劇場公開日 2023年12月23日

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「100年前に描かれた古式ゆかしいBL! 同性愛に厳しい時代性からすれば先駆的な作例か。」ミカエル じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0100年前に描かれた古式ゆかしいBL! 同性愛に厳しい時代性からすれば先駆的な作例か。

2023年12月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ああこれ、老人と若者のBLなんだね。
今市子が描くみたいな(笑)。
100年前からあったんだなあ。

オールタイムベスト級の大傑作『裁かるるジャンヌ』や『怒りの日』を撮った、デンマークの巨匠カール・テオドア・ドライヤーの中期のサイレント映画。
数年前のシネマヴェーラでのホラー特集や前回のイメージフォーラムでの特集で、後期の5作品は既に観ていたのだが、前にヴェーラで『ミカエル』と『あるじ』の上映があったときは、仕事の繁忙期にあたって観逃してしまった。
なので、今回はちゃんと再上映の封切りに併せて足を運んだ次第。
(今回『ミカエル』は「劇場での正式公開は初」ってあるけど、あのシネマヴェーラでの上映は正式上映じゃなかったんだw ヴェーラって非合法組織か何かなのだろうか??)

このあと感想を書く『あるじ』のほうは滅法面白かったが、こちらは正直、退屈だった。
ドライヤーとしては、耽美的な作風を極めた作品として位置づけられているようだが、さすがにこれでは冗長に過ぎるし、冗長を支えるほどの題材の面白さもなければ、出演陣の魅力もそこまでではない。撮影の美しさだったり画格の高さだったりはあるかもしれないけど……。

そもそも予備知識ゼロで観に行ったので、当初これが同性愛的な行き違いの物語だとすら気づいておらず、あまりにもどうでもいい話すぎて、「いったい俺は何を観させられているんだろう」と中盤まで途方に暮れていた感じだった。
老画家と養子の若者の静かな生活に、貧困にあえぐ侯爵夫人が絡んでくるのだが、お話が陳腐で面白くもなんともない上に、筋の展開が追いづらく、ちっとも頭に入ってこない。侯爵夫人は梅津栄みたいな顔をしたブサイクだし、美青年扱いのミカエルもただの白塗りの若者で、老画家を魅了するような魅力はひとかけらも感じられない。
あと、メインのストーリーと並行して、ミカエルの友人の男爵とアリスという人妻(旦那は江戸家猫八似の老人)の浮気話が展開されるのだが、イマイチ若い男女4人の見た目の区別がついていなくて、イチャコラしてるのが、だんだんどっちがどっちだったかよくわからなくなってきまして……(笑)。

あと、付けてある劇伴の音楽がとにかくひどすぎる。
サイレント映画の場合、あとから勝手に付けてあるので、決して監督や作品のせいではないのだが、ストーリーとあまり関係のないピアノとクラリネットもしくはピアノとチェロの演奏が、のべつまくなしリフレインされているだけで、飽きて来るわ、うるさいわ、空気が読めてないわで、本当にうんざりする。
せめて『白鳥の湖』を観劇するところでは『白鳥の湖』(のアレンジ)を流すとか、ピアノを弾いているシーンではピアノを弾いている音を流すとかしても、たいして罰は当たらないのではないだろうか。
俺、サイレントが廃れたのって、台詞をいうかいわないかより、映画の場面場面に合った音楽を流すという至極当然で極めて重要なことが、ないがしろにされてたからじゃないかなって思うよ。

