ゼロの未来のレビュー・感想・評価
全13件を表示
オタクに対する警告か
かなり刺激的な作品。現代社会を基に、未来社会を予見したかのような作品。巨大なAIが人間の社会の隅々にまで浸透し、個々人を適切に管理しようとしている。より多くの利益を生み出すために、AIによって様々な職業が作られ、あてがわれ、目標時間を示されゲームをクリアするかのように人々は駆り立てられている。まるで、我々を取り巻く現代社会を風刺しているかのよう。コーエンが行うゲーム自体は、プログラムされたものを、こなしているだけ。ゲームと同じ創造性などは問われていない。
コーエンは、修道院の廃墟に住み生きる意味ややりがいのある仕事を与えてくれる電話を待っている。周囲の人は、マニュアルやプログラム通りに動いていて、作為を持っている人たちであり、彼の問いに対して意味を持たない人たち。だから付き合わない。そこで、彼に対してマンコム社から大きな仕事、ゼローTが与えられる。ゼロの確率が、100%であると明らかにするかのような仕事のよう。詳しい説明もないことから、無意味な匂いがした。時間内に複雑な数式のパズルのブロックを当てはめ続けるもの。自室で行っても良い仕事だ。自室は、元は修道院でキリスト像がかけられているが、頭部は監視カメラに置き換えられている。過去において人生に意味を与えていた宗教は、AIに置き換えられているということだ。
コーエンを気にかけてくれる若い煽情的なベインズリーも、AIによって指示され仕事をしている。実際に接触して、情欲を想起させて、その後は仮想空間で疑似的な男女関係によって癒しを与える仕事。しかし、不器用で純粋なコーエンによって、心を動かされたのか、すっぴんになって彼の修道院を訪問し、どこか知らない所に二人で逃げようと誘うが、彼は自分が信じる使命を優先し彼女の誘いを断った。長い間の洗脳というのは、なかなか解けないのだ。現代の男が、女性よりもゲームやコンピューター等に夢中になっていることへの皮肉か。コーエンが孤独なのに、我々という言葉にこだわるのは、自分がやっていることが、人類にとって意味があると信じているからなのだろう。
AI管理者であるマネジメントの息子が派遣され、マンコム社のシステムを暴露しながら、病んでしまった彼を救い、ミッションを続けさせようとする。ネズミに餌を与えるのが、何かを意味しているのだろうがわからなかった。コーエンが、彼を時間通りに返すというマンコム社のルールを破ったために、マンコム社からのゼローTのプロジェクトは中止、周囲の人たちも解雇される。
ベンズリーへのアクセスアイテムを使って、自分とAIを接続させたら、仮想空間内にマネジメントが出てきて、コーエンの部屋の監視動画が映る。コーエンは神経ネットの一部でしかないこと、マネジメントは、人生の目的に対する答えは持たないこと、自分は真実を求めるただの人間だと告げる。そして、「真実は、封じ込められた混沌(カオス)である。終末は始まりと同じ混沌。無を追求したい理由は、混沌=無秩序とは商機であり、金になる」からと告げる。そして、コーエンに対しては、「神を信じたがる人間は、より崇高な目的を求めるあまり、人生が無意味に思えてしまう。そして、全てが永遠への通過点でしかなくなる。コーエンが選ばれた理由は、信念の人であり、商売とは無縁だったから。」商機を広げる何かを提供してくれるかもしれなかったからか。
