「幸せな日々は一瞬で消えゆく、それが戦争」母と暮せば りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
幸せな日々は一瞬で消えゆく、それが戦争
井上ひさしの舞台劇『父と暮せば』が黒木和雄監督によって映画化されたのは2004年。
原作者・井上ひさしが対となる作品として構想していたが果たせなかった想いを山田洋次監督が映画化したのが、この『母と暮せば』。
ひと足早く試写会で鑑賞しました。
戦後70年という節目、かつ製作の松竹は120周年ということで、『日本のいちばん長い日』とともに最も力を入れた映画であろうことは想像できる。
1945年8月9日、長崎市内の医学校に通う浩二(二宮和也)は、米国の原爆により一瞬にして生を奪われた。
それから3年。
母・福原伸子(吉永小百合)は、諦めきれぬ想いを抱きつつも、浩二のことに踏ん切りをつけようとしていた。
その踏ん切りを契機にして、浩二の霊が伸子の前に現れる・・・というハナシ。
骨格は『父と暮せば』とほぼ同様だけれど、残された者が年長で、先立ってしまった者が年若と、元のハナシとは反対になっている。
この変更、良いような悪いような・・・
年若い息子の命が奪われてしまうほうが悲劇であるけれど、不条理に奪われてしまった命を思ってこの先の長い人生を生きていかなければならない哀しみと踏ん切りをつけなければならないのは、やはり年若い方であるべきのように思う。
その踏ん切り部分を、浩二の許嫁・町子(黒木華)に背負わせているので、映画としてのおもしろさ・興味深さは、町子がさらってしまう恰好となっている。
その上、黒木華が巧いものだから、本来主役であるはずの伸子・浩二、母息子のエピソードが霞んでしまう。
さらにさらに、戦時下、それも末期なので、母息子の暗い暗いエピソードかと思いきや、意外なほど能天気でバカらしいエピソードが綴られる。
うーむ、うーむ。
たぶん狙いは重喜劇路線なのだろうが、吉永小百合・二宮和也のふたりがそれを肉体的に表現できておらず、長台詞を繰り返せば繰り返すほど。マザコン息子とそれに対するベタベタ母親にみえてしかたがなかった。
とはいえ、山田洋次監督が米国に対して(それに追従する我が国に対して)怒りを表しているのは、少なからず感じる。
この映画で隠されたキーワードは、「運命」に対する母・息子ふたりの解釈だろう。
息子は「原爆で死ぬのが運命だった」といい、母は「それは運命ではない。ひとのすることは変えられたはず」という。
さらに、『父と暮せば』から舞台を広島から長崎に移すことで、ふたりを(米国からみて、東洋の理解不能なひとびとではなく)キリスト教徒として設定している点も見逃せない。
終盤、母親の祈り「わが命は神の御手に委ねます」というのは、(監督の)猛烈なる批判なのだと思う。
このようにみてくると、この作品、黒澤明が米国への憤りを静かに示した『八月の狂詩曲』の山田洋次版といってもいいのかもしれませんね。