まあ、大画家クロード・ゾレ(名前はクロード・モネとエミール・ゾラを混ぜたみたいだが、元ネタはオーギュスト・ロダンらしい)を演じる当時の名監督ベンジャミン・クリステンセンの「顔演技」はすげえ面白かったんだけどね。
どちらかというと本郷功次郎とか村井國夫とかに似た傾向の顔立ちなのだが、とにかく眼力(めぢから)が凄くて笑う。突然アップになって目を剥いたり回したりするので、ちょっとドラキュラ伯爵のようなゴチック・ホラー味があるんですよ。
で、お付きのジャーナリストのシャルル・スウィットはフランケンシュタインみたいな頭の形をしているし、白い顎鬚を延ばした墓守みたいな家令とか、イゴールみたいな体型の画商(本作のカメラマンでもある)とかも出てくるしで、きわめてシリアスで辛気臭い文芸作のわりに、ドイツ観念主義ホラーやユニバーサルのお屋敷ホラーの香りがプンプンするのがじつに面白い。
のちに『裁かるるジャンヌ』や『怒りの日』でも濃厚なホラー的演出を導入し、『吸血鬼』では本物のホラー映画に挑戦してしまったドライヤー監督の、気質と好みがつい出てしまっているということか。
ときどき強調される象徴主義的で観念的なライティング(衝撃を受けたときのゾレの顔に横から当たる光とか、死の床にあるゾレの背後を埋め尽くす壁と、そこに延びる長く禍々しい影など)や、画面の周辺で溶解するようにピントをぼかしてゆく手法なども、ホラー的な雰囲気を助長させているといえる。

あと、お屋敷ホラー感がする土台として、舞台立てとなる美術と背景の影響も大きい。
17世紀~18世紀の「画廊画」を思わせるような、壮大な屋敷内のセットが、とにかく素晴らしい。
なかには無数の神話画や、ローマ彫刻とおぼしき巨大な彫像が立ち並んでいて、壮観。
天井が高すぎて生活感が皆無だが、実際に当時の貴族や大富豪はこういう教会みたいなお屋敷に住んでたんだろうね。

画家が主人公だけあって、美術史的な観点からもあちこち気になる部分がある。
●裸のミカエルをモデルに描いたらしい『勝利者』という絵に、たとえばカラヴァッジョの描く青年に観られるような「艶めかしさ」が付与されている。
●冒頭近くで、骸骨の描かれたプレートを回して客の感想(死について想うこと)を順番に訊いていくシーンがあって、これはまさに「メメント・モリ」(「死を想え」という長くヨーロッパで重視されてきた標語)の実践である。
●画家がカエサルとブルータスの絵を描こうとしているとミカエルに告げ、「さてブルータスのモデルはどうするかな」と投げかけるシーンでは、若者を拘束する権力者の老画家と自由を希求する囲われ者の青年の闘争が「画題」と二重写しになっている。
●男爵とアリスがパーティの席上で惹かれ合う描写で、ゾレの回してきた女性の裸体のトルソーをふたりで握り合うシーンがあって、やはり当時は「芸術作品」のエクスキューズのもと創作された「裸体」が、男女の性的興奮をアップさせ掻き立てるよすがとして「利用」されていたんだな、とあらためて感じ取れた。
●「目がうまく描けるかどうか」が重要な作品のファクターとなっているのは、「画竜点睛」の故事や、さいとう・たかをの『ゴルゴ13』の「仕上げ」の話を想起させて興味深い。本作の場合は、「女性の目を魂をこめて描けるか」が、そのままヘテロセクシャル/ホモセクシャルのリトマス試験のように扱われているんだな。
●ゾレの最後の作品となる、旧約聖書のヨブを描いた絵画の「空」の部分(「ヨブの大気」と字幕には出ていたけど)に、アルジェリアで描いたスケッチを援用するというくだりには、当時のアカデミズムにおけるアトリエ主義の創作スタイルが反映されている。当時のアカデミズム絵画においては、スケッチはあくまで材料に過ぎず、習作を重ねて大作の神話画や宗教画に仕上げるのが一般的だった。

最後の画題がヨブ、というのもなかなかに意味深長だ。
ヨブは旧約聖書において、信心深かったにもかかわらず、神とサタンの賭けの対象として理不尽な試練に何度もさらされ、子供たちを皆殺しにされたり、ひどい皮膚病を罹患させられたり、街外れの糞の山の上でホームレス生活を余儀なくされたりと散々な目に遇う。それでも信仰を捨てませんでしたっていう、いかにも旧約らしい酷い話なのだが(神が信者の信仰を試すとか本当にろくでもない)、画題としては「忍耐」と「改悛」を表わすキャラクターであるといえる。
荒野で裸で空を見上げるその姿は、一見すると聖アントニウスや聖ヒエロニムスの図像のようにも見えるが、これは天にまします神に向かって「WHY?? 俺が何したっていうんです??」と、心の叫びをぶつけているヨブの姿なのだ。
すなわち、ゾレは「善人であるにもかかわらず、酷い試練に何度もさらされている老人」に、自らの境遇を投影して描いているわけだ。
トリプティク(三連幅)の左右翼部には裸の男女が描かれているのが見て取れるが、一瞬のことゆえ何が画題かはわからなかった。もしかすると「ヨブ記」に出てくる何かのエピソードかもしれないし、ヨブの物語と関連する別の神話画が引用されているのかもしれないが、なんにせよ、裸の老人を挟んで左右で手を伸ばし合う若い男女は、間違いなくミカエルと侯爵夫人を模している。
すなわち、若い男女のカップルにお邪魔虫扱いされながら、身ぐるみを剥がれる勢いで金や高級食器や絵画を二人に巻き上げられている自分の境遇を、そのまま「最後の大作」に投影しているわけだ。でもそのお披露目会にミカエルは姿を見せないと……。

