劇場公開日 2015年5月30日

  • 予告編を見る

「「あ」・「ん」への飛躍と解放」あん ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0「あ」・「ん」への飛躍と解放

2015年6月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

知的

難しい

幸せ

シネコンで、河瀬直美監督作品を観るというのはどんなものだろう。不思議な感覚である。商業映画の対極にあるアート系、芸術作品に限りなく近い作品を作ってきた人である。シネコンの座り心地のよいシートに座って、あたりを眺めてみる。結構、おっちゃん、おばちゃんが多かった。このひとたち、きっと、本作の女流監督さんが「カンヌ国際映画祭」の審査員を務めたこともある人だなんて、きっと知らないだろうなぁ~、などと思う。
いかんいかん、これも先入観だ。
いつも映画を観るときは予備知識なし。ニュートラル。
僕も、映画のことなど何もわからない、ど素人でいたい。そこらへんにいる、おっちゃんの一人として、作品そのものに接していたい。
僕はそういう風に映画を観ようと、いつも思っている。
どら焼き屋の雇われ店長、千太郎(永瀬正敏)は、ある事件から、この店のオーナー(浅田美代子)に莫大な借金がある。彼が一人で切り盛りしてきた、この小さな店舗は、ある種の「鳥かご」でもあり、彼はその中で飼い殺しにされてきた、鳴かない無愛想な鳥であるのかもしれない。
この、どら焼き屋に毎日のように立ち寄る、中学三年生のワカナ(内田伽羅)。彼女は一羽の鳥を飼っている。ワカナの母親は、この籠の鳥が狭い自宅の部屋で鳴くのをうっとおしい、とおもう。
「もう、この鳥、どうにかしなさいよ」と娘のワカナに文句を言う。
ワカナには父親がいない。母親とは口もきかない。心を許せるのは、この籠の鳥だけだ。
ある日、千太郎のどら焼き屋に一人のおばあちゃん、徳江さん(樹木希林)がやってくる。
「アタシ、五十年、あんを炊いてきたの。ここで雇ってもらえないかしら」
徳江さんは、自分で炊いたあんこを千太郎に渡した。
千太郎は決してこの店を繁盛店にしようとか、行列のできる店にしてみせよう、という熱意はない。
千太郎はもともと甘党ではない。どら焼きが好きでもないんでもない。というより、そもそも彼は、どら焼きを一個まるまる食べたことすらないのだ。
店で使っている「あん」も一斗缶に入った「業務用」のあんを使っている。
千太郎と「どら焼き」との距離感については、情熱や愛情とは程遠いものがある。あくまで「雇われ店長」であり、「仕事」なのである。
オーナーに借金を返さなくては……。
その義務感から、毎日もくもくと、女子中高生相手に、どら焼きをつくり続けているだけなのだ。
一度は徳江の申し出を断った千太郎。ただ、五十年あんこを焚き続けてきたおばあちゃん、ということがひっかかった。ためしに徳江が置いていった「あん」を指で一すくい、口の中に入れてみた。その味は、千太郎の舌に、体の奥底に、波紋のように広がる。衝撃の味わいだった。
千太郎は徳江を雇うことにした。やがて千太郎の店のどら焼きは評判を呼び、行列のできる「どら焼き専門店」となる。しかし、ある日、パタリと客足が止まった。
雇っている徳江が「ハンセン病患者」であることが、噂として広まったのだった……。
徳江は「あん」を炊くときに小豆に向かって話しかける。
「がんばりなさいよ~」
自分は、ずっとハンセン病患者として、隔離された専門病院で人生を過ごしてきた。外の世界とは隔絶された空間。
そして彼女は、あんを炊くことを人生の楽しみとしてきた。
彼女にとって「あん」を炊くことは、材料である小豆との会話なのだ。
「あんたは生まれてきてよかったんだよ」
「美味しい”あん”になろうね」
徳江さんは小豆と自身へ語りかけている。
 世の中から「消された存在」として生きて来たハンセン病患者、その自分の元へ、外の世界からやってきた小豆。目のまえの小豆は、誰に、どのように育てられ、どんなドラマを経て、何のいきさつで、隔離病棟にやってきたのだろう? そんな小豆を徳江さんは”愛おしい”と思うのだ。
「あん」という「言の葉」について。
「あ」と「ん」は日本語のひらがな表記の最初と最後の文字である。小豆を煮詰めた集合体である”あんこ”が「あん」という象徴的な二文字で表すことが出来る事。しかもそれが、ひらかなの最初と、最後の文字。いわば、たった二文字で、この世の全てを表現できる、という象徴的な意味。
原作者ドリアン助川氏が「あん」というタイトルを「発掘」した時の、感動と興奮はどれほどのものだっただろう? と想像してみるのである。
ハンセン病棟で、かごの鳥のように生き続ける徳江。
どら焼き屋の小さな「鳥かごのような」店舗の中で生き続けている千太郎
そして、母子家庭という「カゴ」から、今まさに飛び立とうとする、ワカナ。
本作は「精神の解放」のお話ではないか、と感じた。
「徳江」という存在はあらゆる制約の象徴でもある。
その徳江さんの手によって、小さな、小さな粒の小豆は、この世の全てを煮詰めた物質「あ」「ん」へと高次元に飛翔するのである。その味わいは、人の心に飛躍と解放の勇気を与える。
映画作りの作法について、感じたことを少し。
映画のタイトルからくる印象とは真逆と言っていい。
河瀬直美監督は観客に、あえて「甘ったるい」余韻を与えていない。
シークエンスの切り替えの潔さと厳しさが印象に残る。
こういうカット割りをする人は、きっと自分に対しても厳しいのだろう、と思う。お客さんに対してウケようとか、そんなこと全く考えていないように思えるのだ。
しかしながら本作は、紛れもなく商業映画としてのシステム、体裁をもって制作されている。
河瀬監督としては珍しく原作があるし、キャスティングもプロの名だたる俳優たちを起用した。しかも、エンディングには秦基博の楽曲が使われるなど、いかにも一般の客受けを意識した印象が濃い。
公開直前には、主演の樹木希林や市原悦子までもが、珍しくテレビで番宣をおこなうなど、プロモーション活動も活発に行われている。
こういう、金のかかった商業映画は元が取れなきゃ、終わりである。
主人公の千太郎ではないが、莫大な借金を抱えて、身動き取れなくなる。
次の映画はもちろん撮れなくなるし、最悪、監督の家族は路頭に迷うことになる。
数字も取れて、内容も面白い、難しいことを易しく、そして味わい深く。そんな作品がなかなか生まれてこない。
「嗚呼……」と深いため息をつきつつも、なぜか僕は映画館に通う。「奇跡の一本」に出会えるかもしれない、という淡い期待を込めつつ。
本作はその「あん」という内容について、相当丹念に、手間暇かけて煮詰めた作品であることは、疑いようもなかった。

ユキト@アマミヤ