エレファント・ソングのレビュー・感想・評価
全20件を表示
「不在」であることが存在を主張する
ある精神病院の患者であるマイケルと、精神病院の院長であるグリーン。二人の意思と駆け引きが重厚な今作はサスペンスに富みつつ、「愛」をめぐる苦しみと救済の映画でもある。
まず、導入部が良い。病院の経営者がグリーン院長と面談する導入は「全てが終わった後」という時間軸だ。
「マイケルを担当していた医師が失踪した」という事件と、「その後さらに病院で起こった出来事の顛末」を聞き取るシーンで、既に二つも謎が提示される仕掛け。
時間を行ったり来たりしながら、謎に迫るこの仕掛けが、ラストまで来るとまた違う意味を持つ。
さらに色調が良い。全体が薄い緑色に染まったような病院の雰囲気。ナースのカーディガンも緑、グリーン院長のカップも緑、そもそも院長は名前も「グリーン」。そんな緑色の世界でマイケルのジャケットは赤みがかって目を引く。
コントラストがマイケルを際立たせ、不穏さをまとわせながらも美しく引き込まれる。
冒頭に書いた「愛」をめぐる苦悩もまた、「愛されたい」のに「愛されない」マイケルと、「愛していた」のに「愛すべき相手を失った」グリーン院長の対比になっている。
二人の「愛」に対する現在の状況も対比だ。
マイケルは精神病院の問題児だが確かに「愛されている」。ただし、それはマイケルの求める形ではない。マイケルの望む形がどういうものなのかは明示されないが、マイケル自身は「自分の求める愛の形」が病院では叶わないことに絶望してしまったのだと思う。
退院か死か。飄々として見えるマイケルだが、その渇望は既に限界を迎えつつあった。
一方のグリーン院長は「愛されること」を重荷に感じている。彼の愛を必要としているオリビアがいるのに、グリーン院長は彼女に向き合おうとしない。
クリスマス休暇を病院で過ごすことに安堵しているようなグリーン院長の態度に対抗するため、オリビアは職場に電話をかけたり、暖房の修理を頼んだり、果ては病院にまで訪ねて来るのである。
側にいて欲しいオリビアから逃げるグリーン院長。彼が逃げたかったのは、愛すべき相手を失ってしまう苦痛だ。
注意深く幾重にも強調されるマイケルとグリーン院長の二項対立。その対立が映画が進んでいく過程で絡まりあい、マイケルが言うように「心が通じあって」くるのだ。
表面的にはとても通じあっているようには見えないのに、確かにそう感じる。
狭い部屋の中で、マイケルはくるくると部屋をかき混ぜるように移動し、グリーン院長の心もかき混ぜようとする。
真なる目的のために、グリーン院長を翻弄するマイケル。マイケルが目的を遂げた時、図らずも「心が通じあって」いたグリーン院長にも変化が訪れる。そしてそれはマイケルの求めた「愛」を再び手にする道を切り拓いた。
親から与えられる無償の愛。運命の相手と育む至高の愛。マイケルが渇望し、グリーン院長の手のひらからこぼれてしまったもの。
表面的になぞると大したことない話のように思えるのに、幾重にも重ねられた演出と俳優の演技がシンプルなストーリーにダイナミックな感情の振り幅をプラスしている。
「愛し愛されること」を「愛」という核心をあえて「不在」にすることで際立たせる手法はお見事としか言い様がない。
チョコレートの箱に空のスペースがあることで、むしろそこに入っていたはずのチョコレートが目立つように。
心理サスペンスとしても見応えがあるが、ヒューマンドラマとしても一押しの美しい映画だ。
【“只、僕の話を聞いて欲しかった・・。”幼き頃に母が目前で自死した青年の心の闇と再生を求む姿を天才、グザヴィエ・ドランが演じた作品。】
■美しい青年・マイケル(グザヴィエ・ドラン)は、14歳の時にオペラ歌手の母が目の前で自殺し、それから現在まで精神病院に入院している。
ある日、彼の担当医ローレンスが失踪した。
院長のグリーンは、マイケルに事情を聞こうとする。
だが、彼は話をする代わりに条件をつける。
◆感想
・美しい青年・マイケルの精神病患者を装って、精神病院で暮らす姿はどう見ても精神病患者ではない。彼はそれを装っているのである、
