「ディズニーによるアンチ・ディズニー・ミュージカル」イントゥ・ザ・ウッズ まじさんさんの映画レビュー(感想・評価)
ディズニーによるアンチ・ディズニー・ミュージカル
元来、お伽話には子供の成長を願って、教訓や性的な暗喩が込められていた。
『赤ずきん』の原作には狩人は出てこない。食べられて終わりだった。オオカミは「知らないオジサン」の比喩であり、言葉巧みに言い寄ってくる、知らない男の人に着いて行くと、襲われちゃうぞ♡と言う教訓を、幼い少女に教える寝物語であった。食べられて終わる事で、恐怖のインパクトがあり、親が教える貞操観念の教科書としての機能があった。
それが、食べられたら終わりなのに、食べられた後の話が付け加えられた。何の伏線もなくいきなり現れた狩人に、助け出されるのである。
そして狩人と幸せになるとかいう、トンデモない話まで登場している。おいおい、狩人も、素性の分からない「知らないオジサン」だよ。と、突っ込まずにはいられない。話の本質がすっかり抜け落ちてしまい、同じ轍を踏んだ話になってしまった。
『シンデレラ』では、ご存知のように継母と義姉たちが酷い目にあって因果応報を受ける訳だが、ディズニー版ではそこを描いておらず、ここでも教訓性は失われてしまった。また、靴の色も原作の金からガラスに替えていたのはご存知の通り。『オズの魔法使』でも、銀の靴からルビーの靴に替えている。コレはどちらも映像的な問題から変えている。アニメでは金色の表現が難しく、世界初のカラー映画に銀色では味気なかったからだ。
『ラプンツェル』は、少女が男と逢瀬を交わして親離れをする話である。幼い少女がこの話を聞いても「私はお母さんと、ずっと一緒だよ」などとかわいらしいことを言うものだが、やがて親離れをした時に、少女は小さな罪悪感と共にこの話を思い出すのである。因みに原作では、妊娠までしている。
ディズニー版『塔の上の〜』では、もちろん性交渉の部分はカットされている。だが、長い髪を切るのが継母ではなくフリンにする事で、処女喪失を表現しており、形を変えて童話の持つ暗喩を残している。
ちなみに『ジャックと豆の木』の教訓は失われていない。子供の好奇心が幸運をもたらす事があると説いている。ここでの幸運とは財宝であり、少年にとっては脱童貞である。後者の暗喩はほとんど失われているが、この映画ではちゃんと見せていた。
このように多くのお伽話はディズニーに改変され、大切なメッセージを失って伝えられて来た。そんなディズニーに、アンチテーゼを投げかけたのが、1987年に初演されたブロードウェイ・ミュージカル『イントゥ・ザ・ウッズ』である。お伽話の教訓や暗喩を、本来の姿に戻そうとする試みがなされており、更に「その後」を描く事で、新たな教訓を付与した「正しいお伽話」の様式で見せている。偶然がいくつも重なる不自然なハッピーエンドにはしていない。我々が現実世界で生きる上での教訓が描かれているのである。
この作品の評価が低いのは、製作したのがディズニーだからだ。ディズニーがやれば、いつものディズニーらしいお花畑童話を期待してしまう人が多いのだ。彼らにこの作品は、少しショックが大きかったかも知れない。意味がわからなかった者も多いだろう。それは仕方ない。ディズニーが一度捨てた童話の本質を、復活させるなんて誰も思わないからだ。だが、ディズニーにしては珍しく、この映画は良作であると言える。子供向けでなく、大人向けに作った所もユニークだ。ディズニーの傘下には、大人向けの映画ブランドのタッチストーン・ピクチャーズがあるにも関わらず、あえて子供向けブランドのディズニー・ピクチャーズで配給しているのが面白い。コレは、ディズニーで育った大人たちに贈る作品という意味だろうが、ディズニーで育った大人たちは、ディズニーが思っていたほど成長していなかった。特に日本での評価が低いのは、このせいだ。
この映画ではブロードウェイ出身のロブ・マーシャルが監督を務めている。彼は舞台での人脈を使い、なんと原作台本を務めたジェームズ・ラパインと作曲のスティーヴ・ソンドハイムまでスタッフとして参加させている。コレは最強の布陣だ。権利者の参加は、「ミッキーの口出し」を跳ね除ける事が出来るからだ。これにより、原作の持つ大切なメッセージを失わずに描いている。ディズニーがミッキーの口出しに影響されずに作った点でも、非常に珍しい作品だ。
(ミッキーの口出し:ディズニーの意思である経営陣や投資家たちからの作品に対する口出しを指す。ミッキー・マウスのアニメでは、彼の発案で何かをしようとすると、概ね酷い結果になる事から、彼らの口出しを揶揄して“Micky Mouth”「ミッキーの口出し」と呼んでいる)
ディズニーにとって、今まで描いて来なかった大切なものを、しっかりと見つめ直すよい機会となっただろう。
ディズニーにはディズニーのスキームがあり、どのような話でもアメリカの現代の価値観にすり替え、ポップ・カルチャーと融合させて、ハッピーエンドの娯楽作品にしてしまうのがいつものディズニーだ。だが、この映画は違う。ディズニーでは珍しい本格的なミュージカル作品だ。そう。セリフ中心のなんちゃってポップス・ミュージカルではなく、メロディーでシーンを語る、本物のミュージカルだ。それぞれのキャラクターに固有のメロディーがあり、何度も出てくるので、誰がどのメロディーなのかが覚えやすい親切設計だ。それが二重唱、三重唱になっていく所など、ミュージカルの醍醐味をたっぷりと味わえる、わかりやすい作りの作品となっている。
兄弟王子の滝で歌うサービスシーンが話題になっているが、しっかりとそのチャラさが(特に兄)出ており、コミカルななシーンとなっている。兄は多くの女性に気に入られるよう振る舞い、弟はそれをマネして一人の女性に気に入られようとしている。この作品では、シンデレラとラプンツェルの幸せを対照的に描いており、このコミカルなシーンが、その後の結末を分ける、重要な伏線となっているのには感心した。
オイラは『ジャックと豆の木』のジャックくんがとても気に入った。好奇心旺盛な彼は、太くて大きく聳り立つ、立派な豆の木を登り詰め、天空で大きな女性(=歳上の人妻)と、旦那の眼を盗んで仲良くなって、小遣いまで貰って帰って来る。上でどんな幸運があったかは、興奮気味に「世界が変わった!」と歌うあのテンションを見れば一目瞭然だ。原作が持つ脱童貞の暗喩を、清々しいまでの爽やかさで見せてくれた。映画版『レ・ミゼラブル』のガブローシュくんを演じた彼である。幼かった彼の成長も、成長したんだねぇ。うんうん。
唯一残念だったのは、舞台版では顔を見せない女性の巨人がオバサンだった事だ。ここは是が非でも美魔女な女優さんにやって頂きたかった。アレでは仲良くなってる所が想像しにくいし、何よりジャックの初めてが不憫すぎる( : ω ; )
まぁ、それは別の魔女が許さなかったんだろうな。