のないヒトラー達」ヒトラーが猛威を振るっていた時代から少し後、アウシュビッツでの出来事を国から隠されているせいで若い世代はその悲劇を知らないという時代設定。
上司に「命令されたから」悲惨な事をしたわけでなく、アウシュビッツでは命令はないはずなのに人が殺され しかもそれが隠蔽され世間に隠されていた。あの悲劇はヒトラーだけでなく 時代の雰囲気に呑まれていただれもが生み出した。
「顔のないヒトラー達」というのは、ヒトラーの波に呑まれていた だれもかれもを示す言葉なのだとおもいます。
同時期にヒトラーに関する映画がいくつか出ていましたが、ヒトラーがいた時代でなく その悲劇を知らない人(と、知っているけれど立ち上がれなかった人々)がアウシュビッツでの出来事を紐解いていくという、少し時代が過ぎたあとで、違った良さがありました。
主人公が真面目な検事というのも面白い設定だと思いました。きっと検事でありそのことを誇りに思っている彼にしかこんなことは成し得なかったのだろうなと思います。
そんな彼は、お父さんを尊敬していたけど実はその父も党員だったと知ってヤケ酒したり自暴自棄になっていましたが きっと彼のような体験はあの頃には彼と同じような若者達のほとんどが体験した事なんじゃないかなと思います。
ドイツはヒトラー時代の事を歴史上 悪と為すのか、また それは一体だれの責任なのかという事が議論されてその概念をもとに歴史の扱いが変わっていますが、これがその始まりだったのかなと思いました。
戦争での悲劇は「知らない」では済まされない そんな思いも感じました。
ナチスが戦時中に行っていたことを知らないドイツ国民が1958年当時...
ナチスが戦時中に行っていたことを知らないドイツ国民が1958年当時いたという事実。それを自国民が裁いていく軋轢は凄かったと思う。
歴史の真実をどこまで把握しているのか、自分に対しても教育に対しても問いたくなるそんな映画だった。
こうゆう映画を作れない日本って・・・
誤解を恐れずに書けば、法定サスペンスとしてスリリングで凄く面白い映画。
しかし、それは逆に良い事だと思う。
気難しく歴史事実を本やネットで学ぶより、こうゆう映画を観る方がより入りやすく感じやすいと思う。
ドイツがナチスとゆう暗部を目を逸らさずに向き合うキッカケになったアウシュビッツ裁判。
日本は何故こうゆう映画を作れないんだろう?
戦争被害者的な側面ばかりクローズアップして、加害者としての部分に蓋をしてきたからだろう。
戦時下の中国では旧日本陸軍の731部隊とゆう、劇中に名前が出てくるナチスのメンゲレと同じような人体実験を繰り返していた事実もあるのだ。
(司法取引で無罪にしたのはアメリカだけど)
巧い邦題。
顔のない、とは巧い邦題だと思った。ハンナ・アーレント曰く
思考停止の凡庸が生む悪が良き市民だったはずのドイツ人を
大量虐殺へと駆り立てた忌まわしき戦争の実態。誰もが消し
去りたいと思う過去の出来事を蒸し返そうとする新米検事が
迫害を受ける。自国民が自国民を裁くというのは苦渋に満ち
た決断であることはよく分かる。しかし彼の蒸し返しにより、
アウシュビッツを知らないドイツ人がどれほどいたかという
信じられない事実も浮かびあがる。ナチス親衛隊だった男が
教師を勤めていることを突き止めたジャーナリストの告発に
より「アウシュビッツ裁判」までの長い道のりが語られていく。
いや、よく頑張ったものだと思う。自国に敵視されながらも
真実を追い求める検事・ジャーナリスト・生き残ったユダヤ人。
自国民の戦争犯罪を認め裁判にかけることの重要性と、この
事実に蓋をして何事もなく日々を謳歌する(顔のない)加害者
達が更なる支配者を生むきっかけとなり得ることを示唆する。
日本にも真摯に向き合ってこなかった犯罪がありはしないか。
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