アイヒマン・ショー 歴史を映した男たちのレビュー・感想・評価
全42件中、1~20件目を表示
【1961年、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンのイスラエルで行われた裁判でホロコーストの真実を伝える世紀の放映を実現させた二人の男の物語。】
ー 私がナチスの映画を時折観るのは、学生時代に読んだ「夜と霧」の影響である。-
■1961年、潜伏先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関モサドに拘束されたナチス戦犯アドルフ・アイヒマンがエルサレムの法廷で裁かれることになる。
このTV放映権を獲得したアメリカの若き敏腕プロデューサー、ミルトン・フルックマン(マーティン・フリーマン)と、監督を任されたユダヤ系のレオ・フルヴィッツ(アンソニー・ラパリア)。
ミルトン・フルックマンは、一流スタッフを揃えて意気込むも、政治や技術の壁、さらにナチス残党の脅迫が待ち受ける。
◆感想
・1961年当時、ドイツにはナチスのSSだった輩の力が厳然としてあった事は、有名である。映画で言えば「アイヒマンを追え!」で描かれている。
今作でも、ミルトン・フルックマンを脅迫し、捕縛されても”ハイル・ヒトラー!”と叫ぶ愚かしき男が描かれる。
・又、世界もガガーリンの月着陸や、キューバ危機に目を奪われ、最初はこの裁判に余り、注目していなかった事も描かれている。
・今作の見所は、ミルトン・フルックマンと、監督を任されたユダヤ系のレオ・フルヴィッツとの裁判の映し方の考え方の相違である。
ミルトン・フルックマンは、証言台に立つ苦しい思い出を吐露する人々の表情や、裁判全体像を映す様に求めるが、レオ・フルヴィッツは証言者たちの言葉を聞くアドルフ・アイヒマンの表情にフォーカスする事に拘る。
彼の思いは良く分かる。自身が冒した行為の否を認めず、”私は、言われた事を行っただけだ。”と抗弁するアドルフ・アイヒマンが多くの証言を聞いて、どのような態度、表情になるのかを世界に知らしめたかったのだろう。
<劇中に映される、当時のユダヤの民の悲惨な姿は、観ていてキツイ。だが、この裁判の状況を世界30国で放映した意義は大きいと思う。
あの映像は事実なのだから。
そして「アイヒマンを追え!」でも描かれたが、ドイツ国内でも機運が変わっていったからである。
アイヒマンが、最後に”提案した・・。”と言った時のミルトン・フルックマンと、監督を任されたユダヤ系のレオ・フルヴィッツの表情は、忘れ難い作品である。>
アイヒマンと同じ地平にいます。
ネタバレしかしてません。
僕のレビューは
鑑賞してから読んで
いただければ
幸いです。
『自分は他者より優秀に作られたと一度でも考えた者は、アイヒマンと同じ地平にいます。そして、一度でも鼻の形や肌の色や信仰する神の違いによって、他者に悪意を抱いた者は理性の喪失が狂気への道と知るべきです。このような事から全てが始まったのです』
反戦とはそう言ったもんじゃないかなぁ?
アイヒマンvsTVマン
人類史上最悪の蛮行、ホロコースト。
そのホロコーストの実態やナチスドイツの大罪を世界に広く知らしめたきっかけ。
1961年に開かれた、元ナチスの親衛隊将校でホロコーストの指揮を執ったアドルフ・アイヒマンの裁判。
この裁判は世界にTV中継され、尽力したTVマンたちがいた…。
実話に基づくストーリー。
題材的にも興味惹かれ、期待していたのだが…、
期待していたものとちょっと違った。
もっとスリリングな裁判劇かと思ったら、世紀のTV中継に奔走するTVマンたちのドラマがメイン。
マーティン・フリーマンらは熱演し、実録映像を挿入した裁判シーンは一部ドキュメンタリーのようでもあるが、メインのドラマ部分はいささか単調で盛り上がりに欠ける。それに、何だかTVドラマ的な作りも気になって…。
実録映像の中にはホロコーストの映像も。
おびただしいユダヤ人の死体、ゴミのように処理される。
余りの酷さに言葉を失うTVマンたち。
その時、アイヒマンは…。
微動だにせず、その映像を見ている。
何を思っているのか…? 自分のした事に誇りを感じているのか、表情には出さないが後悔しているのか…?
