殺されたミンジュ : 映画評論・批評
2016年1月12日更新
2016年1月16日よりヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
凄絶なリベンジ群像劇に託したキム・ギドクの痛烈な社会批判が観る者を揺さぶる
女子高生オ・ミンジュがソウル市内の市場で屈強な男たちに追われ、暗い路地で無残に殺された。事件から1年後、実行犯の1人が謎の集団「シャドーズ」に拉致され、拷問を受けて自白させられる。シャドーズはその後も変装を繰り返しながら、容疑者たちを1人ずつ拉致し、事件の真相に近づこうとする。
監督のキム・ギドクは、強烈なキャラクター造形、衝撃的な映像表現、現代社会に切り込むメッセージで知られ、日本にもファンが多い。社会派でありながら芸術性も極めるその稀有な才能は、ベルリン、ヴェネチア、カンヌの3大国際映画祭すべてで受賞したことでも証明済みだ。
かつて「嘆きのピエタ」で高利貸しの取り立て屋を描き、資本主義の暴力性を批判したギドク監督が、今作で選んだテーマは「死にゆく民主主義」。ミンジュは韓国語で「民主」を意味するので、韓国語がわかる人には少女の名前に込められた意図が明白だが、それ以外の観客もこの語義はおさえておきたい。
ミンジュ殺害に関わったのは、全体主義的な上意下達の組織で、上から指示を受け、善悪の判断を差し挟むことなく伝え、実行する。対するシャドーズは、リーダー格の男がネット掲示板を通じて社会の底辺で不満を抱える者たちを集めたグループで、不正をただすという大義名分の下に拷問をエスカレートさせてゆく。
シャドーズ側メンバーの日常で描かれるのは、家族、友人、恋人といった人間関係に遍在する“独裁者”(そのほとんどをキム・ヨンミンが8役で演じ分けているのも象徴的)からの蹂躙で、虐げられているメンバーにとって容疑者への制裁は社会に対する復讐でもある。しかし、メンバーたちが軍人やギャングや警察の制服をまとって高揚する姿は、彼らもまた暴力的な全体主義の組織と相似形であり、“影”そのものであることを示唆している。
ギドク監督は、民主主義が圧殺されつつある韓国の現状にあらがう思いを込めた。しかし、貧富の格差が拡大し、個人の生活や価値観が権力や暴力によって踏みにじられる傾向は、日本をはじめ世界の多くの国に共通する現実でもある。映画のラストで投げかけられる問いは、暮らしている国や属している組織にかかわらず、すべての観客の心に突き刺さるに違いない。
(高森郁哉)