EDEN エデン : 映画評論・批評
2015年9月1日更新
2015年9月5日より新宿シネマカリテほかにてロードショー
この実人生とともにある フィクションが現実に混ざり合うことで生まれる映画
1992年から始まり2013年で終わる。10代末だったパリの若者たちは30代末になる。職業はDJ。一時は海外にも招聘されるくらいにはなるが、音楽の流行の波は残酷で、次第に彼らは時代遅れとなっていく。40代は目前。ドラッグ中毒、莫大な借金だけが残る……。そんな物語の流れだけを書くと、これまで何度となく語られて来たミュージシャンやバンドの物語と変わることはないのだが、まさにそれこそこの映画が敢えてやろうとしたことでもある。
終わりは終わりではなく
時は遡る
物語の終わりにこんな詩が、主人公によって読み上げられる。この物語には、監督の兄の実人生が重ねられているという。実際にDJでもあり小説家でもある監督の兄は、この映画の脚本にも参加している。実人生では終わった彼の時間が、映画の中の物語の時間として蘇る。現実とフィクションが重なり合うだけではなく、彼が生きた時間が映画となって世界中で繰り返し上映される。観客たちは、その中に自分や自分の知り合いたちの人生を見出すことになるかもしれない。「アメリカン・ギャングスター」を見たジェイ・Zのように「これは俺の物語だ」と思う人も次々に出てくるだろう。
だがそういった物語への共感は、この映画の場合もっと熱量の低いものになる。カタルシスがないと言ったらいいか。物語の大筋の脇にある小さなものたちがひっそりと、ひとりひとりの観客たちの周りにまとわりつく。あのとき彼が持っていたバッグには「ラフトレード」のロゴがついていたとか、主人公たちが何度か口にする「ラリー・レヴァン」とは誰だろうとか、気にならない人にとってはまったく意味をなさない小さな記号が、しかしほんの少しの意味を持って記憶の底で澱みを成す。わたしたちはそんな断片を自分の人生と照らし合わせながら、自分と監督の兄と、そしてこの映画の主人公たちが重なり合った新たな物語を紡ぎ出すことになるはずだ。語られるのではなく、この実人生とともにある映画と言ったらいいか。パッケージされたものから静かに逃れ出たフィクションが現実に混ざり合うことで生まれる映画。そんな映画がここに生まれるのだ。
(樋口泰人)