「うごめく国家、うごめく人間」ブリッジ・オブ・スパイ ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
うごめく国家、うごめく人間
先日地政学の入門書を読んだ。例えば、自分が人工衛星にでもなったかのように地球を眺めてみる。
大陸や、いくつもの島々は動かない(実際には年間数センチ動くそうである)
しかし、その地面にうごめく、人、モノ、カネ、そして国家の勢力というやつは、絶えずアメーバや、粘菌の動きのように、グロテスクにうごめいている。
地政学というのは、その動かない土地と、これら国家と称する人間の集合体の「うごめき」の関係を探るものである。
地政学は、その名の通り、地理と政治に着目するが、他にも決定的に重要な要素がある。
軍事力という名の「暴力装置」および「テクノロジー」である。技術の発達は我々の生活を便利で豊かにしてくれる。
しかし、今や一般家庭で使われる民生品のテクノロジーの多くが「軍事」にも使われる。ふたつは二人三脚、仲良しなのだ。
特に原子テクノロジーは、原子力発電として各家庭に電気を送るいっぽう、究極の兵器「核兵器」を生み出してしまった。
本作は、「核兵器」を巡って米ソ両大国が緊張し対立していた1950年代のお話。
一人のアメリカ人弁護士が、共産主義国家相手に捕虜の交換を成し遂げた実話がベースとなっている。
トム・ハンクス演じる主人公、ジェームズ・ドノバンは、地味な男だ。しかし弁護士としての腕はいい、彼に一件の案件が持ち込まれる。刑事裁判だ。
アメリカ当局が捕まえたソ連のスパイ容疑者を弁護しろというのだ。
ドノバンは躊躇する。
「私の専門をご存知でしょう、保険分野ですよ」
「しかし、君はナチスドイツの戦争犯罪を裁いた、ニュルンベルグ裁判にも参加した経験を持ってるだろ」
なにやら、この裁判、いろんな政治の思惑が動いているらしい。止むを得ずドノバンは弁護を引き受けるハメになる。
ところが後に、アメリカの偵察機がソ連に撃墜されるという事件が起こる。パイロットは捕虜になった。さらには西ドイツにいたアメリカ人学生が、東ドイツ当局に拘束されてしまう。
ここでアメリカ当局は水面下で極秘交渉を開始する。
捕虜の交換である。
当初アメリカとしては国家間の「取り引き」を隠しておきたかった。
国家の最高機密である最新鋭の偵察機を、ソ連上空で飛ばしていたこと。おまけに撃墜されてしまったこと。そんな都合の悪い出来事は秘密にしておきたかったのだ。
「捕虜の交換はあくまで民間レベルで交渉する」
そう決めたアメリカ当局CIAは、ちょうどソ連のスパイを弁護していたドノバンに、交渉役を依頼する。
ドノバンにはある考えがあった。
アメリカはあくまでも偵察機のパイロットと、ソ連スパイ、1対1の取り引きを考えていた。
しかしドノバンは、学生とパイロット対ソ連スパイ、という2対1の交換を実現させようと考えたのだ。
「何を考えてる! 学生など放っておけ! 勝手に東ドイツに捕まっただけだ。パイロットの交換が最優先だ」
CIAはドノバンに圧力をかけてくる。
ドノバンが担当したソ連スパイは、物静かで穏やかな男だ。公園のベンチに座り、趣味で絵を描いている。善良な高齢者にしか見えない。
今、ソ連と東ドイツに拘束されているのは、二人の若者だ。彼らにはこれからの未来がある。
この老いぼれスパイ、ひとりを手放すことで、若い二人の将来を取り戻したい。
ドノバンはほとんど不可能と言える交渉に「民間人」として関わって行く。しかも、自分自身の命さえどうなるかわからないのだ。
指定された交渉場所は、壁の向こう側、東ドイツである。
もう紛れもなく「敵国」なのだ。
その敵国に特別なパスポートを持って入国したドノバン。
彼が乗る列車が夜、東西を隔てる「壁」の付近を通りかかる。
数人の人が壁をよじ登り、西側へ逃げようとするのが見えた。
監視塔からはサーチライトが照らされ、機関銃の乾いた音が響く。
壁の下で息絶える、名も知らぬ人たち。
ドノバン他、列車に乗り合わせた人々は、なすすべもなく、その光景を目に焼き付ける。
本作を鑑賞して、かつての「シンドラーのリスト」のような重厚さを感じる。
偵察機の墜落シーンでのスリル、アクションの緊迫感溢れる映像もいい。
だが、本作はあくまでも敵対する国同士の「交渉」「かけひき」を描く映画でもある。スクリーンに映る絵としては地味になりやすい。ストーリーの流れが停滞する恐れもある。だが、スピルバーグ監督の演出は、実に淀みなく物語が進行してゆく。作家でいえばいわゆる「大家の筆致」をおもわせる。
そのなかで、ソ連側のスパイ、アベルを演じたマーク・ライランスの演技が秀逸だ。
自分はアメリカ社会の中にいかに目立たず紛れ込んできたのか、「存在感を消すこと」に細心の注意を払ってきた、一流のスパイを演じている。役者としては「引き算」の演技力とでも言おうか。感情を表に出さない、何を考えているかわからない、自らは主張せず、もちろんどこからどう見ても人畜無害。非社交的で、パーティーのお呼びもかからなそうな、孤独な人物。
あまりに地味すぎて、映画作品の中で余計に観客の注意を引いてしまう、気になってしまう、そういいう人物像を見事に演じきった。
ただ、本作はヒーローを描いた作品という側面も持つ。
アメリカという国はヒーローが好きなお国柄のようである。宇宙飛行士などは絶大な人気があるらしい。
本作においてスピルバーグ監督はドノバンという、地味な一人の弁護士を描いた。ただ、彼の成し遂げた人道的な行為。それはアメリカ人にとって祭り上げたくなる「ヒーロー」なのである。
地政学に限らず、国際政治を見ると、アメリカという国のあり方、国民性にハッとする時がある。
「自由と正義」というかっこいい旗印。それを大義名分として掲げた時、多民族、移民の集合体、州の集まりであるところの合衆国は一つに団結する。
あの9:11直後の雰囲気がいい例である。
「自由と正義」のためには、国民の命さえ、多少の犠牲と引き換えにしても惜しくないという、ある種のこれは「全体主義国家」なのではないのか? とさえ思わせる。
そういう国家としての「ふるまい」をするのである。その「自由と正義」の旗振り役としてカッコイイ「ヒーロー」が必要であり、常に需要があるのだろう。
スピルバーグ監督が描いたラストシーン、それはかっこいいヒーローでもなく、弁護士でもなく、平凡な家庭を持った一人の父親、そして夫の姿だった。その演出に僕はちょっとホッとした。
スピルバーグ監督は、アメリカという巨大国家の動きだけでなく、一個人の生活、暮らしの目線に寄り添っている。少なくとも、それで作品としてのバランスを取ろうとしている姿勢が見える。
神の目線で地球全体の人間のうごめきを見た時、その地面に、はいつくばって生きている、点のような人間のちっぽけさ。
その小さな命には、紛れもなくそれぞれの人生がある。
弁護士、パイロット、学生、そしてスパイとしての人生。そんな人々たちが今日も地球と呼ばれる、丸い水惑星の上でアメーバーのようにうごめいている。