FOUJITAのレビュー・感想・評価
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基礎知識が事前に必要な映画です。
昨日(DEC6SUN)、観てきました。 その感想を一言で表すと標題の通りです。 小栗監督らしい地味な展開なんでしょうが、やはり多少のメリハリは欲しかったです。
画家が主人公なので 基本的には地味目になりがちですが、ストーリー展開やその中の心理描写などにもう少し観客を引き込めるようなモノを散りばめて欲しかったです。
セリフが少ないことへの批判がこのコメでも出ていますが、少ないなら少ないで 余韻を活かすような洒落た演出が欲しかったところなのに、それも失速気味...。
また、最後のシーン、藤田の永眠場所は、以前赴いた彼の個展(於:京都市美術館)でもその写真が掲示してあったので、自分の中ではすぐソレが繋がったんですが、ソレを知らずに観ているヒトには暫くチンプンカンプンでしょうし、そもそも 彼の晩年の滞在地のことをよく知らないヒトがこの場面で置き去りにされるだけと思います。 「この映画を観るんだったら 藤田の生涯を勉強してからに..」とでも言われているような気がして、愉快ではありません。
とまあ このように 自己満足度の目立つ作品だな..との印象が強く、もう一度観てみる気分にはなりにくいですネ..。
贖罪と共に生きる
画家藤田はパリで大成功をおさめる。
彼にとっては、パリの生活は毎日がパーティーの様に楽しい事ばかりだ。常に刺激に満ち溢れ、画家として題材にも事欠かない。
テクニックにも長け、廻りからも一目置かれている。
ここまでが前半部分のお話。
そして映画は突如戦争中の日本へと飛ぶ。
画家藤田はパリで大成功をおさめた事で、戦争画家として祖国日本で(当時としては)かなりの待遇を受けていた。
パリでの生活とは違い、人々の暮らしは困窮を極めており、パリの時の様な華やかさとは無縁の日々を過ごす毎日だった。
【死】【戦争】【贖罪】は、どうやら映画作家小栗康平にとって切っても切れないテーマになりつつあるのかも知れない…と、今回初めて(一方的に)考えてみた。
『泥の河』には、【戦争】の影が画面の隅々にまでつき纏っているし。加賀まりこが生きるすべは【贖罪】とは切っても切れない関係性を内包していた…とも思える。
サワガニを焼く場面は、監督自身の口から『灰とダイヤモンド』での同胞の魂に祈りを捧げる(死者を敬う)場面のオマージュと公言している。
また一度のみの鑑賞の為に、的を得ているのか疑わしいのですが。『死の棘』は元特攻隊員の話で有り、浮気による不和を、夫婦が乗り越えて行く。【贖罪】的な要素があった。
『眠る男』は(これもはっきりと覚えてはいないのですが)正に【死】に纏わる話に相違ない。
そこで今一度考えてみたい小栗作品が『埋もれ木』だ。
それまでの小栗作品とは一線を化す土着性溢れる作品だが、あの作品で描かれた事が、今作品でのバリでの馬鹿騒ぎに於ける場面に繋がるのか〜…とすら思った。
だからといって、何を描きたいのか?がよく分からなかった『埋もれ木』の評価が個人的にですが、上がる訳ではないのですが…。
本作品で描かれた藤田は、芸術の都パリで大成功をおさめながら、芸術家としての心の底からの満足感を得られていたのか?との思いが観ていて感じられる。
ひょっとしたらテクニックに長けていたからこそ、芸術家として心の底から沸き上がる様な感情は生まれずに、単に「上手く描こう!」との思いだけで、本当の自分は偽っていたのではないのか?との描かれ方の様に見える。
この見方は、あくまでも私個人の作品を観た上での感じ方ですが。映画後半での日本パートでは、藤田は心のどこかに'引け目の様なモノ'を抱え込んでいるかの様に伺えた。
芸術家として、国家に魂を売り渡してしまった事の負い目。則ち【贖罪】にこそ見えるのだ!
