劇場公開日 2017年2月24日

「さよなら、さよならハリウッド」ラ・ラ・ランド 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5さよなら、さよならハリウッド

2022年11月20日
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もう全部、分かりきってるじゃないですか。

冒頭6分にもわたる息継ぎなしのロングショット、茶目っ気あるアイリスアウト、『カサブランカ』、『理由なき反抗』、しつこいくらいデカい"THE END"の文字、そして陳腐なサクセスストーリー。すべてはハリウッドというトポスに蓄積した栄華の遺骸だ。

かつて『雨に唄えば』はサイレントとトーキーの相剋をテクニカラーのギラギラした色彩の中で高らかに歌い上げた。そこへは無声から有声へ、さらに無色から有色へと飛躍的に進歩を遂げる映画芸術と、それらを次から次へと世に送り出す「夢の工場」ハリウッドへの絶大な信頼と期待があった。それは赤狩り事件やベトナム戦争を経ていくぶんか色褪せかけたこともあったけれど、90年代を迎える頃には元のように夢と希望の溢れるハリウッド映画が蘇り、全世界の劇場を笑いと興奮と感動でいっぱいにした。

しかしそんなものは所詮くだらないまやかしにすぎない、と正面切ってハリウッドに唾を吐きつけたのがアメリカ映画の異端児ロバート・アルトマンだ。彼の『ザ・プレイヤー』にはハリウッドという空間そのものへの辛辣な呪詛が込められていた。オーソン・ウェルズ『黒い罠』やヒッチコック『ロープ』を明らかな参照項とした冒頭の長回しシーンは、そうした無害で再利用可能な撮影技法や物語に終始することで目先のカネや名声を得ようとするハリウッドの浅ましさに対する自己言及的な非難だ。ハリウッドなどというものはもうとっくに死んでいて、今じゃ資本主義に汚染された巨大なガラクタをコピー&ペーストで増産する虚無空間に成り果てているのだとアルトマンは苦笑する。

さて、ようやく『ラ・ラ・ランド』。本作もまた『ザ・プレイヤー』同様、6分にもわたる冗長な長回しで幕を開ける。この時点で本作は自分自身がハリウッド映画であると、すなわち既に息絶えた文芸であるという自覚を備えている。そもそもミュージカルという語りの手法からして懐古趣味もいいところだし、セブのジャズ趣味や数々の名作古典映画のくだりも、本作が既に亡きハリウッドへの郷愁と憧憬に彩られていることを示している。思えばマジックアワーの空と海を背景にセブとミアがタップダンスを舞う一連のシーンもやけに背景とのCG合成が杜撰だったが、あれもひょっとするとCG黎明期(それこそヒッチコックの時代)の映画に捧げたささやかなオマージュだったのかもしれない。

こうして懐古モードに浸りながら、物語もまた古き良きハリウッド映画の顰に倣って陳腐なサクセスストーリーへと突き進んでいく。セブもミアも、長きにわたる苦節を経て(しかし具体的な経緯は描かれない)、最終的には自分たちの夢を叶える。セブはジャズバーの経営者に、ミアはハリウッドスターに。

しかしロバート・アルトマンが20年も前に指摘したように、また今では誰もが気づいているように、そういうハリウッドのモードは完全に死んでしまった。フランク・キャプラのバカみたいな喜劇映画みたいに、キス一つで誰もがハッピーエンドを迎えるなんてことはもうできない。何かを手に入れるなら、その代わりに何かを手放す必要がある。こんなのは誰でもわかる簡単な法則だ。あるいは狂騒のハリウッドだけが忘れていた法則。

だから本作は愛を捨てた。陳腐なサクセスストーリーの代償としてセブとミアの愛を差し出させたのだ。

ジャズバーで偶然再会したセブとミアが空想するifの世界線は、そのままハリウッドへの追悼と見做すことができる。美しかったハリウッド。かつてハンフリー・ボガートが紫煙をくゆらせ、ジェームズ・ディーンが感傷的な涙を浮かべたあのハリウッド。それらはハリボテめいた幻燈の中に浮かび上がり、やがて消えていく。

全てが消え去ったあとで画面上に現れる"THE END"の文字はことさら悲痛さを帯びている。こんなふうにしてどれだけ忠実にあの日のハリウッドをなぞったところで、本当に大切なものは、もう既に失われてしまっているのだ。どうしようもない。

本作をもってハリウッド映画は完全に死んだと言っていいかもしれない(いったい何度死ぬんだか…)。しかし今なおハリウッドは「夢の工場」を自称してビッグバジェットのド派手な映画を次から次へと量産し続けている。これがホンモノの映画だ!と言わんばかりの勢いと声量で。

だけど、もう、全部、分かりきってるじゃないですか。

因果