但し、彼は自身の母が実の前で自死した事による大きなるトラウマを抱えている。
・彼は主治医のローレンスとの性的関係を匂わせ、事実ローレンスは病院からいなくなる。
ー この辺りは真相を知ると、”思わせぶりだな”と思うのであるが、それを補うグザヴィエ・ドランの新たなる担当医、グリーンへの挑発まがいの行動、言動を観てチャラにする。
グザヴィエ・ドランは若くして製作した諸作品でカンヌで異例の若さで幾つかの賞を受賞している。
だが、今作を観てもこの方の演技力は凄いと思う。
天は二物を与えるのである。-
<彼が最後に禁断の実の入ったチョコを口にし、絶命するシーン。
元々、彼は母を失った時点で、生きる気はなかったのであろう。
スッキリした気分には成れないが、今作は俳優としてのグザヴィエ・ドランを堪能できる作品である。>
誰が殺した クックロビン byマザーグース
誰が誰を殺したんだろう?身体的に、精神的に…、魂を…。
身体レベルで考えれば、それは明らかである。
けれど、その明らかな事実とは別の、目に見えない真実を探したく?別の物語を紡ぎたくなる。そんな結末。
愛、それは尊いもの。得たと思ったらすぐにこの手から離れていくような感覚。
存在、それも大切なもの。でもどうしたらそれを確かめられるのか。
確実・絶対なんてものはない。けれど、そういう世界は生きにくい。
どこかで、信頼できて頼れるものの存在を感じていたい。触れなくとも感じられ信じられる人。触れていなくては、否、触れていても信じたいのに信じられない人。渇望。絶望。
見終わって、そんな想いに心臓がわしづかみにされる。
涙なんかではない。心が痛い。最期の幸せそうな場面にほっとすると同時に、心が悲鳴をあげそうになる。
☆彡 ☆彡 ☆彡
戯曲の映画化とな。舞台は面白そうだな。
でも映画は感想が複雑。変に凝った為に、焦点がぼやけてしまったように思える。それともサスペンスタッチ、心理戦の攻防をうたった宣伝のせい?
鑑賞後の余韻は、まったく別のものだった。
一人の精神科医が失踪した。事件?最後に診察した患者が何か知っている?と言う出だしで始まる。その真相を巡る駆け引き(という宣伝)。
確かに、尋問(精神科医は尋問とは考えていないけど)は、翻弄される。知りたい答えははぐらかされ続ける。そこは面白い。自分の存在感に確信が持ていないマイケルの危うさ・脆さを醸し出すドラン氏の演技には魅了される。院長の感性の鈍さ、エゴイストなのに善人ぶっているそんな演技も秀逸。(「私は先入観なしに患者と面談し、理解できる」という、”人間性”の優しさという仮面を被った傲慢。いるんだな、こういう精神科医や自称カウンセラー。そして、患者もマイケルの如く、「先入観なしに私を観て」と熱望してくる人、いるんだな)
なのだが、「主治医が昨夜から戻っていない、最後に会ったのはマイケル。何か事件が起こったに違いない」と思わせるだけの、狂気・危うさが感じられない。ドラン氏ファンには大変申し訳ないが、デハーン氏や『ギルバート・クレイブ』の頃のディカプリオ氏が演じていたら、もっとぞくぞくする映画になっていたんじゃないかなんて思ってしまう。つい、勝手に脳内変換してしまう。
そして、診察室を訪れる方々。舞台劇だといいインパクトになるのだろうが、この映画で必要だったのだろうか。院長の心の変化が主題だとすると、家族背景とかの描写は必要だけどね。そうすると主演はドラン氏じゃない。
ドラン氏を主演として見て、マイケルの家族や成育歴の描写も出てきたけど、中途半端。エレファント。映画の中でも直接的・隠喩的表現が散りばめられていたけれど。たんにモザイク・万華鏡のようで、底が浅くなってしまっていてつまらない。もっと丁寧に作り込んで欲しかった。
「ドラン氏が、マイケルを演じることを熱望した」という宣伝そのものが、映画を理解するためのミスリード?
また「あえて時代を1960年代に移した。監禁もあった時代だからね」ってパンフレットにあったけれど、監禁が許された時代に、患者から精神科医を告発なんてできた?