コーエンは、電話が意味のある言葉を伝えるのを待って、無意味な人生を送った。コーエンのマンコム社での存在意義はなくなり、彼へのプロジェクトは終了。彼は仮想空間でカオスであるブラックホールへ身を投げる。ベンズリーと行った仮想空間の海岸で一人、夕陽を見ながら平穏が与えられる。
人生の意味は、自分で勝ち取らなければならないって言われているかのよう。AIやアプリ、商売をする人たちに頼ってしまってはダメだよって。でも、これから先の未来は、どこからが自分の判断で、どこからがプログラムやマニュアルなのかが難しい社会になりそう。いや、もうなっているのかも。世界系の映画やらアニメは、自分のやっていることが世界の救済に繋がるって話になるけれど、それに対する皮肉、アンチテーゼを感じた。そんなものはないんだよって。
コーエンは、中年に差し掛かった冴えないオッサン、ベンズリーがちょっとおバカっぽいけれど、情け深く、お色気たっぷりで、その取り合わせがオタクの世界に合っていた。
ゼロの定理
コンピューターに頼り過ぎる近未来。『未来世紀ブラジル』をポップに仕上げたような世界観でもある。エンティティの解析をメインに取り組むコーエン(ヴァルツ)はいつもジョビー(シューリス)に名前をクインと呼ばれ、その度に修正する。
ベインズリー(ティエリー)はネットでのエロチックアイドルみたいなもので、チャットやVRによって客を楽しませる。VR体験は沈まない夕陽のビーチ。
会社のマネージャーがマット・デイモン。最後にはコーエンに「人生の意味を教えてくれる電話を待ち続けることで、無意味な人生を過ごしたな」と言われ、はっと気づく。
未来は無に収束
不可思議な妄想現実の近未来をビジュアル化するとゲームセンターさながら、スピリチュアルな古い教会で全てがゼロに収束する神の式を導こうとするシュールな設定、タイトルから多少は知的なお話かと期待したがジュブナイル向け、残念でした。
宇宙の膨張やニュートリノの質量の話などが唐突に挟み込まれるが信憑性を高めようとする引用なのでしょう、宇宙はやがてブラックホールに飲み込まれて無に帰すという、即ちそれがゼロの定理らしい、妙な数式のピースが飛び交うブロック崩しゲームのような描写だが、それが監督の解釈による近未来の研究様式らしい。
人生の意味を見失って久しい主人公だが、とどの詰まりは可愛い女の子と南の島で過ごしたいというゴーギャンのような生き様でしたか・・。たぶん名画「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」にひっかけているのでしょう。
映画.COMのインタビューでギリアム監督は映画の狙いをネット社会の若者たちに「自分で思考し、自分なりの世界の見方を見つけること」が重要だと伝えたかったと語っている。
スマホやゲーム依存に危機感をもったのでしょうか、分からない訳ではないですが人それぞれでしょう。映像表現は奇抜で楽しめましたが個人的には作家性の強い映画は苦手です。
生きる意味とは
レンタル屋へ行ったらテリーギリアムの作品が目にとまり、借りました。
この作品、知りませんでした。
全編テリーギリアムワールド満載でワクワクしました。
ひたすら電話を待つコーエン。彼は生きる意味のメッセージが届くと
ひたすら家で電話を待ちながら、家にこもりゼロの定理を100%にすべく
ひたすらゲームをし続ける。
15歳の社長の息子とのからみがとても良かった。
生きる意味とは 宇宙の存在とはなど 哲学的な要素も入って
いて とても面白かった。
社長がマットデイモンというのもいい。
その息子役の少年もかわいかったな♪
しかし この作品は人を選ぶかもしれない。
私は好きでした。
.
