この世界の片隅にのレビュー・感想・評価
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これは今ではない
「8年12月」とか何だろう。
1908年かと思ったけど
どうやら、
「昭和」8年だとわかったのが後半。
「昭和」19年や20年の空襲とかで知識と一致してわかりました。
海老名のTOHOシネマズ朝九時から見ました。雪でした。
同じ建物で「ファンタスティックビースト」のMX4D上映の振動が伝わってくるせいなのか、椅子がたまに振動で揺れました。
「ホタルの墓」とか「はだしのゲン」とかに近い部分がありますが、絵が優しいとか、人柄が優しいとか、最後の出来事の感じが「この世界の片隅にいさせて【くれてありがとう】」、「いさせてあげるね」みたいな話で好きでした。
主人公の女性は呉で生き残りますけど
親戚がかなり亡くなります。
親戚が亡くなった経験があり、大人になり感情が動じなくなる大人はいいですけど。
子供には受け入れられるのか。
ホタルの墓よりは救いがありますけど…。
悲劇ストーリーの落としどころ、事実と希望のすりあわせで収まっています。
笑える火垂るの墓
はだしのゲン は戦後が長過ぎたり、今となっては忠実な映像化は難しいし、火垂るの墓は鬱すぎるし、今後定番になりそうな映画なのにクラウドファンド頼みでどのTV局も絡んでないって見る目ないんだなぁ
どこにでも宿る愛
イデオロギーなど関係ない、市井の人々の戦争を愛を持って描いた作品。
ラストで戦争孤児を、当たり前のように受け入れるすずと周作とその家族。柔らかい広島弁に、涙が止まらなかった。
誰だって戦争は嫌だ。だけどこの作品はくだらない政治屋や自称インテリに、わかった風に「反戦映画」などと言われたくない。あさはかなイデオロギー、いや空疎な言葉で汚して欲しくない程の、珠玉の愛の物語。
母のおにぎりが、無性に食べたくなった。
映画一般的に「泣ける」という評価は、どこか品が無いなーと常々思いな...
映画一般的に「泣ける」という評価は、どこか品が無いなーと常々思いながらも、「この世界〜」の評判がそーゆー「泣ける映画」として出回っており、また心のどっかで「泣きに」観に行ってしまってたのも事実であります。
で、結局泣いてしまったのですが、泣かすための「化学調味料」的なのは全く無く、むしろ味付けは薄め、なんやったら素材の味もするか?ぐらいの演出でした。なのになぜ泣いてしまったか!?
それは、ひとえに「今」の世界と地続きのお話だったからのように思います。
その「今」とは、まさに3.11以降の日本であり、あの大震災を経て、どうやって生きていくべきなのか、を見た思いがするからです。
さきの大戦を経験した人がまだこの世に存在する以上、右か左かで戦争を語るしかないのは仕方ないことだと思います。しかし、戦後、70年以上経った今だからこそ、そうじゃない立場の人たちの戦争の物語もあったはず。戦争を真正面からむきあった人たち、まさに、それは「普通の日常を暮らす人々」だったんじゃないかなと。
「空襲警報飽きた〜」とか「これは、戦争に負けたってことかねぇ?」とか、ある意味、危機感のなさげがすごく印象的で、でもそれが普通で、今だって、震度4くらいやったら、「結構揺れたねぇ?」ぐらいの感覚で語ってしまってるのと、相通じるような気がして。
だからこそ、そんな「普通の感覚」を簡単に脅かしてしまうからこそ、戦争の怖さってあるし、それを浮き彫りにしているこの映画が、火垂るの墓とは違った映画になっている所以だと思います。
だからといって、「日常最高!」とか「普通が素晴らしい!」といった礼賛タイプのでも無かったのが、まぁー清々しい!