本作の同性愛映画としての枠組みは、意外なほど現代的で生々しい。
当時の映画だから、いちゃいちゃするシーンや服を脱ぐシーンなどは一切ないし、愛情を語るシーンすらない。それでも画家ゾレが養子ミカエルに対して同性愛的な感情を抱いているのははっきり感じ取れるし、裸体の神話画のモデルになっているということは、どこかで裸に剥いて、それを描いているだろうことも暗示されている。
ヴィスコンティのそれに似て、ここで描かれる同性愛もまた、性欲や性癖というよりは、「若さを喪いつつある老齢の男が、溢れかえる若者の生のエネルギーを希求してやまない」といった形での「若さへの渇望」が大きいように見える。
ゾレがミカエルを無条件で愛しているのに対して、ミカエルはおそらくヘテロであり、自分をパトロンの立場から束縛するゾレに対して複雑な感情を抱いている。たしかにアルジェリアで出会ったときは燃え上がったが、そもそも男にそこまで興味がないし、金で飼われつづけていることはプライドが許さない。庇護者としてこれまで尊敬してきたのもたしかだが、いまや疎ましい感情のほうが強く、侯爵夫人とねんごろになってからは、むしろ「金づる」「騙しとる相手」として、ゾレとの想い出の作品を次々市場に送り出すようになる。
ゾレは、そんなミカエルの反逆を、単なる裏切りとしてではなく、「報復」としてきちんと認識しており、だからこそミカエルの所業を許しつづける。
先ほど「生々しい」と書いたのは、ミカエルに嫉妬し敵愾心を抱くシャルル・スウィットが、いかにもみっともない眼鏡をかけた不細工中年だからで、ゾレのほうもシャルルが同性愛的な愛情をもって尽くしてくれていることにちゃんと気づいている。
それでも、ゾレはミカエルに夢中で、ミカエルの犯罪行為を告げ口してくるシャルルに対して、「お前の魂胆はわかっているぞ」みたいな威しを口にする。ゾレに貶められ、嘲られても、シャルルのゾレに対する想いは揺るがない……。
ね? 演出や脚本はさておき、設定だけでいえば今でも全然通用しそうなBL譚じゃないですか。

当時のドイツにおいて同性愛は、後ろを使った行為&動物との行為とセットで禁止されており、この同性愛禁止法はなんと1994年まで続くことになる。そんな1920年代に、これだけ明確な同性愛寄りの映画を世に送り出したドライヤーの勇気と先取り感はおおいに評価したいところだが、やはり作品としては他の彼の傑作群に比べると、あまり面白くなかったとしかいいようがない。

最後に。こうやって中期のサイレント作を観ても、ドライヤーの監督としての本領が、「視線の交錯と人の配置」によって緻密に組み立てられた「ディスコミュニケーション」の描出にあるということは改めて確認できた。
舞台上でどう二人(または三人)を配置し、どう視線を絡めさせて、どのように一方通行の想いで構築されたベクトルの森を描き出すかというのは、まさにドライヤーの最後の作品『ゲアトルーズ』でも徹底的に追求されていた命題であり、ドライヤーの真骨頂ともいえる。
考えてみるほどに、本作の登場人物の想いはいずれも、常に一方的で、常に報われない。
そのディスコミュニケーションを「噛み合わない」視線で「視覚化」してみせるというドライヤーの演出術は、この時期からすでにほぼ完成されていたというわけだ。

じゃい