アイヒマンが遺した言葉。人一人の死は悲劇だが、万単位は統計上の数字に過ぎない。
どうしたらこんな事が出来る…?
本当に人なのか…?
いや、人だから出来るのか…?
本物の映像ってのが価値あり
まずは裁判所内での撮影が許可されるかどうかという困難に直面する面々。裁判所の壁を改築してテレビカメラ用のスペースを作るという作業。この最初の部分が緊迫感を醸し出す。さらにはソ連のガガーリン、キューバ危機など世界の関心がそちらに向けられるのではないかという懸念もあった。
撮影監督であるレオ・ホロヴィッツ(ラパリア)は調整室でカメラマンに常に指示を与える。「アイヒマンを撮れ!」と。収容所の悲惨な真実の証言を聞いても動じない、ふてぶてしい態度をとるアイヒマン。罪を認めるかどうかという焦点に釘付けになっているプロデューサー・ミルトン(フリーマン)やテレビクルーたち。実際に強制労働をさせられていた1人のカメラマンが気分が悪いと交替させられたり、証人自身が公判中に倒れたり、ホロコーストの悲惨な状況を物語っている。
テレビドキュメンタリーを撮る模様を映し出す映画なんてのも珍しいが、ホロコーストの悲劇の実際の映像をアイヒマンに見せたりするシーンが印象的。本物の映像はやはり違う。『ヒトラー最後の代理人』に登場したルドルフ・F・ヘスの名前も挙げられていた。
映画としてのドラマ性が非常に薄い
第二次世界大戦時、ナチス政権下にて数百万人のユダヤ人殺害に関与したとされるアドルフ・アイヒマンのイスラエルで行われた裁判をTV放送しようとする物語。
アドルフ・アイヒマンをよく知らない人が初めて興味を持ち、この裁判を知らないのであれば興味本位で観られるでしょうが、ある程度知識ある私には「何を伝えたかったの?」映画でした。
テレビマン達の実話と言う題材があるらしいが、これといって膨らみが無く、当時の裁判映像を流すのがメインな映画。
後半になれば、戦争を体験しイスラエルへ流れてきたユダヤ人の人々が裁判の外で口は開くようにはなるが、時既に遅し。
これであればNHKなどの国営放送・アイヒマン特集やナチス関連の戦争ドキュメンタリー作品を観ていた方がまだマシレベルである。
ただただ「こういう裁判が有りました」作品。
アイヒマンだって裁判ではあまり語らず死刑になった人物だ。
映画としてはどうかね?レベル。
wikiやtubeにて検索してた方がまだ面白い。
怒りがこみ上げて非常に残念です。
彼らの求めた勝利とは
イスラエルでのアドルフ・アイヒマン裁判の生放送をめぐる、もうひとつの人間ドラマ。あくまで外側の視点から、かつてのナチ親衛隊将校の人間性を炙り出し、客観的に捉えようという試みは、色々考えさせられ面白かった。
優れたドキュメンタリーを撮る腕をかわれ、雇われた映画監督フルビッツ。彼は「人間は誰でもモンスターになりうる」という信念のもと、カメラには執拗にアイヒマンを追うよう指示する。
彼の表情に人間性が垣間見られれば、人は置かれた状況によって平然と残虐なことができるようになってしまうことを、証明できるからだ。
イスラエル人のテレビスタッフは、「絶対に私たちは彼のようにはならない」といい、アイヒマンは「モンスター」のままでいいと思っている。そうでなければ、自分達が受けた仕打ちに納得ができないから。
結局はこの意見の平行線は決着を見ることはないが、観るものに疑問を突き付ける。
私はもちろん、ユダヤ人であろうと何人であろうと、人間というものは置かれた立場によって、国という曖昧模糊とした存在に責任転嫁をし、残虐な行為をしてしまう生き物だと思う。
何千年も国家を持たなかったユダヤ人が、何千年も前の神との契約を持ち出し、住んだこともない土地からアラブ人を追い出して壁を作っている。
そのことを突きつけても、目を塞ぎ耳を塞ぎ、平然としているではないか。
勿論、この生放送によって、それまで公には知られていなかったホロコーストが全世界に露呈したことは、ユダヤ人にとって一定の勝利であると思うし、世界中が知るべきだったと思う。
ただ、人間性の考察においてフルビッツの持論はもっともだし、見たことも住んだこともないイスラエルを何故「故郷」と思えるのか?という素朴な疑問を抱くことにも共感できる。
生存者の悲惨な体験を突きつけられても平然としていたアイヒマン。
だが、責任を真っ向から突きつけられ顔を歪めたとき、ナチの親衛隊は、ただの矮小な男になった。
