「青春の輝きは、小さな現実の積み重ねにある」幕が上がる Orikunさんの映画レビュー(感想・評価)
青春の輝きは、小さな現実の積み重ねにある
原作で、台本を書いている高橋さおり(さおり)に吉岡先生は言う。
「この小さな街に生きている高校生たちの、日常が立ち現れてくるといいんだけど」
また、東京合宿で劇団の舞台を観たさおりは、次のように考える。
「繰り返し繰り返し、色々な思い出のシーンを綴ることで、中学生のなんだか切ない感じが伝わってきた」
「一生懸命とも違う、正確に再現する。何をだろう。何かを再現している。これが吉岡先生が言っていた「立ち現れる」って感じ?」
この映画は、小さな街に生きている高校生たちの日常が立ち現れるように撮られたものである。では、『高校生たちの日常』とは何だろう?
さおりの母親は言う。
「やりたいことがあってくれれば、それでいいのよ、だいたいの親は」
自由だ。自由過ぎる。宇宙空間のように端が見えない。
若者は、どこにでも行ける切符を持っているというが、発車時刻までそんなに猶予はない。どこにでも行けるけど、どこに行くのか決められないんだ。困ったな。
進路は決まったかって?GPSも地図も路線図も方位磁石すら手元にないのに、どうやって進路を決めればいいのか分からないよ。
それなのに、大人達は、青春なんてそんなもんだから、とりあえず君の自由にやってみればいいと笑って済まそうとする。
僕たちはみんな不安なんだ。みんなそれぞれ、ばらばらの不安を抱えている。それを『青春』でひとまとめかよ。
(とまあ、これは、原作にも映画にも出てこない。私が高校生になったつもりで毒づいてみただけ。)
ここで、ちょこっと映画の話に移る。
中西悦子(中西さん)は、演劇強豪校から来た季節外れの転校生だ。
演劇への情熱は人一倍強い彼女だし、演技力だってあるが、それだけに、自分の持つ短所のせいで部へ負担をかけたくないと演劇部を止めて転校してきたのだ。彼女は、自らの意志で一人になった。
カンパネルラ「僕たちはいつも一緒だけど、でも僕たちは離ればなれだ。宇宙が膨らんでいくように、僕たちの間も広がっているんだ」
駅のシーン。さおりは、中西さんに、あなたは一人じゃない、今は二人だと言った。中西さんは、カンパネルラだ。となると、ジョバンニはさおりか?いいや、もっと適役がいた。
橋爪裕子(ユッコ)は、演技の才能はあるものの、さおりといっしょに演劇をやっていることで満足している。最近、作演に専念したさおりが台本を書き上げ、演出の腕も上達していくのを見て、置いて行かれていくような焦りを感じている。
東京合宿で演劇部OGが参加する舞台を観たときの彼女は、何か思いつめたかのように浮かない顔をしていた。OGと談笑している部員をよそに、彼女だけは笑顔ではなかった。新宿の夜景を観たとき、たまらず彼女は落涙する。彼女の中の何かが弾けたのだ。
(いつまでもさおりといっしょに演劇をできるわけではない。いつか、ばらばらになるときが来る。そのとき、一人になった私は、どこで何をすればいい?)
ジョバンニ「どこまでも、どこまでも一緒に行きたかった。でも、一緒に行けないことは、僕も知っていたよ。カンパネルラ、僕には、まだ、本当の幸せが何か分からない」
これは、まさに、ユッコが言うべき台詞だろう。強豪校の実力を持つ中西さんに嫉妬し、力を付けてきたさおりに嫉妬していたユッコが、自分にとっての幸せを見つめ直す。
となると、さおりは……ああ、クルミだ!
