「カタルシスの爆発」ラ・ラ・ランド バッドマンさんの映画レビュー(感想・評価)
カタルシスの爆発
冒頭から「Another Day of Sun」が流れ「これが映画なんだ!!」と言わんばかりの圧倒的なミュージカルが展開され、観客を映画という名の魔法の世界に魅了する。このワンカットの長回しのシーンだけでも「ああ、お金を払ってでも映画館で観られて良かった」と感じた。まず、様々な色(ここでは個性)を持ったスターの卵の大勢が目的地(夢)に向かうために渋滞を繰り広げる。役中のエマ・ストーンやライアン・ゴズリングもそのうちの二人だ。彼らは運命的な出逢いから恋に落ち、それぞれの夢を追い求め、お互いに切磋琢磨していく。そんな彼らの姿は理想的であり、時折ロマンチックにも映る。しかし、ある出来事を境目に二人の未来は良くも悪くも大きく左右する。そして、その行く末に怒涛のラストを迎え入れるわけだが、ここで初めて今までのモヤモヤが清々しいまでに晴れる。つまり、明るくポップなミュージカル(非現実)によって影を潜めていた。また、知らず知らずの内に蓄積されていたわだかまりが解消され、ラストのシーンで一気に観客はカタルシスを味わうことになるのだ。二人には夢を捨てるか恋愛を捨てるかという取捨選択ではなく、両方を同時に手に入れることができた。付け加えると、彼らの選んだ過ちは全て"避けて通れた"ものであり、あのパラレルシーン(ララランド)を現実に引き起こすことも不可能ではなかったのだ。それ故に切ない。とても切ない。最後のシーンで見せる二人の微笑む姿が唯一の救いだろう。そしてあの笑顔に目が覚める。掛かっていた魔法が解けたかのように現実に引き戻される。
誰の心の中にでも存在するララランド。それを理想的かつ現実的で、最善の形で幕を下ろしたこの作品そのものがまさにララランドであり、そのタイトルにもやはり頷ける。
(ミュージカルの演出形態が現実と非現実の共演であるのを今作においても現実と非現実の共演をミュージカルという演出形態をもってして実現させている)
※ララランドにはロサンゼルスの他にもおとぎ話的な意味も含む。
バンドのライブ中にある歌詞もセバスチャンからミアに向けられたものである。
春夏秋冬のタイミングにしても秋(fall)をあそこにもってくるあたりも明らかな意図がある。
冒頭では渋滞の列に並んでいたミアがラストでは渋滞を逃れるシーンひとつをとっても彼女がスターになってしまったことを暗示している。
画で魅せられる力をもつのが映画なのであって台詞だけならわざわざ映画である必要はない。
観客は受動的でなく能動的になって初めて良質な映画の本質を捉えることができる。
どこにでもあるようなメロドラマを第一にやりたいのではなくて、この映画では「カタルシスの爆発」をやっているんです。
いい映画観たな。という感じ。