フルビッツの努力は報われた。それは映画監督としての個人的な勝利にのみならず、戦争と大義名分がいかに人を尊大にするかを証明した勝利でもあったと思う。
戦争裁判のテレビ放送に奔走するテレビマン
ナチスドイツにおいてヒトラーの次に有名な人物であろうアイヒマン
ナチスが迫害したユダヤ人、その祖国であるイスラエルで公開裁判にかけられたアイヒマンをテレビ放送した男達のドキュメンタリー
ふんだんに使用される当時の記録映像に誰しもが目を背けたくなるであろう
まだまだ自分達の世代はこうした歴史に対する見識が浅い
いま生きているこの世界が、どんな犠牲の上に成り立っているのか、こうした映像で勉強していくことも必要だと感じた
報道カメラ陣の心理描写>アイヒマンの人間性
元ナチス親衛隊でアウシュビッツなどの主要な収容所、ないしはユダヤ人虐殺の指揮官としての罪を問われ、アドルフ・アイヒマンの公開裁判が行われた。
彼の裁判は、統治者ヒトラーやそれに関わるナチス党員達の自殺などもあり、より世間から注目を集めていたのではないかと思う。
「一体この男は何者なのだ?」「こんな残虐な事を平気でこなせる者の心理とは一体?」
そんな疑問は当時多くの人々が想像した事と思う。
しかしそれを知るにはアイヒマンは余りにも例外的で、その在り方や人間性には誰もがショックを受けた。
それはこの裁判を捉えた番組製作者たちも同様だったのであろう。
アドルフ・アイヒマンの人間性をより忠実、正確に理解したければ、私は「ハンナ・アーレント」という作品の方に群杯が上がる。
しかしどの作品で使われる「生きた」アドルフ・アイヒマンの映像も、この映画で出てくる彼らの仕事により実現した、という点において、この映画の価値は見直される。
最も印象に残ったのは、戦争が終焉を迎えても未だ、迫害されたユダヤ人達はホロコーストの影に怯え、またその他の理由もあって「語ること」を自ら封じていた点が大きかったという描写である。
それがどんなに差別的偏見による異端な考えの犠牲によるものだったとしても、彼らは自分の体験を語り、自分の命を許し、ユダヤ人として生きていくことを当時躊躇い、恐怖の幻影に怯えながら生活していたのではないかと思う。
結果的にホロコーストの中でもアイヒマンは特殊な人物であったが、「敵なき裁判」を知る上でこの作品も私には有用であった。
TVショーを作った方の話
ホテルのマダムがいう
because of you あなたのおかげ
が響く
アイヒマンの人間らしさをカメラにおさめられないジレンマ
誰もがファシストになる事を証明したいのに。
裁判の放送1961年4月が奇しくも
ガガーリンの世界初の有人宇宙飛行、第1次キューバ危機であるピッグス湾事件とかぶってしまう。
新聞を見た記憶がある
1961年、イスラエルのモサドがアルゼンチンまで追いかけ、捕まえたナチス親衛隊の大物、アドルフ・アイスマンの裁判劇をドキュメンタリーを交えながら描いていく。
かなりの記録映像が挿入され、それなりの覚悟をもって見る必要がある。
人類がここまで残酷になれるのを見せつけられ、絶望感が押し寄せる。
真面目な映画。知っておきたいこと
真面目な映画。
眠くなった瞬間もあったけど、全体にコンパクトでストレートで、俺は好きだね。
終戦後当初はホロコーストの生き残りは、言うことを信じてもらえず、裏切者扱いを受けることもあったということは知らなかった。そして、ナチズム、差別主義は、誰にでも起こりうると警鐘を鳴らしたことは、知っておきたいことだ。本当に。
今年はナチス映画をたくさん見た。
サウルの息子とこれ
ヒトラー暗殺、13分の誤算
ふたつの名前を持つ少年
ミケランジェロプロジェクト
黄金のアギーレ
戦争映画(革命含む)では、野火、ルックオブサイレンス、アクトオブキリング、日本の一番長い日、独裁者と孫、不屈の男 も見た。
極限状況の疑似体験、突発的事変から放り込まれる苛酷環境からの脱出や覚醒、戦争という一大変曲点は、ドラマを生み出しやすいんだね。
無関心•••4•好
並••3••凄 真剣 歴史
無••3••涙/無•••4•固ゆで
無••••5社会派/大衆••3••狂信
満喫/紹介
俺の満足度 80点
作品賞可能性 80%
ストーリー的にはあんまり面白くないなぁ。テレビ制作者が奔走するだけ...