しかしながら、芸術家として描ける事の'縛り'が、逆に彼にとっては本質を見抜く:描く眼を取り戻させた…とは言えないだろうか。
なにゆえ小栗作品だけに、単純に万人が理解出来る様な作りでは無いので、あくまでも個人的な推測になってしまうのだが…。
抑制された画面・美術構成は『死の棘』:『眠る男』を更に極め、静謐なロケ風景は藤田本人の(芸術家としての)心のざわめきにすら受け取れる。
(2015年11月30日/ユーロスペース/シアター2)
期待ハズレ
藤田嗣治のファンなので楽しみにしていた作品。
結論から言うと期待はずれ。
寝落ちしそうだった。
藤田嗣治の人となりやライフスタイル、愛した女たちを、もう少し丁寧に詳しく描いて欲しかった。乳白色の美しさを生み出した経緯とか…。
美術作品のような映画を作りたかったのかな?静かな美しい映像と音楽の連続で、話は分かりづらく、おそらく藤田嗣治を知らない人には、理解に苦しむ内容なのではないだろうか?
外国人が好きそうな美しい日本の映像。海外での上映を意識されているように感じた。
レビューを読むと、この監督の世界観が好きで観に来ている人は高評価みたいだが、私にはメリハリなくて、ちょっと退屈だったし、不覚にも寝そうになってしまった…。
もしも映画館じゃなくて、家の小さなTVのDVDで観ていたとしたら、あの美しい映像の魅力も半減だし、集中力にも欠けて、最後まで観る自信はない。きっと、もっと評価も悪かっただろう。その点では、映画館で観ることができて本当に良かった。
オダギリジョーさんは良かっただけに残念…。
藤田嗣治ファンとしては、最後のチャペルは、観ることができて、そこはとても良かった。せっかくなら、そのチャペルのあるシャンパンのマムの社長と藤田嗣治の交流なども描いて欲しかった。
制作意図が伝わらない
せりふが少なくて、まず意味がわからず話がわからず、無言のまま場面が突然変わり、またわからないが続く。
観てる側に不親切な映画?
藤田さんの何をかわかるのかと思ったけれど、何も残らなかった。
中谷さんのセリフで何度も仏日で結婚をしてる人というのはわかりました。
結構出演者いたようですが、記憶に残ってないような扱い
ラストに普段は撮影不可のチャペルフジタの中の映像が音楽と共に流れますが、それだけでよかった?というかそれでごまかしてる?
チャペルフジタ訪問がきっかけでみた私には収穫が何もありませんでした。
劇場内はいびきが聞こえてましたよ。
台詞も音楽もなく、集中力も切れます。
監督の自己満足的映画に思えます。
本当に何を伝えたくて作ったの?
画家志望者(美術関係者)向き、難解な作品。
小栗監督ですので、商業的な作品でないことを覚悟で観るべき作品。二流映画評論家が、どう批評するかを待ちたい。藤田嗣治(以降、フーフーとする。)という画家のフランスでの生活、戦中における日本で暮らしを描いた作品。フーフーの生活を中心に描かれているが、フーフーの周りの社会動向などが全く無視。フランスなら、ドイツ侵攻や戦争の匂いも全く無視。ほぼ、夜な夜なパーティー三昧の日々を描いているため、何となく映画に幅がなく飽きること必至。日本に戻ってからの生活、ここでは、もろ戦時中。フランスと日本、時の描き方も無視。「アッツ島玉砕」の絵画には驚嘆させられる。が、いつ描いたの?それもよく判らない。キャスティングがやたら豪華でエンドロールでやっと気づくくらい。
加瀬さんの出演の意味もよく判らない。「はじまりのみち」や「海街」の彼の演技には良かったが、今回の作品においては?????。
とにかく難解な作品。デートで観る作品では全くない。「泥の河」に感銘を受けたが、今回は、昔フーフーっていう人が存在したのが判ったくらい。強烈な印象を与えない作品でした。
「フーフー」と、キツネの贖罪
小栗康平監督がレオナール・フジタの映画を完成させた、と聴いて、ちょっと胸騒ぎがした。
「早く観にいきたい」という気持ちと、「もしかして……」という一抹の不安、相反する気持があったのだ。
僕は小栗康平監督の「埋もれ木」という作品を、名古屋のミニシアターで鑑賞した。2005年のことだったと思う。
そのあまりの抽象性に「さっぱり訳がわからん」とひどく落胆した、嫌な思い出があったのだ。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)は映画の題材として、あまりに魅力的だ。
しかもフジタを演じるのは、オダギリジョーだという。
いやはや、この作品は魅力的すぎる!!