離ればなれになったように見えるジョバンニとカンパネルラを繋ぐものがクルミだとしたら、卒業後、それぞれの道を進む演劇部員を繋ぐのが、さおりの書く台本、さおりの演出、そして、いつか設立するだろう、さおりの劇団なのだ。
話を戻して。
原作で、さおりは言う(映画でも同様のことを言うが、全文覚えていない。)
「私にとっては、この一年、演劇をやってきて、とにかくいい芝居を創るために悩んだり、苦しんだり、友だちと泣いたり笑ったり喜んだりしたことの方が、よっぽど、よっぽど現実だ。この舞台の方が現実だ」
「私たちは、どこまでも、どこまでも行けるけど、宇宙の端にはたどり着けない」
「どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない」
このレビューの冒頭で、私は『高校生たちの日常』とは何だろう?と自問した。
答えは、さおりの発言の中にあった。高校生たちの日常とは、不安であり、悩みであり、苦しみであり、泣いたり笑ったり喜んだりすることなのだ。そして、その小さな現実の積み重ねを、愚直なまでに繰り返し繰り返し描くことが、『立ち現れる』ということなのだ。
ばらばらなものを一括りにして『青春』と呼んで済ませているわけではない。『青春』とは結末のことではなく、小さな現実の積み重ねなのだ。だから、ばらばらだからこそ『青春』なのだ。
この映画は、地味な映画である。高校生の日常なんて、そんなに派手な出来事ばかりが続くわけがないのだから、当然だ。あまりにも地味なので、監督が遊びに走ったシーンがあるくらいだ(やや浮いているシーンだが、まあ、人間テンパれば、あのくらいの悪夢を見ることがあるかも知れない。夢なんだから、浮いてるくらいで丁度いいんだろう。)
でも、地味だからこそ、この映画は、高校生の日常が立ち現れている。小さな現実のひとつひとつが、きらきら輝く宝物として丁寧に描かれているからこそ、高校時代を過ごした私達の記憶を鮮やかに呼び起こす。
この映画は、大会の結果を描いていない。それは、青春の本質を描くに当たって重要なのは、小さな現実の積み重ねで日常を描くことにあり、結果は重要ではないという監督及び脚本家の判断なのだろう。
実際、大会の結果を描くということは、必然的に、ひとつの時代が終わる瞬間(この映画の場合、4人の3年生が引退する瞬間)を描くことに他ならない。それよりも、演劇部の部員達が最高に輝く瞬間、幕が上がる瞬間で映像を終わらせる方を選んだのである。
実は、彼女達は劇中劇『銀河鉄道の夜』を丸々演じることができるのだが、あえて映画で映していないのには、舞台化が決まっていることが関係しているかも知れない。
舞台の雰囲気は、舞台でしか伝わらないということだろうか。だとすれば、それだけ、完成度が高いことの裏返しであるようにも思える。
幕が上がった直後、やや唐突に、主演を務めたももいろクローバーZの歌とダンスが始まる。
これは、この映画は、あくまでも『アイドル映画』であるという監督のこだわりであり、アイドル映画の復興を祈る監督からのメッセージだろう。良質な青春映画という評価が大きくなり、アイドル映画という評価が小さくなってしまうのは、監督の本望ではないのだ。
監督は、彼女達と競演した際に、彼女達が放つきらきら感が、この原作が持つきらきら感に通じると感じて、この映像を撮ったのだろうか。歌い、踊っているのは、明らかにももいろクローバーZなのだが、制服姿の効果もあって、映画キャストの4人がミュージカル仕立ての演劇でもしているような不思議な錯覚が起こる。
さて、アイドル映画といえばアイドルの存在というやっかいな問題がある。
普通、アイドルはテレビを通した姿と映画の姿では違って見えるものである。片やアイドルを演じ、片や映画のキャストを演じるのであるから当然だ。そうでなくとも、表と裏の姿は見え隠れするものである。だから、表のイメージを壊したくないからと、アイドル事務所側から、いろいろ注文が入ることも少なくないらしい。
ところが、この映画では、その手の違和感が全くない。演技が自然だ。なぜだろうか。もちろん、平田オリザのワークショップを体験した効果は大きい。でも、それだけではなく、彼女達グループの成り立ちや歩みが関係していると思われる。
ももいろクローバーZは、鳴り物入りでデビューしたアイドルグループではない。むしろ、メンバー達はアイドル志望でもなく、女優の育成プログラムの一つだろうくらいにか思っていなかったくらいである。
彼女達もまた、何をするとも、どこに向かうとも知れない不安を抱いたまま、路上ライブから始まり、ETC休日1,000円を利用した車内泊しながらの全国ライブ等、小さな現実をひとつひとつ積み重ねていったのである。そして、彼女達は、その積み重ねの過程を、舞台裏も隠すことなく見せてきた。
ももいろクローバーZの最大といっても過言ではない特徴として、共演者による彼女達への評価が「裏表が全くない」ということが挙げられる。そもそも、裏表を作る意味がない環境で活動をしてきたからなのだろうか。そんな彼女達だからこそ、アイドルというファンタジーに属していながら、日常的な女子高生として映画に姿を現しても違和感がないリアルさを持ち合わせているのである。
地味に、高校生の小さな現実の積み重ねを撮っていく映画では、リアルさを出してもアイドルとして違和感がないももいろクローバーZは最適だったといえるだろう。