ストーリー的にはあんまり面白くないなぁ。テレビ制作者が奔走するだけって感じ。でもドキュメンタリーとしては一見価値ありです。人間の残虐性は隣り合わせで、いつでも陥ってしまう狂気だということはよくわかる。ホロコースト、まだ勉強不足ですが、少し前の歴史に刻まれた悪行です。
ノンフィクションとして
先ず、少しグロテスクなシーンがある。また、証人の証言もリアルなものを使っているためやはりリアリティが出る。そしてアイヒマンに対する憎悪とともに、ユダヤ人虐殺という事件が如何に事務的に行われたかを知ることもできると思う。誰もがアイヒマンになりうる。これは本当に言えてるのかもしれない。
また、製作者目線の状況や心境も描かれていてそこは見ていてとても興味深いと感じる。裁判所の改修や、判事に許可を取るまでの経緯、製作者に起こる身の危険これらはとてもリアルにそしてエンターテイメント的に描かれている。
1つの教養として見ていた方がいい映画だといえる。
人間は、ここまで残酷になれる
進行は淡々としていましたが、実際の映像を交えての世紀の裁判は見応えがありました。
アイヒマンの人間性を映すことに固執する監督と、これをショーとしても成功させる責任を負ったプロデューサーとの、葛藤と信頼の狭間でジリジリとさせられます。
当時、社会の知識のなさが長年生存者達の口をつぐませてきた、そのことに呆然としました。
でも誰だって目を背けたくなるだろうと思う、人間がここまで残酷になれることに。
アウシュビッツの記録映像をスクリーンで見る衝撃はかなりのものでした。
To Learn
誰もがアイヒマンになりうる、そしてどうしてアイヒマンになったのかを探りたい。アイヒマンを通して人間というものを問いたい、主人公の監督側のこの視点は興味深い。ただ、この目線からは最後に至るまで明快な解を得た形にはなっていない。実際、そうだったのだろう。だからこそ、変に抑揚をつけず、こちらとしては中途半端にしか思えない幕切れで終わらしたのかも知れない。ドラマ性よりドキュメンタリー性に重きを置いたんだろう。取っ手をつけたような、最後のメッセージは先の問いかけに対する回答にもなるが、道中、あまり深掘りしているようにも思えない。
実際の裁判映像を多用して、話を進めたのは面白い点ではあり、又、イスラエル建国という大きな矛盾を孕む事象とこの裁判がまともな裁判になりえるのかという点にも焦点を当てたのも、重要な示唆を富む。しかし、この映画は先のナチの犯罪同様、論点は与えるが解釈の掘り下げには積極的ではない。後は自分で調べ、それぞれで解釈して欲しいと言っているように思える。これがこの映画の方針なんだろう。
まぁ、史実として
いまひとつ作品の意味がわからなかった。
アイヒマン裁判が、一つの政治ショーであったことは誰もが知っている。だとしたら、この映画は、そのショーに参加した一人一人を丁寧に描こうとした「ドキュメンタリー」なのだろうか。
そして、内容もドキュメンタリー番組やスペシャル番組の域を超えていないように思える。
腐食した理性がどのようなものか、繰り返し見ることによって学ぶことは多いが、映画作品としての新規さには欠ける。ややデジャブ感が・・・。
全42件中、1~20件目を表示