「駄目な群像劇の典型例」エイプリルフールズ 山本さんの映画レビュー(感想・評価)
駄目な群像劇の典型例
根本的に群像劇という形態の作品は上手く仕上げるのが難しい。通常の映画の主人公のような魅力的な人物を、各場面の数だけ用意し、その上で異なる性格を持ち合わせた人物に一貫性のあるテーマ性を付随させなければならない。
視聴者にはワンカット毎に頭を切り替え人物の相関図と時系列の経過を整理する集中力を要求し、その努力を手助けする構成を、またそうした労力に見合うほどの筋の魅力と各段落の結末を全編に渡って用意し続けなければならない。
しかしこれらの必要条件を一切満たしていないように感じられた映画がこの「エイプリルフールズ」だった。
作品の大筋は人物像として薄っぺらで記号的なキャラクターが共感性皆無の様々な問題を解決しようとする場面の羅列にすぎず、設定として非現実的な、かといってコメディリリーフとして受け取るには「闘病生活」「コミュニケーション障害者と性交渉依存症」「いじめ問題」「実子を誘拐する反社会勢力」「同性愛」など、妙に重たいテーマばかりを取り揃えた、恐らくコメディドラマと思わしき作品である。
世界観に入り込むのを阻害する原因として主に、前述した設定のちぐはぐさもあるのだが、もう一つ俳優達の演技の程度の低さがあった。そもそも動作や喋り方、声色などで笑いを取るというのは、大変な才能と訓練を要する立派な技術である。
それなのに知名度やビジュアルだけでキャスティングした彼ら・彼女らに無意味にテンションを上げさせるだけではコメディ作品として全く成立していない。コメディアンとして演技が出来ていた俳優は結局ただの一人も見出すことができなかった。本作の演技は酒の席で普段真面目な人物が皆の前で流行の芸人の真似事を強要させられている状況と同種の痛々しさである。
また喋りの部分でも台詞回しには鋭さや独特のセンスが全く欠如しており、繰り広げられる会話劇は常に乱雑で凡庸であった。その結果、二時間の間一度も笑う事なく、終始真顔で画面を眺め続けていた。
このようにコメディ部分で没入することに失敗すると、当然ドラマ部分でも入り込めない。コメディ映画では「笑って泣ける」ことを意図することが多々あるが、泣けるのはそれまで人物や世界観に共感させられたからこそであり、導入の設定で失敗し、演技で失敗し、ギャグで失敗されて、最後になにやら感動することを意図したと思わしきエンドシーンがおざなりに幾つか用意されていても、ただの人格破綻者達が悪ふざけをしながら出した結論などには一片たりとも共感することができない。
作品に引き込まれて、笑いという感情を露わにしていたからこそ感動の段階に至るのが自分の考える「笑って泣ける」ことに必要なプロセスである。そうした本作のコメディとドラマの噛み合わなさ、一貫性の欠落には特に煩悶とさせられた。また、各パートで出した結論も至って陳腐なものであった。
作品の構成に関しても全く価値を見出すことが出来ない。
各場面の関連性はほぼ皆無であり、せいぜいが「誰々と誰々は関係者だった」程度の物である。
内容の本質とは無関係な事実の列挙では、複数のエピソードを繋げる為の芯には到底なりえず、これでは群像劇どころかオムニバスとすら言えず、中身の薄い短編の寄せ集め、抱き合わせとでも表現したくなる程だ。
申し訳程度に、伏線と思わしき要素も用意されていたが、本筋の面白さがあって始めて伏線が活きてくるのではないだろうか?細々としたテクニックだけでは一切驚嘆や感動を得ることが出来なかった。
唯一、「嘘の取り扱い」というコンセプトだけは面白そうだと思った。しかしコンセプトに対する答えを示すまでの過程も、そして結末もとにかく浅く、何一つとして得られる物がなかった。
このような低品質の脚本を用意して、ある程度人気のキャストを大量に用意し自局の番組内で宣伝して無理やり収益を得る、というビジネスモデルが成立していることを自分は非常に憂慮する。せめてもう少し、誰かが出ている、なんとなく感動するといった表層的な事柄に限らず、様々な側面から自信を持って薦められる作品を作って欲しいと強く感じる。