「「普通を保つこと」が「特別格別」」この世界の片隅に movie mammaさんの映画レビュー(感想・評価)
「普通を保つこと」が「特別格別」
どうしても映画館に見に行く勇気が出ず、ドラマだけで留めていた作品。
コロナ禍で終戦後の平和維持を高めるドラマなどが少なく、しかし戦争の惨禍を経験した世代は年々減っていて危機感を覚えていたタイミングで鑑賞。
冒頭の海苔を売りに行く場所が、まさに原爆を積んだ飛行機が落下地点としていた場所で、最初からぞわぞわが止まらない。冒頭で、来たれ友よが流れると、これから出るとわかっている犠牲者に捧げる物として、作品がより一層重たく感じられる。
ほわほわとしていて、何かあらば命を守る機転が働くのか心配なすずだが、人攫いの望遠鏡に海苔を被せるファインプレーと命拾い。
嫁入り後、義姉も出戻って肩身の狭い思いをするが、その義姉ケイコも喪失の連続を乗り越え、娘の晴美だけは守っていく覚悟と緊張感に満ちてなのだろう。
そして、本当は器用で男気ある性格ゆえ、足の悪い母に充分に甘えられず育ったのかもしれない。それゆえ、すずを生易しく感じ、キツい言葉をかけてしまうのかもしれない。オシャレに溌剌と人生を切り開いていたケイコも、身体は被災をしていないが、強がっているだけで本当は心がズタズタで、見ていて苦しい。
でも、ケイコが、すずの人生は「自分で選択した末の果てではない」かのように言ったが、それは違う。
実際その直後、すずは微妙な関係の義姉に泣きついて、ここに居させてくれと頼み、被曝を逃れることができた。
思えば、幼なじみの水原が迎えに来てくれた時も、夫を想いすずの意思で思いとどまれたからこその、高台で過ごせて守れた命。
晴美と畑にいた時は、義父が守ってくれ、白鷺を追いかけた時は、夫が守ってくれ、沢山の命がすずを守ろうとしてくれている。
次々と爆弾の種類が変わり、無関係な大勢の一般市民が恐怖と不安と戦禍で人生を狂わされ、でもその中でも人と人が助け合って守り合ってそれぞれ少しの心の拠り所を保っているのが、より戦争の無意味さを露呈させる。
なかでもすずは、戦争を通して、最初はハゲができるほどストレスがかかっていた環境下の中で、義家属との心の通い合いが深まり、かえって居場所を見つけていく。
嫁入り前には気付いたり、慮ることの難しかった人間の感情にも、しなくても良い経験を沢山させられてしまう中で、否応なしに大人になり、わかるようになっていく。
それでも過酷な環境で我慢をし義家族のために尽くし、実家も兄を失い被爆し、腕も失い、絵も描けなくなり、なにも「良かった」ではないのだけれど、世界の片隅にすら思える1人の人生の中に、人間の存続に不可欠な、思いやりや優しさを生み出す、命あってこその経験や感情の積み重ねが詰まっていて、「尊い」命が繋ぎ止められた安堵がある。
だからこそ、晴美という小さな尊い命の犠牲が悲しくてたまらない。原爆さえなければ、陸軍の将校さんとのキラキラした青春が成就していたかもしれない、姉のすみの被曝の描写も見ていられない。家業の海苔も、被曝した事だろう。一方、すずの夫、周作が戦地に出兵せずに済んだ事は大きな希望である。
誰しもが心の余裕をなくして当然な中でも、少し鈍感なお陰でやさしさを保てたり、時を経て、誰かに攻撃的になるのではなく、少しだけ図太くなれる、すずのような淡々と「普通」を守れる女性が実は1番生命力があり、特別、格別に強いのかもしれない。
そうした想像を絶する忍耐力、咄嗟の判断力の持ち主達が繋いできてくれた、現代の日本人の命を、私は無駄にしていないか、平和維持のために使えているかと、省みる作品。
子供にも平和への意識を強く持っていて欲しいとか、あれこれできるようにならねばと年々求めてしまうが、まず生きているだけで大感謝なことを思い出させられる。
タイムリミットを知っているだけに「ごくありふれているけどキラキラした日常」が次々と奪われていく悲しさがあると聞いていたが、見てみるとどんな環境変化の中でも工夫し、例え原爆まで落とされたあとも、助け合い暮らす人々の逞しさ優しさの方が印象に残ったし、それらを残したまま終戦を迎えられた日本は、むしろ軍事力で負けても人間力では勝ったとさえも感じる。戦勝国がいまだ核の正当性を主張していると、余計に。
想像することすらできない、感情の経験値が浅い優しさでは、世界平和など程遠いだろう。
世界平和に向けて、今後の日本の立ち位置に期待する。
軍港の呉、海猿の呉、呉には既に印象がたくさんあったが、九嶺でくれなことは初めて知った。