こんな美味しいニンジンをぶら下げられたら、もう映画好き、美術好きとしては劇場に向かって走る以外ないだろう。
しかしである。
もし、ここで、小栗監督お得意の抽象性で描かれたら、もう本作は、それこそ太平洋戦争末期の日本軍さながらに、映画興行として「玉砕」してしまうのだ。
そんな不安を抱えながら僕は劇場にいそいそと向かった。
上映が始まると、僕の不安は安堵に変わった。
小栗監督は所々でやはり、抽象性を挟みつつも、実に丁寧に抑制された演出で、淡々と藤田嗣治と女たち、そして彼が生きた時代を描いて見せるのである。
映画前半、エコール・ド・パリでの「フジタ」
彼の描く乳白色の裸婦像は、パリっ子たちにとって「東洋の神秘」
「誰も真似できない」として絶賛されまくる。
夜の街に繰り出せば、誰もが彼を「フーフー」という愛称で呼ぶ(ちなみに、これは「お調子者」という意味らしい)
彼はパリのアーティストたちの、まさに中心人物として担ぎ上げられる。
束の間の平和、日ごと、夜ごとの乱痴気騒ぎ。
「フジタ」はパリで最も有名な日本人として、時代の「波」に乗った。
芸術家たちにとって、なんと幸せな時期であっただろう。
しかし、すぐ暗黒の時代がやってくる。
映画の後半は、まさに作品をバッサリと真っ二つに切ったかのようだ。
舞台は戦時下の大日本帝国。
そこにはもう乱痴気騒ぎはない。
あるのは疎開先での質素な田舎暮らし。
そして軍から集落に強要される、定期的な「金属の供出」である。
フジタはフランス帰りの洋画の大家として、日本軍に迎えられる。
戦意高揚のため、戦争絵画を描くように軍から要請されるのだ。
彼は軍から請われるまま、アッツ島玉砕の大作を描く。
フジタは、その玉砕を美化した、日本軍の協力者として、戦後に激しいバッシングを受けることになる。彼は故郷ニッポンの地を二度と踏むことなく、スイスのアトリエでその一生を終える……
本作は彼の戦後については、あえて描いてはいない。
疎開先でのフジタは、ある日、知人からキツネに「化けかされる」話を聞いた。
「そんな迷信を……」とフジタは笑う。
しかし、残酷な戦争は、フジタ自身をキツネにしてしまったのかもしれない。
彼は日本軍から「少将待遇」という、とんでもない高い位を与えられる。
その象徴として、将軍が羽織る、マントをもらっていたのだ。
そのマントを羽織って、下駄を履いて、田舎の里山を散策するフジタ。
これがエコール・ド・パリで一斉を風靡した、同じ人間なのか……
化かされたのは誰か? 化かしたのはだれか?
滑稽なまでのマント姿のフジタ。
それを淡々と演じるオダギリジョー。
時代に弄ばれたフジタの姿はあまりに痛々しい。
なお、本作では描かれていないが、フジタは生涯の終わりに、教会の壁画を手がける。自身手がけたことのないフレスコ画への挑戦だった。
フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受けたレオナール・フジタ。
自分が犯した罪と罰。
それをどう裁くのかは「神様」が決めてくれるだろう。
絵描きは絵描きとしての責任を全うすべきなのだ、という、フジタなりの決着のつけ方ではなかったか?