ただ生きる、生きていくしかない日常を受け入れるのって、そんなに悪くないな、と思えました。
暗いと不満を言うより
進んで明かりを点けましょう
すずを始め、そんな言葉がしっくり似合う登場人物たち。
辛い時代を明るく生きる姿に勇気づけられ、涙がこぼれました。
原作を読んでいたせいもあり、最初から涙ぐんでましたが、何気ない普通のシーンで涙が頬を伝っていくのは初めての経験でした。
そして他の映画のように感情に任せて泣かせようとすれば幾らでも出来た(例えば被爆したすみとの再会場面とか)のに、それをせずにいることで、物語が単純な悲劇作品とは違うものになっているように思います。
他の方はあまり触れませんが、私は径子さんが良いと思います。
重症のすずを看病してた(恐らく夜通し)のは間違いなく彼女でしょう。(だから目覚めた時に彼女が目の前に…)
径子さんはより強く家を守ろうと思っているでしょう、だから弟嫁のすずにも生きてほしいと強く願ったはず…でも、母として『娘が死んでよかった』と、捉えられるような言動は決してしない…玉音放送の後、1人陰で泣き崩れる彼女がとても印象的でした。
そして、この作品の主軸に感じたのは故アグネス某(最近は批判が多い方ですが)の言葉にある『人の最大の不幸は戦争や貧困ではない、それらによって自分が誰からも必要とされていないと思う事(孤独)』ではないかと思いました。
『私を見つけてくれてありがとう』は自分の居場所(自分を必要としてくれる場所)が見つかり「人の最大の不幸」から救われたことからでたのでしょう
本当に色々と考えさせられる作品です。
そして多くの人がこの作品を見て、色々と考えてくれたらいいなと思います。
悪意の匂いがない映像
つらい話です。
✋が無くなり、姪が目の前で消える。
でも、すずさんのひととなりや、最終的には善意な人達に囲まれて暮らす当時の風俗が描かれているので、平穏にスクリーンに意識を没頭できました。
終始映像から溢れていたのは、日常にある幸せの欠片を大切にした人が人生を大切に生きることができるんだなと。
とても真似できるものではないけれど
この作品を観たことで何か自分をかえて生きていきたいと感じました。
のんちゃん お帰り。
悲しさと愛しさ
サラッとしたアニメで、原爆投下前の広島の街、蘇ったように思いました。
スイカを食べにきた女の子は、遊廓の女性?
それとも被災してお母さんを亡くした女の子?
シンプルだけれど、深い想いを感じました。
後から後から、感動しました。
起こった事が不幸かどうかは、結局その人にしか決められない。そんな事、考えるよりもその中に生きている事をしっかり味わうしかない。否定も逃げもできないのだから。
空襲の最中に絵の具をイメージするすず
遊廓の女性に優しく寄り添うエンドロール
敗戦後の朝鮮の?旗
ユーモア、にもかかわらず笑う事
本当にいい映画でした。
観て良かったです。感謝です。
素晴らしかった
戦時下の広島、なんでもない普通の若い女性の目線で戦争を描く。ないならないなりで料理を工夫してたくましく生きているのが素晴らしい。姪が死んでしまいのが悲しすぎて、浮浪児を引き取るところに涙があふれて困るほどであった。まさかの里親展開で、あの子を助けることでみんな救われると思う。
のんが素晴らしい。かわいらしくて、それでいて地に足のついた感じがすごい。医者に行く場面があったのでてっきり妊娠かと思ったら、そうでもなかった。不妊治療なんて当時はなかっただろうし、そういった何かを匂わせていたのだろうか。旦那さんは幼馴染の男と何かあってもそれでいいと思っていたのだろうか。
戦争が尊いものを破壊していく様子が改めて恐ろしかった。うちに今、焼夷弾が落ちてきたらと思うと耐えられない。しかし耐えるしかないのだが、本当にやめてほしい。
(追記)
今週は見たい映画が時間が合わなくて、替わりにちょうどいい時間で再映されていたので1年ぶり2回目見た。心をかき乱されすぎるので、あんまり何度も見るものではないと思うくらい感動した。最初から展開が分かっているので、その予兆があるだけで涙が出る。旦那さんが男っぽくない人柄で、だけどそれでも男らしさを発揮するところに感動したり、姪が亡くなるところは耐えられない気持ちになり、若くして腕を失うのも辛い。戦災孤児が光となり家族みんなを癒すところに泣ける。クラウドファンディングのクレジットのところで女郎の女の子とのエピソードが描かれていた。
片渕監督に足を向けては寝られまじ
原作の大ファンとして、本当に素晴らしい映画化作品というほかはありません。
片渕監督の原作の掘り下げ方は凄まじく、リサーチもすさまじいものがあります。
美術の美しさは特筆もので、ここまでやるのか、という監督の執念をも感じます。
また、戦争シーンの恐ろしさといったらありません。原作の漫画ではそこまで恐怖を感じはしなかったのですが、音響と相まって本当に怖さを感じます。可愛い絵柄なのですが、武器はとても重く恐ろしく描かれています。空襲を描いた作品は多くありますが、焼夷弾、照明弾をこんなにも恐ろしく感じたことはありません。日常とのギャップの凄まじさがより際立つように感じました。