自宅で鑑賞。原題"The Zero Theorem"。過度にコンピュータに依存した近未来、C.ヴァルツ演じる自閉的な“コーエン・レス”が無(ゼロ)の証明と共に様々な人と接し、心を開いていく物語。M.ティエリーの“ベインズリー”のエロサイトのデザインやその先の浜辺の張りぼて感は昔の監督のまんまだし、小型の電気自動車が行き交うゴミゴミした街並み等、ゴチャゴチャした中にどこかレトロな雰囲気を残すビジュアルは紛う事無きT.ギリアム印で大満足。ただ一見すると難解なストーリーは好みの分かれる処だろう。75/100点。
・一人称が複数形の“我々”から単数形の“私”になり、マンコム社のホストコンピュータは倒壊、女性器を思わせるブラックホールに飛び込むラストは、VRの浜辺で或る種の理想だった姿──髪が本来の坊主頭に変わり、オープニングと同じ全裸になっていたので、ヴァーチャルからリアルへと心の在り場所が変化(再生)したと解釈した。
・そもそもは監督が自身の『未来世紀ブラジル('85)』の焼き直しを作りたい想いから企画が始まった。男性が女性を救い出しに行く旧作に対し、本作では男女の役割が入れ替わっている。他にもプロットやビジュアル、ディティールの細部等、この二作には意図的だと思われる共通点が多い。
・L.ヘッジズが演じた御曹司“ボブ”は、周囲の他人の誰もを“ボブ”と呼んでいたが、『12モンキーズ('95)』にもB.ウィルス演じる“ジェームズ・コール”に“ボブ”と話し掛ける“男の声”と云う似たキャラクターが登場していた。
・街頭を走る小型自動車は、'11年にルノーがリリースした電気自動車"Twizy"である。亦、歩行者を追尾する電光掲示板の女性(勧誘広告)は、実用に向けた開発が進められている技術である。
・撮影は九箇所で行われ、全36日間の内、28日間がスタジオで行われた。大まかなスケジュールは、'12年8月13日に撮影が開始され、'12年10月22日に修正や追加撮影、ポストプロダクションに回された後、'12年12月4日に完成した。
・監督によると、VRの浜辺のシーンはF.ジンネマンの『地上[ここ]より永遠に('53)』を参照したと云う。亦、当初B.マーレイにも何等かの役でオファーしたが、スケジュールの都合で実現しなかったらしい。
・鑑賞日:2016年3月24日(木)
難しいけど直球
ポップで自由な世界
カメラワークがユニークで面白い
ゼロの定理という難しい問題を扱っているが安っぽい作りで勿体ない
簡単に言えば 数学×ゲーム
これからの生きる意味、生活する意味、人生の意味を考えさせられる。
身につまされる思い
難しいことは分からなかった(エンティティ解析とか何?という感じ)けれど、とても好きな作品です。
言葉ではどう表現すればいいのか…。
カウンセリングはプログラムで対応する。
なんというか他人の面倒を見ることがなくなることがこんなにも寂しく映る。
冒頭あたりで会社(?)でのやりとりで
「何が問題なのかね?」
「我々は死ぬ」
「我々とは?」
「我々です、我々自身」
「君一人だが」
「そう見えるだけ」
人間て便利すぎる世の中を少しずつ享受せざるを得ないのかもしれない。
主人公は危機感を感じながらも、食事はレンチンとか宅配ピザで済ませたり、性処理をヴァーチャルの世界で済ませたりで、享受し始めている。ラストはヴァーチャルの中で終わる。100%か0%どちらかでしか生きられないキモいやつ。
結局は妥協することが幸福に生きるために必要なのかなあ。
ワン・イズ・ザ・ロンリエスト・ナンバー
『未来世紀ブラジル』『フィッシャー・キング』
『12モンキーズ』の鬼才テリー・ギリアム監督最新作。
いつも考えるのは、ギリアム監督のファンタジー映画は、
ファンタジー映画でありながら、観る者に現実逃避を許さないということ。
果たして本作もそう。
毒々しいほどにポップでカラフルな本作の未来世界は、
自己実現さえもメディアに依存する2010年代と地続きの悪夢的未来だった。
.
.
ハタから見ればまるでTVゲームのような、
何の仕事かも分からない作業に没頭する主人公コーエン。
情報過多社会。監視社会。社会性昆虫的社会。
自分はユニークだ、唯一無二の存在だと思っていたけど、
所詮は大きな組織の目的の為に管理され動かされる、
数十億の働き蜂の中の一匹に過ぎない。
コーエンはそんな不安を抱いている。
ヒロインであるベインスリーと親密になる前、
常に苛立っているように見える彼が唯一
明るい表情を浮かべるのは、黒電話が鳴る瞬間だった。
彼は電話が鳴るのを待っている。
人生の意味が他の誰かから与えられるのを待っている。
自分の中からそれを探し求めようともせずに。
.
.
彼はバーチャルな世界に依存しきっている。
そうしてバーチャルなものに囲まれ続ける内、
現実を信じられなくなる。すべてが嘘に見えてくる。
いや違う。すべてが嘘の方が楽になってくる。
主人公がベインスリーを拒絶する終盤のシーン。
主人公は彼女の言葉が真実だと信じたがっていたと思う。
それどころか、真実だと気付いてさえいたかもしれない。
だけど彼は彼女の涙ながらの懇願を拒絶した。
裏切られるのが怖ければ、最初から信じない方が楽だから。
.
