「理解し合えないこと、理解し合えることを、どう理解させるのか」ボーダレス ぼくの船の国境線 マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
理解し合えないこと、理解し合えることを、どう理解させるのか
イラン人の少年とイラク人の娘、アメリカ人の脱走兵が閉鎖的空間に会したら何が起きるか。すぐれた小説家は、「登場人物が自分で動き出す」と言うけれど、まさしくそんな印象。三者がそれぞれに生き生きと動くことで映画が成立している。
でも、台詞は極めて少ない。なぜなら、ペルシャ語とアラビア語、英語で、意思疎通ができないからだ。そういう意味で、極限の状況に置かれた人物達のコミュニケーションを描く映画でもある。
この映画を理解するためには、歴史を踏まえる必要がある。
イランとイラクは1980年から9年間も戦争をして、現在も紛争の火種が消えたわけではない。イランとアメリカは、イスラム革命時の大使館占拠から現在の核兵器問題にいたる長いいさかいを続けている。イラクはイラク戦争でアメリカから侵攻をうけ、独裁者フセインは除かれたが国は壊滅的な被害をうけた。
この物語の時代設定は、イラク戦争下、もしくは終了後にテロ攻撃が継続する中での出来事を描いている。
だから、イラン、イラク、アメリカの3人が出会うことに意味がある。言葉を介さなくても根源的な相互理解が生まれ、小さなユートピア的空間が作られる。しかし、それは外からの力にねじ伏せられ、あっけなく霧散する。
3人の名前は語られない。名前がはっきりするのは赤ちゃんと、登場しないアメリカ兵たちだけ。安部公房の小説のような、実験的な世界が作り出されている。しかし、だからなのだろう、イラン人の少年が一人で廃船に住みながら、どのように生活の糧を得て暮らしを成り立たせているのかを事細かに描くことで、リアリティーを生み出している。イランの貧しい地域なら、こんな子が実際にいるのかもしれない、と思わせるものがある。でも、少年はなぜ一人ぼっちで、船に住まなければならなくなったのか、については何も語られない。
だから、語られたことは深く印象に刻まれ、語られなかったことについての想像が余韻を残す。再び一人ぼっちになった少年の孤独だけが、放置されている。