という矛盾が幾つも出てきて…。
宣伝のせいなのか?脚本のせいなのか?演出のせいなのか?設定そのものにもはぐらかされたような違和感が残る。
とはいえ、
看護師長がマイケルに約束をさせようとする場面。何を約束させようとしたのか?「死なないで。生きると約束して」って、言いたかったのかと思った。だから、看護師長とマイケルと話しさせろよ、ボケ院長と本気で怒ってしまっていた。胸が締め付けられて痛かった。
それと、
全体的にペールグリーンでまとめられた色調。どこか冷たく、どこか優しく。この色合いにはドラン氏があいますね。
真綿でくるまれたような、うたかたの夢に漂うよう。どかか不安定で、どこか居心地がいいのに、居心地が悪い世界。
診察室においてあったカウチ。フロイト精神医学の象徴。フロイトの素養があったら、もう少し台詞一つ一つの意味をかみしめられたのかな?(特に同性愛的な描写とか、触れてほしいのに触れてくれない、だのに愛しているとかの意味とか)
しばらくたってから見直すと、また違ったものがみえてくるのかも。
予想のつかない展開ではあるものの、なぜか引き込まれない。ローレンス...
ドランは美しかった
トムアットザファームを観てからグザヴィエドランのファンになり、彼が出演を渇望したという煽りでこちらも観ました。
2人の心理戦、特にマイケル(ドラン)の話がどこまで真実なのか嘘なのか、また2人の周りの環境や過去も混ざりとても面白く観られた。精神科内の患者なので情緒不安定、でも不思議な魅力のあるマイケルだった。最後はショッキングだけど、マイケルは医師との交換条件などから分かるがこの終わり方まで計画してたのかと思うと悲しい。
憎たらしい芝居も、後半真実を話す切ない芝居もとてもよかった。特に前者。マイケルの愛する先生の言う“君の知性に恐れと美しさを感じる”という台詞そのものだった。美しい。
物語自体謎を残した終わり方でないのが好感もてました。映画全体の色も好み。
今回もドランの影のある美しさを存分に見れました。
最後まで観終えたとき、ただただ、愛が欲しい100分間だったな、って...
ママ、”象の数え歌”うたおうよ
いま、映画界で最も注目されるグザビエ・ドランが主演俳優として参加した本作。監督はシャルル・ビナメという人がやってます。僕個人としては、グザビエ・ドラン自身が監督もやってほしかったところなんですが……
物語は、とある精神病院が舞台です。ある日、この病院で、医師の失踪事件が起こります。新聞でも大きく報じられ、病院側は、この事件の真相を探るべく査問会を開きます。
失踪した医師が担当していた患者、それがマイケル(グザビエ・ドラン)
真相については彼が何かを知っているはず。
マイケルと失踪した医師との間に、何があったのか? 病院長で精神科医のグリーン院長(ブルース・グリーンウッド)は、真相を解き明かすべくマイケルとの対話を試みてゆきます。
本作では主に、マイケルとグリーン院長、二人の密室劇として描かれて行きます。
マイケルの母親は世界的なオペラ歌手でした。そのため演奏旅行ばかりの日々。マイケルは子供の頃から、母の愛をほとんど受けることなく育てられました。彼自身の言うところでは、子供の頃から寄宿舎に入れられていたとのこと。
マイケルは母親の旅行先、そのひと時のアバンチュールで生まれてしまった、望まれることのない子供でした。
その母は、マイケルの目の前で自殺。横たわる母親、たったひとりの愛おしい息子、マイケルを前に、彼女が残した最後の言葉は「三度、音を外した……」でした。彼女は息子よりも、オペラのことが気がかりだったのでしょうか? 当のマイケルは、横たわる母の前で「象の数え歌」を歌っていました。この一件以来マイケルは精神病棟に収容されたのです。
マイケルの父親は一度、彼をアフリカに連れて行ってくれました。
父親はハンターです。獲物を求めてサバンナをジープで駆け巡ります。幼いマイケルは、父親が猟銃で、象を撃ち殺すところを目撃します。
象の眉間に撃ち込まれた二発の銃弾。流れる血。ズサっと横たわる巨大な体。しかし象はまだ生きていました。
マイケルは死にゆく象の瞳を見つめます。まばたきする象の目。何を訴えたいのだろう? 象の瞳の奥に、深い、広い世界が広がっているかのようです。
父親は、倒れた象に「トドメを刺す」ため、もう一度、銃口を象に向けるのです。
その時マイケルは叫びます。
「NO!!!」
無情にも引き金が引かれます。
サバンナに響く、一発の乾いた銃声、その音はいつまでもマイケルの耳に残ります。
この一連のシーンは、マイケルの回想シーンとして語られます。
彼は院長、そして観客である我々にも、さまざまな「なぞかけ」をかけてきます。
マイケルの発言の中に「無用の長物」という言葉が出てきます。
その時、字幕の中に「エレファント」というルビが振られているのを目にしました。辞典で調べてみると、正確には「White elephant」白い象!?