.
映画のラスト、電脳世界に閉じ込められ、
ひとり充たされる日々を送る事となった主人公。
ひとりでいれば、太陽だって彼のもの。
自由にできないものはないし、彼を傷付けるものもなくなった。
きっと彼はあの結末で幸福なのだろう。
けど、言わせてほしい。
あれは本当に残酷なラストだ。
自分はちっぽけな人間だという葛藤を抱えていても、
愛する人に裏切られて傷付くことがあっても、
僕は彼に、現実を生きて欲しかった。
ひとりぼっちは楽だけど、ひとりぼっちは自分がこの世に
存在するかもわからなくなるくらいに寂しいものだから。
.
.
映画で語られる“ゼロの定理”――
世界が無から始まったなら、世界が存在する理由も無い。
よって、この世に存在するもの総てに意味など無い、という論理。
そうなのだろうか?
もしも世界の起源がゼロだとしても、
それで人生の価値もゼロだと言えるのか?
世界の成り立ちからでなく、他人から与えられた物からでもなく 、
自身の心の内から人生の価値を見出だすことは出来ないのか?
0と1の世界の外にこそそれはあると信じたい。
ひたすら孤独に生きる事もひとつの選択肢ではあろうが、
僕自身はそれを『生きる』と呼びたくはない。
<2015.05.16鑑賞>
.
.
.
.
余談:
自分はサザンオールスターズの大ファンなのだけど、
(というかサザン以外はほとんど洋楽ばっか聴いてる)
彼らが1997年にリリースした『01MESSENGER 電子狂の詩』
の風刺的歌詞がこの映画にあまりにドンピシャで、鑑賞中に驚いた。
ここで抜粋するのはやめるが、
興味のある方が居られれば、歌詞検索されたし。
20年近く前の曲がハマるなんて、流石サザンだぜッ!(←と全肯定する信者)
オタクを凹ませる気か!?
未来世紀ブラジルの世界観と被る部分があります。が、本作では人間を支配しているのはコンピューターであり、マーケティングであり、過剰な規制です。通りには電光掲示板が多数置かれており、意味不明な広告が垂れ流しされています。
「今なら商品が100%オフです」とか。
公園のベンチの後には、携帯ダメから泳ぐことダメやら多数の禁止標識が置かれています。
これって、なんでもクレームつけてくる人達が増えた結果な未来のような気がします。
クリストフ・ヴァルツが演じるのは、コンピューター技師のコーエン。未来の仕事はまるでテトリスのようにゲーム的、いわば単純作業です。その単調な日々で、コーエンは精神を病んでいきます。
仕事はそのゲーム的なものを使って、「ゼロの定理」を解明すること。劇中何度も「ZERO MUST BE=100%」という機械的な女性の声がします。
このゲーム的なのが仕事で、部屋に閉じ籠もってこつこつやってる姿は、なんだか日本のオタクを揶揄しているように思えて微かに凹む。
またゼロ=単調な価値のない仕事を、100%の価値あるものにしなくちゃ。と理解したのですが、なんだかそこは、つまんない仕事でも家族の為に頑張ってるサラリーマンのパパ的にも思え、そんなパパがアダルトサイトの女の子とバーチャルの海岸でいいことしようとする姿とか、ちょっと諸々考えさせられてやっぱり凹む。
いつもブラックホール(虚無)を抱えて生きてきたコーエンが、愛を知るあのラストはハッピーエンドなのか、どうなのか。
この時流れるのがRadiohead-Creepです。歌詞がかなり卑屈というか、やはりオタク臭がする。
この歌、天使のような彼女に恋をした僕が、特別な存在になることを夢見る、厨二的な歌詞なのです。"でも僕はキモい男だから。どうしようもない男だから"って続く。
かなり泣ける曲なんです。
なんだかんだ言って、小難しいメタファーとか多用してるけど、テリー・ギリアム監督が描きたかったのは、この「Creep」の世界なのかもしれません。
宗教を比喩とし現代社会に物申す
あらゆるキャラクターや設定が宗教的だ。
廃墟化した教会や、僧侶の様な生活。