本作のエンドロールで映される、その小さな教会を眺めながら、僕はそんなふうに思った。
みんなゆっくりしゃべる
学校の先生がオダギリジョーが頑張ってフランス語喋るよって言うので見に行きました。
しかし残念ながら主人公はぱっつんおかっぱの丸メガネでオダギリジョー感は全くありませんでした。別に彼が好きなわけではないですが期待するところが違ったなとすぐにわかりました。
映画館では学生はひとりもいませんでした。やっぱり若者には難しいようですね。
もっと戦争加担者によって追われ、またフランスに戻る彼の人生の最後まで描いて欲しかったです。
そんなことを言うとこの監督者さんがわかってないと言われそうなのでこの辺にして、パリの背景はとても綺麗でした。
徹底した説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。
とにかく、まるで絵画の様な美しい映像に息を飲み込みました。一つ一つのショットが、キャンバスに描かれた絵のように見えるのです。
そして長い静寂。背景と会話のみのショット。効果音もBGMも排除され、静まりかえった劇場には、近くの観客イビキの音がこだましていました。気持ちよく眠れそうな作品なのです(^^ゞ
けれども、効果音の途切れたシーンほど、意味なく息が詰まってきそうです。こんなエンターティメントとは対極の作品に遭遇したのは、初めての経験でした。
本作は、「泥の河」「死の棘」の小栗康平監督が、2005年の「埋もれ木」以来10年ぶりに発表した映画で、日仏合作。主人公は、画家の藤田嗣治(オダギリジョー)です。
1920年代のパリと1940年代の帰国してきてからの日本。フジタの二つの時代をちょうど半分ずつに分けて、対比する様に描きだしました。その間に描かれた作品の違い、心情の変化が本作の大きなテーマになっています。しかし注意すべき点は、本作は決して、伝記映画ではないということ。小栗監督は、フジタを物語の中に閉じこめないのです。
パリでは、日本的な線描と透明化のある独特な乳白色の肌の裸婦像で成功を収めていました。しかし帰国後、戦時中の日本では、ヨーロッパの歴史画を思わせるリアルで残酷な戦争画を描いたフジタ。その間の心境の変化を普通の映画作品では、軸に置いて克明に描きだすところでしょう。けれども本作では、それを全く無視!わかりやすい物語でつながず、感じさせることを観客に強いてくるのです。フジタは、いつ、どんな場所に存在していたのか。何を聞いていたのか。何を見ていたのかということを解説するのでなく、断片的な映像だけで。まさに脈絡のないメタファーが連続する作品でした。
二つの時代はぶった切るように突然変わるので、フランスで愛を育んだ3人の夫人たちや愛人のモデルたちとの交情がどのように終わったのかということと、終戦後に日本を追われるようにパリに行った晩年の心情が描かれていないことが不満です。
作品は、屋根の上を歩く猫のいる遠景から始まります。そして、既にエコール・ド・パリの寵児として成功していたころの、キャンバスに向かうフジタの姿が映し出されるのです。前半はそのパリ、後半は帰国後の日本。主に君代夫人(中谷美紀)と共に疎開していた農村での日々が描かれます。けれども両者に繋がりがなく、まったく違う作品に見えてしまいました。
小栗監督は、時代、文明の相克の中で生きることを余儀なくされた人間としてフジタをとらえたそうです。パリでの華やかな日常と表裏一体の孤独。戦時の日本の息苦しさ。違う時代、違う場所で生きていても、フジタは常に光と闇が同居する世界に身を置いていました。
そこにどんな葛藤が隠されているのか。安易な言葉では語ろうとしません。なぜ、フジタは戦争画を描いたのか。作品解説や評伝に書いてあるようなことを、この映画はなぞろうとはしないのです。なんと不親切な作品でしょう。よって観客は、目を凝らし、耳を澄ませ、監督が、映画そのものに語らせようとしたものを、必至で感じることを求められてしまうのです。
いつものエンターテイメントに慣れた観客は、この説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。展開も遅いし、あまりに抽象的。けれども、目に焼き付くもの、心にひっかかる何かを感じて、覚悟していたほど、眠れませんでした(^^ゞ
端正だが、様々なものが混在している映像。本人そっくりのオダギリが演じるフジタも見ていて飽きることがありません。猫のようにしなやかで、単純なようで複雑、複雑なようで単純。そのつかみどころのなさがいいのかもしれません。キツネのような君代といる景色もなかなかいいのです。但しフジタが散歩中、脈絡もなく登場するCGで描かれた幻想的なキツネがひょっこり出てくるのは、余計だと思います。あれは、内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」にインスパイアされたそうなのです、そういえばいつからか日本人はキツネに騙されなくなりました。
あれは監督が描く「絵空事」たる本作に、素直に騙されてほしいという願いが込められているので存在ではないでしょうか。
「いい画は、いつかは物語を超えて生き延びる。」劇中、フジタがそんなことを言う場面がありました。彼が肯定する「絵空事」の力が、映画そのものと反響し合っているかのような作品だといえそうです。あなたもポカンと騙されてみますか?