とはいっても確かに戦争映画や反戦映画という側面はあるもののそれが主題であるとも言いがたい作品だと思います。
主人公の再生の物語にもなっていて、幸せな気持ちで映画館を出ることが出来ます。呪詛や怨嗟に満ち満ちた作品では決してないのです。それらを否定する気はないのですが。
こうの史代さんが書いたとしか思えないほどのの作画のクオリティに本当にびっくり。
日本のアニメーターってものすごいものですね。
クラウドファンディングに参加することが出来た人が本当に羨ましい。エンドロールに自分の名前が載っていたら本当に誇らしかったでしょうね。返す返すも残念至極。今なら参加できたのになー。
戦争の「当事者」としての庶民
戦時下の庶民の暮らしを描いたアニメーション『この世界の片隅に』。
観る前は、期待と不安がない交ぜ。
というのも、こんな時代に戦争の話をアニメーションで描こうという志は買うものの、真面目一辺倒の今井正的作品だったらイヤだし・・・といったところ。
結果は・・・
昭和19年、広島で暮らす19歳の浦野すず。
突然、見初められれ、呉の北條家に嫁ぐことになった。
大らかで、鷹揚で、かなり世間知らずのすず。
嫁いだ先でも、性格は変わらない。
しかし、海軍鎮守府のある呉は、敵機の襲来を繰り返し繰り返し受けることになる・・・
といったハナシを、映画は丁寧に描いていく。
まず、目を見張るのは、その画力。
当時の町の様子をリアルな、それでいて、柔らかいタッチで描いている。
冒頭、広島の街が描かれ、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲『悲しくてやりきれない』のカバーが流れただけで、涙腺が危うくなる。
この街が、後の8月6日の原爆により喪われてしまうのか、と思っただけで、やりきれない。
画の筆致が、まさに「記憶」というに相応しい筆致だからだ。
だが、この冒頭で不安がたまる。
よもや、原爆によって命が失わるハナシ、そこへ至るまでの「犠牲者」としての庶民の暮らしを描いたものではありますまいか、と。
その後につづく物語は、のほほんとしたすずの性格によって、やわらげられていく。
困窮も糧とし、工夫によって生活を続ける。
この前半で、じっくり生活を描くことで、終盤が活きてきた。
映画のタッチが変化するは、終盤、昭和20年に入ってから。
呉に初めての敵機が襲来するシーン。
青い空に踊る爆雲を、すずが描く絵筆から落ちる絵の具を用いて、表現する。
このシーンの表現手法が素晴らしい。
そして、もうひとつ表現手法で素晴らしいのは、すずが幼い義姪を連れて、不発弾の爆発に遭うシーン。
一コマ一コマ、黒背景に白い手書きの線描アニメ。
ギザギザのエッジが心を搔きむしる。
このふたつのシーンのあとに、物語として瞠目するシーンが続く。
戦争も末期。
すずの心が、知らず知らずのうちに変化している。
銃後を守る女たちは「困窮も糧とし、代用できるものは代用で、工夫する。それが私たちの戦い方だ」という。
そして、8月15日の玉音放送。
ここで、すずは号泣する。
「勝ちたかった。なんのために戦ったの。みんな、みんな犬死じゃないの」と。
そう、庶民もみな悔しかったのだ。
8月15日の庶民は「被害者」ではなく、戦争「当事者」だったのだ。
あんなにも、のほほんとしていた少女だって、知らず知らずのうちに「当事者」になってしまう。
だからこそ、戦争は恐ろしい。
こんな時代に戦争の話をアニメーションで描こうとした意義はあった。
大いにあった。
原作に忠実な作品だった
キャラクターは原作に忠実に描かれていて背景もいくらか薄い色彩だが綺麗だ。
昭和10年から20年の広島と呉を舞台に大戦が次第に激しさを増すなか、すずという少女が少年と逢い少年の家に嫁に行き一緒に暮らしながら終戦を迎え大事なものを失いながらも夫となった少年と生活して行く。
こうの史代さんの原作を時間の中でとても大事に演出して物語の中で重要な設定を敢えて否定しないようにスルーしたのは残念だが、分かりやすい内容になった。
ジブリやカラーのような大胆な演出や色彩を使用せず原作を補完するようなこの作品は、クラウドファインディングをして資金を募り完成させた監督とスタッフの意気込みを感じる。何となく磯野家を思い出させるのは戦時中でも笑いを忘れないからだろうか。
戦時中の生活者を描いた作品
これまでの戦争映画とは違い、戦時中の生活者を丁寧に描いた作品。
1945年8月15日が近づくに連れて、どんどん生活が苦しくなり空襲の回数もどんどん多くなる。
時系列に物語が進んでいき、たった数年の間に身の回りが急激に変化し、普通の生活もできなくなっていく。
主人公のすずという女性は、戦時中どんなに苦しい事があっても笑顔で生き抜こうとするが、玉音放送が流れてから「何のために必死で生き抜いてきたのか」目的が無くなり悲痛の気持ちになってしまう。