それがなんで「無用の長物」と呼ばれるのか?
ちなみにYahoo知恵袋で検索しますと、「その昔、タイの王様が見た目の悪い白い象を敵側に送った故事に由来する」とのこと。
友好の印に送られたはずの白い象は、世話をするにも大変な手間がかかり、送られた側は、維持費がかさんで、とうとうギブアップしてしまった、という逸話があるのだそうです。
これは、本作において重要なキーワードでしょう。
つまりは、マイケル自身が精神病院に送られた、望まれない「白い象」ホワイトエレファントな訳ですね。
精神病院側はもう、彼の処遇に困るわけですね。ついには病院を破綻させかねない。その心配は現実のものとなります。
だから、彼の発する言葉の「象徴」するものであったり「暗喩」「隠喩」などに注意を払わねばなりません。院長との二人芝居は、緊迫した心理戦でもあります。しかしマイケルはいつもどこか、ふざけた態度をとります。まともに答えようとしない。グリーン院長の心をもてあそぶように、彼は言い放ちます。
「僕と取引したいのかい? だったら僕が出す条件は三つだ」
その一つが、なんと「チョコレート」をくれること、なのです。
実はこの、他愛もないチョコレートの要求が、後にとんでもない事態を引き起こすことになろうとは。
複雑怪奇なマイケルの精神世界、そこはまるで底なし沼なのか? あるいは巨大迷路なのか。
僕には彼自身が「虚無」な「無の坩堝」とでもいうべき存在に思えてなりませんでした。
何だろう?少し物足りない気もする。
映像がキレイでした
ドランが美しいだけの映画
サスペンスというには謎解き部分がいまいちだし、心理ものにしては不穏さが足りないしで、映像とドランの美しさがほとんど全ての映画。あと15分程度長くして、もっと掘り下げるべきところを掘り下げることができたんじゃないかなー。ということで星は2.5です。
グザヴィエ・ドラン演ずる精神患者マイケルの愛を求める心理描写とその...
愛を渇望して愛に翻弄される人々を描いた作品。
姿を消した精神科医。
鍵を握る精神病棟の患者。
行方を探ろうとする院長。
彼等の駆引きを通して徐々に状況が見えてくる。
冒頭から充満する不穏感。
情報が制限されて状況が殆ど見えない。
と同時に小出しにされる情報も不穏感を煽り。
全編通して不穏感を楽しむことが出来ました。
俳優の演技も良かった。
愛を渇望するが故に愛に翻弄される人々が巧く表現されていました。
患者マイケルを演じるグザビエ・ドラン。
良い意味でも悪い意味でも純粋なマイケル。
掴み処の無い、底の見えない哀しい怪物を怪演。
院長を演じるブルース・グリーンウッド。
社会的地位を持ち体面を気にする院長。
小出しにされる虚実入り混じった情報に惑わされ右往左往。
併せて彼自身も家庭に問題を抱えて、愛を渇望している。
固い顔と柔らかい顔の使い方が絶妙でした。
惜しむらくはテンポ感と展開。
話のテンポが少々悪く話運びが散漫。
話が細切れにアッチコッチに動き。
常時充満する不穏感は行き過ぎれば疲労感に。
思わせぶりの場面の連続で集中力が摩耗しました。
また終盤の展開も残念。
風呂敷の強引な畳み方に納得感が薄く全体的に残念な印象になってしまいました。
愛を渇望して愛に翻弄される人々を描いた本作。
注目を集めるグザビエ・ドランの新作。
今後の事も考えれば観ておいて損は無いと思います。
オススメです。
旬のドランにはジャストタイミングな作品!
うーん…
寂しがり
全20件を表示