神の様な存在であるマネージメントはキリストの銅像の首に付けられたカメラから常に見ている。
マネージメントは息子を主人公の元に送る。まるでキリストを送り込むかの様に。
主人公は電話を待つ。生きる意味を教えてくれると信じている。まるで神の救済を待つ信者。来るはずのない啓示を待つ様は「ゴドーを待ちわびて」や「桐島、部活やめるってよ」を彷彿させる。
監督は言う。主人公が答えを与えてくれると信じてる様は、責任を外部に転嫁しているという事。現代社会では実際に人々はそのように生きていないだろうか?自分の安全にしろ健康にしろ、政府や権力に委ねてしまっている、と。
こうも言っている。「未来世紀ブラジル」では権力者が責任をとらないことで起こる物語。今作の主人公は仕事に責任を感じておらず惰性的だ。これは正に僧侶の生き方だ。多くの僧侶は自分の思想を持っておらず、儀式さえやっておけば魂が救済されると思っている。主人公がコンピューターに向かう労働は儀式でしかない。
結局最後はマネージメントに告げられる。
これはビジネスであり、私はお前を利用したまでだ、と。
テリーギリアムはインタビューで言っている。『生きている意味はなにか』など、本当に大切な問いをしなくなっている。そして、ただただ自分を忙しくさせている、それが現代人ではないだろうか。蟻とか蜂は自分の存在意義など考えないだろう。
監督が今作を通して伝えている事は、自分の生きる意味は自分で決めろ、という事だ。神や社会や上司にコントロールされ、それにすがるのではなく、自分が思う幸福を勝ち取らなければならない。
だからマネージメントの息子は言う。
女の後を追え!と。これは正に監督の言葉である。
主人公が住む教会にはプロテスタント、カトリック、東方教会の要素が混在している。宗教画や聖水盤、イコンや白い鳩などが象徴的に配置されている。主人公が精霊を象徴する鳩を追いやろうとする様の何と皮肉な事か。
外の社会は、主人公にとってとても息苦しい。街には広告だらけ。歩いていると、壁のデジタル広告がついてくる。強制的に広告を見せられる。人々はファッションやトレンドに夢中。物欲的な欲望だけが肥大化した社会は正に現代の社会でもあり、彼らにとっては消費こそが、宗教のようだ。
彼女と密会する為にインターネットに接続するわけだが、その時に着るふざけたコスチュームは、まるでトランプのジョーカーのようであり、悪魔のようにも見える。
やがて彼はその世界の虜となるが、結局接続出来なくなり、現実と向き合わなければならなくなる。まるで、「コンピューターから抜け出し、現代を見ろ!」と監督が言っているようだ。
世界観、ストーリー、全てに引き込まれた
こんな近未来の描き方は初めて見た!
近未来の筈なのに、どこかレトロでチープなセットに懐かしさにも似た親しみやすさを感じた。
ぶっ飛んだ世界観に負けないぐらい各登場人物がキャラ立ちしていて、主人公の心理描写も丁寧で分かりやすい。
最後まで引き込まれたまま見れた。マンガの様な良い意味でのチープさ・分かりやすさと、「どういう事!?」みたいな意味不明さが両立してる。
でも荒唐無稽な意味不明さじゃなく、ストーリーや人物から何となく意味を想像してしまう。
一度観ただけだと理解しきれなかった。もう一度観たいと思わせられた映画だった。
ちなみにDVDは絶対買う!
せつなかった
レディオヘッドの『クリープ』という曲が大好きなのだが、そのジャジーなアレンジで気怠い女性ボーカルのカバー曲がすごくよかった。何度か掛かる度に、知っているけど途中まで思い出せなくて、その感じが、この映画のテーマにも共通しているようであった。
主人公が暮らしている修道院がすごくかっこよかった。部屋のど真ん中にパソコンを置いたりして、一生に一回くらいはそんな感じのかっこいい建物に暮らしてみたいものだ。
これまでの『未来世紀ブラジル』などとテーマが共通だった。
全13件を表示