美術が素晴らしい
セット、大道具、小道具と美術が素晴らしい。それは、フランス編と日本編を問わずにどちらも素晴らしい。ともに時代の肌触りとでも言おうか、主人公が生きた時代に観客を誘うに充分な出来栄えだ。
とくに、蚤の市で主人公らが愛でる品々は、どこかの骨董品を持ってきたのか、それとも作ったのかは分からない。それでも、あの姉妹が手放した人形の家は、そうしたものがプラスチックで大量生産されたおもちゃを手にしていた世代の私には、あの小さな家の質感がうらやましくてならなかった。
主人公・藤田嗣治は、若い時にはパリで新進画家としてもてはやされ、帰国してからは戦争画の巨匠として陸軍の求めに応じて絵を描く。映画はそんな藤田の変節を非難するでもなく、まして、パリ時代の浮かれぶりを笑うでもない。
周囲がどう変わろうとも、淡々と絵を描く喜びを追い求める。パリでのばか騒ぎも、太平洋戦争も、藤田にとってはそこへ身を投ずれば投ずるほどに、人は所詮一人なのだという現実を知るだけだ。
芸術家の冷静な現実感とみるか、それとも求道者の狂気とみるかによって、ラストの不思議な世界の持つ意味が変わってこよう。
断片の連続です。ちょっとなぁ、どうなんだろ?
日本生まれの画家・彫刻家、藤田嗣治(フランス名:レオナール・フジタ)の生涯を描いた作品。
正直・・・、微妙?明示的にはなっていませんが、暗示的には藤田嗣治のパリでの生活編と、日本での生活編と言う構成です。でもねぇ、いきなり何の前触れもなく、パリから日本に来ていたし、そもそも、パリでの生活においても、前後のシーンの関係性や、登場人物への関係性が全く語られていません。日本編で、その一部は明らかにされますが・・・。私はたまたま、見に行く前に藤田嗣治の事をWikipediaで検索して勉強していたので、何となくは、登場人物がわかりましたが、事前の知識がなければ、チンプンカンプンでは無いかと思います。
もっと脚本を練ってくれていて、もっと前後関係がきちんと描かれていれば、もっと内容が分かりやすかったと思うんですが、シーン・シーンの断片が、羅列的に出てきてはなんとも・・・。「いま何をやっているの?」とかが全くわかりません。シーン自体は、けっこう良い画が取れていると思うんですが、そのシーンの意味がわからない。それと、その後の話とは無関係な画とかでてきてもねぇ。「その後の伏線?」と思っても違うみたいだし。
そういう意味では、日本編になって、中谷美紀が出てきて、やっとシーンの前後関係が判るようになって、少しは物語らしくなったと思ったら、最後は何???イキナリのファンタジー???
