「後編のおかげで凡作になった」64 ロクヨン 後編 CRAFT BOXさんの映画レビュー(感想・評価)
後編のおかげで凡作になった
前編がそれなりに良い出来だったので後編も期待して見たが、この後編は期待外れで、前後編をトータルで評価すれば凡作となってしまった。
いくつか不満なところがある。
例えば、「64」でキーワードとなるのは、14年前の被害者である雨宮の記憶力と執念だ。本作ではそんな雨宮の執念や記憶力について、観客に納得できるほど説得力を持たせていない。原作は読んでから時間が経ってるのでうる覚えだが、2015年にNHKが制作したドラマ版では、そこに説得力を持たせるために、雨宮の叫び声を何度も何度も挿入する。それは、14年前に雨宮の叫び声を聞いた主人公の三上が、雨宮の叫び声を忘れられずにいたことを表しているわけだが、その演出が、最終的に14年前の犯人の声を聞き忘れなかった雨宮の記憶力に、説得力を持たせる効果があった。しかし、この映画で見た観客は、「14年前で聞いた電話の声なんて覚えてるのか?」と思うだろう。
また、雨宮が電話帳を使ってしらみ潰しに電話をかける執念深さや、目先が勝手にコースを変えて走る件、幸田が雨宮に同情して共謀することになった経緯についても、映画版ではどれも説得力に欠ける。まぁ、ドラマ版が秀逸な作品だっただけに、どうしてもそれと比べてしまうので、ドラマを見てない人には、もう少し好感できたかもしれないが……。
蛇足だったのは、ラストの変更。原作から改変するのはいいとして、「娘がいなくなった親の寂しさや不安」をよく知っている三上の行動があまりにも稚拙だ。さらに、原作では詳しく説明されなかった64事件の解決についても、映画版の冗長な説明で説得力を増したかといえば、そんなこともない。そおそも、時効まであと1年あるという原作の設定は、「仮にすぐに自供に追い込めなくても、犯人は目崎であると確信できた刑事たちによって、残りの1年で解決させることができるだろう」と、読者や視聴者に想像させる効果があったわけで、余計なシーンを追加して、わざわざ冗長にする意味がない。
そして、その余計なシーンがなければ、およそ3時間に収まった映画を、わざわざ前後編にわける必要もなかった。
原作/ドラマ版と比べて、明らかに出来が悪い作品となってしまった。