戦争が終わった時、「国民自体は喜んでいた」という話も聞いた事があるが、やっぱり国民自身も日本が戦争に勝つことを願い、ギリギリの所で戦っていた事がわかる。
これまでの戦争映画は「戦争の最前線で戦ってきた兵士」を描く事が中心だったが、国民目線の戦争を知る事ができて色々考えさせられた。
すず自身は右手を失い、自身の両親も無くし、妹は被爆する。
そんな状況の中でも、生き抜いていかなければいけない現実が、たった70年前に起こっていたかと思うと、言葉がでません。
戦争の悲惨さを伝えるだけではなく、「生きる大切さ」を強く感じさせてくれる作品だった。
遠出してでも観る価値あり
近くに上映館が無いため車で3時間をかけて隣県岡山市のイオンモールで観賞しましたが十分行くだけの価値はありました。
普通の生活が戦争で破壊され、心も疲弊していく中で終戦を向かえ、それでも必死に生きようとする姿に感動しました。
最後の方で母を無くした女の子を家に連れて帰り、物語はそこで終わるがエンディングロールではすずと姉の径子とでその女の子を育て、その幸せそうな様子が画かれているのを観たとき、不覚にも涙がポロリでした。
もう一度見たいと思わせる作品です。
生活は続いていく
どんな事があっても、生活は続いていく。
追憶を引きずりながらも、前へ前へとベクトルをとる。時に張り裂けそうになりながらも、過去を忘れる事なく、今を淡々と生きていくのが庶民だ。今の時代には、こういう映画がうまれることに希望を感じながら、失望したりもします。複雑な感情が残り、この意味をずっと考え続いていくことでしょう。
奇跡の作品
このような作品が今の日本の環境で作れて、公開までいけるのか、ということが本当に驚きだと思う。
このような作品、というのは、作品へのこだわりと愛が徹底された映画、という意味。
邦画の制作環境を考えると、どんなにすばらしい原作、監督であっても、妥協のかたまりのようなものしか作れないのでは、とどこかであきらめていたところがあった。
この映画が先駆けとなって、これからも良い映画が作られていったら良いな、と思った。
印象深いシーンがいくつもあり、それぞれその意味の探究しがいがある。いちいちシーンの意味が解説されないところがよい。
はじめと最後に出てきた人さらいが面白い。
彼の存在は、この作品はなんなのか、ということを考えさせられる。
今だからできた映画
町の雰囲気、空気の色まで見えるようなアニメ技術と、ほんとにこんな町だったと覚えていて証言できる方がまだ映画を楽しめる、最高のタイミングで映画化されたと思います。
すずさん可愛いすずさん可愛い、すずさんを迎えた優しい世界にずっと浸っていたかったけれど、すずさんたちも前に進んでいかなきゃならないんだから、毎日を普通に一生懸命生きて行こう、と、しみじみ思いました。
あ、エンディングは卑怯だ、半分過ぎてから気が付いたのでもう一回行ってきます!
世界の片隅に生きていても
「あれは、船かね?」
戦艦大和を見たすずの言葉は、この船の途方もない大きさを表している台詞として秀逸。
そして、呉軍港に停泊する軍艦を眺めながら、ワシントン軍縮条約によって建艦数が減り、造船業界の人たちが仕事を失うことに触れた会話。
これも当時の市井の人々の感覚を表していると思う。誰しも本当にその巨大な軍艦の数々を沈め合う戦争が起きるとは思わずに、社会経済の問題として大きな軍艦の建造を願っていた時代感覚である。
そして、言うまでもないことだが、ワシントン条約の軛から脱し、自由に戦艦を造る道を選んだのもまた、こうした国民であった。
この映画は、戦争の悲惨さを語るにとどまらず、戦争への道のりも田舎の片隅に暮らす人々の目線で物語っている。
嫁ぎ先の家が焼夷弾によって燃えそうになったとき、初めてすずは戦争というものに向かい合う。
姪と自分の右手が爆弾で吹き飛ばされた時でも、彼女はどこか戦争が他人ごとで、自分はいわれなきとばっちりを食ったという意識しかない。
自分の住む家がなくなるかも知れない危機に際し、自分というこの世界の片隅に生きる存在も、戦争と無関係ではなかったことにようやく気付く。
空襲の被害が最小限で済んだとき。玉音放送によって終戦を迎えたと知ったとき。
何はともあれ「良かった」と繰り返し喜ぶ周囲の声に、すずは「何が良かった。良かったことなどあるものか。」と憤る。
この憤りは、戦争の建前があっさりと崩れ去り、愛するものが失なわれた世界が残されたことへの悲しみ。そして、「うちはボーっとしとるけん」と他人ごとのように生きてきた自分自身への怒りである。
戦争を反省するとはこういうことであろう。軍人や政府の責任に帰結することではなく、国民一人一人が戦争へと進む世界を構成する存在であったという視点である。
世界の片隅に生きる者も、戦争の責任を免れることは難しい。
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