う~ん、なんと言うか、評価に困る作品です。一つ言えることは、脚本をもっと作りこんだほうが良かったんじゃないかな。
フーフー
小栗康平監督作。今時珍しいオールドファッションスタイル。時間がかかったどっしりとした美術、照明に、厳格なフレーミング。時代設定的に相当CGも関わっているのだろうが、使い方が斬新過ぎて違和感がない。スタイルはオールドファッションなのに、全体通すと見たことないフレッシュな映画に。特にラストの狐→大木の歪な想像力の生々しさったら、ドライヤーの《怒りの日》のラストの糸引く接吻のようにエロチック。静止した画面の中で、そこから逸脱しようとするイメージの洪水。日本映画というか、映画の現在の一つの到達点。素晴らしい。
美術品としての映画。
この監督の映画は全て、観ていますが、(全てリアルタイム、という訳ではありませんが・・・)「泥の河」を除いて、余り共感は持てませんでした。これでもかというくらいの独りよがりの作風についていけなかったのです。「死の棘」や「埋もれ木」は最悪でした。しかし、今回の作品は一つひとつの場面が腑に落ちました。悉く納得できるのです。全体的に暗い色調、クローズアップ、移動撮影を極力、排し、静けさすら湛えた画面。まさに映画の醍醐味を凝縮したような作りでした。特に終盤の心象風景を点描したような一連の映像は圧巻でした。戦争協力者として、戦後の日本で断罪されたフジタの心の叫びが惻々と伝わってくるようでした。
最後、一度、画面が暗転しても席を立たないでください。フジタの描いたフレスコ画がしばらく続きます。最後の最後、そこに何かが必ずや発見できる筈です。
なんじゃこりゃ?2時間返せよ!
竹橋の近代美術館で藤田嗣治展を鑑賞したこともあってか、観客無視の単なる映像それも年寄りには暗くて分かり難い、矢鱈とセピア色感を出そうとしているのかストーリーも難解だ。
唐突に画面が欧州から日本へ切り替わりなんじゃこりゃ!の感でした。
途中で退席しようとしたが列の真ん中故、我慢しながら寝てしまった。これじゃあ出演者の方々が可哀想に思えました。
折角の映像美なのに、ストーリー展開が非常に中途半端で、どこまでもあ...
折角の映像美なのに、ストーリー展開が非常に中途半端で、どこまでもあやふやなまま終わる。結果としてその美しさは全て定点であることが裏目に出て、なんだかもったりとした印象。
処世術として道化を演じ、実に実直に絵を描いた、平々凡々な人物、そして大きな流れの渦中の1人だったのだという主張はわかる。が、その終盤の表現がびっくりするほど雑。狐のCGいるか?窓辺に立つフジタのアングルいるか?言わんとしていることはわかっても、多くが抽象的で陳腐に感じてしまった。残念。
見なきゃよかった
藤田の絵画が好きなのと、監督の「泥の河」と「死の棘」が好きだったので、公開初日に行った。満員。周りの年配の女性達が、楽しみですね~とウキウキお喋りしてた。映画が始まる。すぐに、嫌な予感。パリの場面は全てが書き割り状態で薄っぺら。帰国後の日本の場面は、西洋人受け狙い的な映像と思わせぶりのセリフのみ。時間を返して下さい。
上映前はウキウキと賑やかだった女性達も終演後は無言で映画館を後にした。途中で抜ければよかった。次の回待ちで並んでいる人達に、見ない方がいいですよ、と言いたい気持ちをおさえるのが大変でした。
ランス礼拝堂を見ることができたから、0点ではありませんでした。
絵が完璧
あくまでも個人的な好き嫌いでいうと、小栗康平の映画は面白くないと思っている。泥の河、死の棘、眠る男、いずれも単純に面白くない。それでも見てしまうのは、まわりの評価、世界的な評価からだけでしかないかなーと今更ながらに自覚しだしたのだが、今回のこの映画もその例外に漏れないだろう、きっと面白くないだろう、でも多分評価はされるかもしれないから見ておこう、という気持ちで、気合を込めて、臨んだ。
気合いが功をそうしたのか、いやいや監督の真の実力からであろう、非常に素晴らしい内容であった。涙とか、感動とか、笑いとか、そういったものとは無縁ではあるのだが、映し出される絵の全てが完璧であり、完璧に作りこんだ絵にしか見えないのに、その時代に身を任せているかのようなリアリティーを感じた。作品の中の意図とか趣旨、ストーリーなんてどうでもいい、ただ目の前の絵と音を鑑賞するだけで完結してしまうくらいの完璧さであった。
ただ、沖縄戦の映像を旧日本軍が上映していたシーンと、ラストのCG、その2ヵ所だけは納得しかねるものであった。そこがなければこれが今年の最高賞でもいいと思ったくらいだ。それくらい致命的なものだったと思う。
それにしても小栗康平にとって地球全てが巨大なセットのようなものになってしまったのだなー
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