共犯 : 映画評論・批評
2015年7月21日更新
2015年7月25日より新宿武蔵野館ほかにてロードショー
溢れる「事実」の中で 互いにつながりあう、真の意味での共犯者を求めて
そこは海底なのか川底なのかあるいは湖の底なのか。いずれにしても緑色に濁った水中に、すでに生きてはいないだろうと思われる人体が漂う。そんな何か決定的な出来事が起こってしまった後の風景から、この映画は始まる。
高校生たちの夏。その若き生命の輝きが、常にこのファーストショットの淀みに覆われて、あくなき生への希求と不気味な場所への誘惑が彼らを予想外の場所へと連れていく。一体そこで何が起こったのか? わたしたちはそんな興味とともに彼らの物語を追っていくことになる。
しかし知ろうとすればするほどそれは事実からも真実からも離れ、それらをうっすらと覆っていく。その積み重ね。そしてネット上のSNSや、校内での噂で語られる「事実」こそが事実や真実となっていく。当事者たちは、そこで語られる「事実」の向こう側に追いやられていくわけだ。それは彼らだけに起こることではない。わたしたちひとりひとりのかけがえのない出来事は、すべて同様に、溢れる「事実」の向こう側に隠れていくだろう。タイトルの「共犯」とは一体何を指すのか、その意味は深い。
わたしたちはいったいどこで生きているのだろうか? この映画を観るとまず、そんなことを考える。死体となって水中に浮かんでいるこの男子高校生の姿こそ、ネット上のさまざまな「事実」の中に埋もれて身動き取れないわたしたちの姿ではないだろうか? あからさまに人工的な音を響かせるこの映画の音響は、そんな妄想を呼び起こす。水中で聞く水上の現実音の響きと言ったらいいか。
わたしたちは水の中にいる。もはや私たちはそこから逃れられず、そこで溺れていくばかりだろう。だからこの映画はその先を見つめる。いかに水中で暮らすのか。水中に葬り去られたそれぞれが、どこかで幽かにつながりあうことができたら。そんな小さな可能性に、この映画は賭けている。彼らとつながりあう、真の意味での共犯者を求めて。
(樋口泰人)