キャロルのレビュー・感想・評価
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2人の女優の美しさと50年代のサウンドを堪能する1本
ここで終わっちゃうの!?
パトリシア・ハイスミス原作ならば、、
昨年の春に観た「The Two Faces of January(ギリシャに消えた嘘」のほうが3倍ぐらい面白かったな。。。個人的には。
もちろん、とても美しい映画でした。1950年代のNY、ストーリー展開、音楽、そしてキャロルとテレーズ。Cate Blanchettはこういう高貴な役が本当に似合う。クラシカルなファッションも素敵でした。
美しい恋愛。これからどうなるんですか?
ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが観れるだけで幸せですが、わざわざスーパー16で撮っているそうで、ミッドセンチュリーのファッションや風景の再現が念入りで不思議な世界になってます。ストーリーの要はケイト・ブランシェットの静かな口調で語られる『わがまま』さだと思います。結婚して子どももいるのに女が好きとは、なかなかふてぶてしいオバサンですよ。そこでルーニー・マーラもなんとなく惹き付けられちゃって、最後には純愛に目覚めた?ということのようですが、現実と理想に常に悩まされる場面の連続の結末は、二人の愛以外ないような感じでした。これがケイト・ブランシェットだから上品に、エレガントに、ファッショナブルに表現されてしまうところが映画なんですよね~( ̄▽ ̄;)ちょっと原作見てみたい気になってます。
ルーニー・マーラに目が釘付け
ケイト・ブランシェットがアカデミー主演女優賞、ルーニー・マーラが助演女優賞にノミネートされており、世代やタイプが違うけど、どっちが良いと言えないくらい二人とも良かった。が、引き込まれるのはキョトンとした顔の女学生然としたルーニー・マーラだったな。彼女の顔立ちの方が日本人好みである可能性はあるが。助演になっているけど登場時間は彼女の方が長いらしい。
道ならぬ恋を描いた映画は珍しくもなんともないし、同性愛をハードルとして設定するには今のご時世では少し弱いくらいだが、舞台が1952年ということを考えるとセンセーショナルではある。その当時を描いた画面も、美しさと豊かさに爽快感すらあった。ラストも良かったな~。英語も妙に聞き取りやすい、見やすい映画だった。
高評価。 満席。 がしかし、私は言葉少ないストーリーをうまく理解出...
「キャロル」に込められた真実
1950年代。今よりもまして、LGBTの人たちへの風当たりは強かった。それは罪であり、精神疾患として病人扱いもされた。少し前の「チョコレート・ドーナッツ」の中でさえ、経済的にも社会的にも問題がない人間が、ゲイであるというだけで、司法での立場は弱かった。50年代ならなおさらだろうと思う。
旦那から見れば、キャロルはなんて身勝手な女なんだと思うのだろう。だけど、一度、キャロル本人の感情に寄り添うテレーズの気持ちになりかわってしまうと、途端にその燃えるような恋心に捕らわれてしまう。
テレーズ・べリベットというその名前。勝手ながら、そこから連想する名前、言葉は、聖女テレサと柔らかな手触りのベルベット。キャロルからすれば、テレーズはまさにそんな女性に見えたのじゃないかな。
キャロルは、天使のようなテレーズを愛した。例えばベッドシーンの前後で、キャロルの指輪を目立つようにカメラが抜くのだが、指輪をはめているショットと外しているショットで、キャロルの心情を上手く伝えてくれる演出もみごと。
とにかく、映像も美術も音楽も台詞も主演の二人も美しい。
そしてラスト。ハッピーでもなく悲劇でもなく、つづいていくことを暗示させる場面が、僕の心をざわざわと波立たせてくる。
だからたぶん僕は、この映画を忘れてしまったとしても、しばらくたってどこかでこのノスタルジックな劇中曲をもし耳にしたら、記憶がよみがえったせつなに、昔の恋を思い出した時のように頬を涙が伝うかも知れない。
この映画の原作を書いたのは、「太陽がいっぱい」などで有名なパトリシア・ハイスミス。当時、同性愛が罪であった時代に、名前を隠して書いたものらしい。
この小説の背景でなにより衝撃なのは、この物語のほとんどの部分が、パトリシア自身の体験した事実であったということ。一晩で書き上げたという。つまり、テレーズは、パトリシア本人。彼女の若かりし日の画像をみると、これがまた綺麗な方なのだ。
それを知ると、「キャロル」というタイトルに込められた思いが、かつての恋人への恋文のように思えてきてたまらなくなった。
「なんて美しいの」
眼福。スクリーンに映るすべてが美しい。16mmフィルムでの撮影(粒子が粗く画面が淡い)により50年代の風合いが再現されている。もちろん衣装や小道具も細部まで気が配られていることと思う。プロの仕事はこうありたい。本作は「昔っぽい」が故に古びることのない永遠の命を得たな
ファーストカットは地下鉄の通気口のアップでそこからパンしていく。のっけからただならぬものを感じさせられるけど俺はここで『ゾンビ』のファーストカットを思い出した。壁のアップからパンしていくあの。どちらも「今から始まるのは芸術映画なんだよ」という宣言なんだろうか?
スクリーンに映るすべてが美しいって書いたけど1番はルーニー・マーラのおっぱい。ケイト・ブランシェットはあくまで台詞として「なんて美しいの」と漏らすがそれは奇しくも俺の率直な感想と同じものだった…
社会的正しさに従うだけでは自分の存在意義が無くなるというメッセージも素晴らしいな。ラストの彼女達の選択にネルソン・マンデラの「私が我が運命の支配者。私が我が魂の指揮官なのだ」を思い出した。ほんでまたラストは素晴らしい余韻が残るんだなあこれが
俺もルーニー・マーラのおっぱい揉みたいなあ
違和感
皆さん、絶賛のこの作品。
だが、僕には違和感が残った。
なぜか?
ケイト・ブランシェット演じるところのキャロルがあまりに一方的だからだ。ルーニー・マーラーには違和感は感じられなかったのだが。
①夫の描き方がむごい。そうだと思わない?
クリスマスの時はいつもひとり、夫は仕事ばかりだった。
そういうことが重なり、許せなくなったのだろう。
しかし、夫は自分なりに反省し、妻に会いにいった。
でも、愛がなくなったキャロルにはついていく選択はなかった。
夫がいかにも悪人もしくは敵役として一方的だと思った。
②こどもは聖域においた描き方。
キャロルはこどもに大しては手放しに愛している。
それじゃあ、こどもとテレーズだったら、どっちをとる?
究極的にはその選択を求められるはずだ。
③セレブにして身勝手な人、キャロル
豪華な毛皮のコート、見もしないで買ってしまうクリスマスプレゼント、テレーズへの贈り物は高価なカメラ。
そして夫と別れたあとはバイヤーになって、高給取り?
あまりにも恵まれていないか。50年代にはこんな階級社会があったのだろうか。
と、まあ、文句をつけすぎたかもしれない。
でも、ケイト・ブランシェットにはあっている役だろう。
テレーズ演じるルーニー・マーラーはあくまで受け身の立場で、翻弄されてしまう役をうまくピュアに演じたと思う。
この映画の10年後はどうなっているだろうと想像する。
ふたりは幸せに暮らしているだろうか。
話二の次の映像美
恋愛映画だったんだ…
男前
ひとつの芸術作品だと思う
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