「ピンク色のタンクトップと太陽」サンドラの週末 鰐さんの映画レビュー(感想・評価)
ピンク色のタンクトップと太陽
1000ユーロ。2015年6月初旬のレートで14万円ちょっとのボーナスか、同僚の復職か。その二択。
からりと暑そうな真夏の週末に、ピンク色のタンクトップ一枚で駆けずり回るコティヤール(主人公サンドラ役)を徹底的にカメラが追う。
それだけといえばそれだけの映画で、そこに労使関係の不条理、職場の人間関係、現代フランスの労働事情なんかも絡みはするけれど、基調としてはコティヤールの不安メーターが上がったり下がったする様を眺める変種のスリラーだ。
作ろうとおもえば、もっとエンタメ方面に作られただろう。十四人も説得して回る設定を活かし、伏線やどんでん返しをふんだんに盛り込んだ曲芸みたいな脚本を書くのもチョイスとしてありうる。
けれど、この映画はあくまで「この状況だったら」のリアルさにこだわった。
「月曜日の再投票の件で来たの」が十四回(十三回?)繰り返され、どいつもこいつも似たり寄ったりの反応を返す。
「あなたを助けてあげたいのは山々だけど、ウチにも生活があって……」
なるほど、同僚はみんな冴えないというか幸薄そうなの揃いで、なにもあぶく銭に目がくらんで……な感じには見えない。14万円といえど、大金なのは間違いない。
一方で、彼らがこれまでボーナスなしでもそれなりに生活してきたのも事実だ。
ギリギリ、ほんとうにギリギリで耐えられてはいる経済状況で、一人の同僚の生活を選ぶか、おそらくこれからの人生でもそうはこないであろう希少な金銭的ゆとりを選ぶか。たしかに道徳的には前者を選ぶべきなのだろうが、しかし後者を選んだとて誰に責められるだろう? しかもコティヤール以外の同僚たちの利益にもなるのに? すくなくとも、コティヤールは責めない。彼女もまた、自分の個人的な利益から復職をお願いしてまわっているのだから。
この選択は、同僚たちにとっても決してささやかな決断ではない。
社会的な正義か、それとも自身の幸福か。彼らにとっての1000ユーロはそのままその賭金になる。
後半に出てくるある男性の同僚への説得シーンが象徴的だ。
彼は最初の説得シーンでコティヤールとともにレンガづくりの建物をバックにしている。表面上は連続しているはずの建物だが、しかし、そのブロックの色がコティヤールの立っている側と彼の立っている側で異なっている。同じ場所にいるけれど、違う側の人物、というわけだ。
説得に失敗したコティヤールは立ち去ろうと数歩歩き、車道に出かける。そこをさきほどの彼が呼び止める。変心か? 奇跡が起こったのか? 開けた車道からコティヤールに射す陽光は彼女を希望へと誘ってくれるのか? 違う。再び同一画面に収まった二人は、車道側と建物側でやはり二つに分かれている。しかも、今度はコティヤールは「建物の外」にいる人物として描かれる。
彼はそんなコティヤールに「おまえがいなかったら週三時間分の残業代が出る」と吐き捨てる。
そんな神経が削れるようなやりとりが、十四回あるいは十三回。
そんなさりげないギリギリの択一が、十四回あるいは十三回。
だれだって病んでしまう。コティヤールはうつで休職していたくらいだから、もともと強い人間ではない。説得をつづけるにつれ、彼女の心は疲弊していく。なにもかもが不条理で不毛な世界だ。いくら水を飲んでも落ち着かないし、いくらクスリをとっても安定しない。
そんな太陽が灼けつく土日にも、ちょっとした希望はあって、それはとりあえず人間の形をしている。この映画のなかでは。