「ラストのペ・ドゥナの選択について考えてみた。」私の少女 ウシダトモユキさんの映画レビュー(感想・評価)
ラストのペ・ドゥナの選択について考えてみた。
少女役のキム・セロン、どっかで見た顔だなーと思ったら、『アジョシ』の女の子ですよ。よその子は知らないうちに大きくなりますねー。
そんなキム・セロンも14歳の少女の役。13歳の娘がいる僕にはちょっとキツイ映画でした。
評論やレビューでは児童虐待問題とか不法就労問題とか村社会とか女性の生きづらさとかの要素が語られますけども、それらは物語に彩りをつけるための添え物のような気はします。
かといって、少女の中の悪魔性を暴いていくサスペンス・ミステリーでもなかったですし、
過去に傷を持つペ・ドゥナが少女との出会いを通して再生していくヒューマン・ドラマともちょっと違うようでした。
僕にとってはこの映画、ラストのペ・ドゥナの“選択”に想いを馳せるための映画だったなぁと思いました。
ラストのペ・ドゥナの選択というのは、何だったんでしょう。
それは、「クソババアを死なせた罪」への対応だと思うんです。
「父親を嘘でハメた罪」は、父親は死んでないし、まぁ自業自得でもありますし、
「クソババアもこういうやり方で死ぬように仕向けたんじゃなかろうか?」と想起させるためのヒントという位置づけなんじゃないかなって僕は思います。映画の見せ場としてはクライマックスでしたけどもね。
じゃあ「父親を嘘でハメた罪」を除外すると、焦点になるのは、
「暴力から逃れるために、人を死なすことまでやっちゃう怪物性」
になってきます。
でもそれはキム・セロンがまだ幼いからで、大人になれば分別もつくだろうという考えもアリではあります。
でも、キム・セロンを怪物にさせたのは誰か?って問題もあるわけです。キム・セロンはペ・ドゥナに出会わなければ、是非はともかく、「虐待される生活がデフォルト」という生き方もできたかもしれません。でもペ・ドゥナと出会い、「普通」を知ったことで、自分ちの「異常」が耐え難くなってしまった。米の味を知ったら麦なんて食えないって話です。
とはいえ別にペ・ドゥナは悪いことしたわけじゃなくて、「普通」なことをしただけでした。
だからキム・セロンの人生を背負う義理はありません。
最初の別れで会いに行った時、ペ・ドゥナには、「少女の罪を知らずに去る」という選択肢がありました。ここでペ・ドゥナの失敗は、「クソババアもあなたが殺ったのか?」と尋ねてしまったことです。
「知った上で去る」のは警官として罪です。罪を見逃すというのは、優しいようで、「償う機会を奪う行為」でもありますね。それでも自分だけの胸にしまっておけば、という思いで去ったのでしょう。
そしたら部下が言うわけです、「ぶっちゃけあの子、何考えてるかわからない、バケモノじみたとこがありますよね。」
自分だけの胸にしまっておけば済む話じゃないって気がつくんです。
じゃあどうするべきなのか?ペ・ドゥナが選択したのは、厄介な者から逃げるのではなく、法の下に裁くのでもなく、キム・セロンの人生を背負うことにしたんですね。
そのペ・ドゥナの根っこにあるものが、正義でも同情でも、なんなら欲情でもいいんです。とにかく少女はあの生活から脱出できたわけです。その結末が少女にとって「幸運」だったのか「計画通り」だったのかは、眠っててわかりませんでしたけれど。
少女の眠る車の外は雨で、晴れ晴れとはしないラストシーンでした。けどその分車の中は、傷ついた者同士の安息感で満たされていたのかもしれませんね。