劇場公開日 2015年2月21日

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「「恋愛」にすべてを壊される前に」でーれーガールズ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5「恋愛」にすべてを壊される前に

2023年1月8日
iPhoneアプリから投稿

中高生の面白おかしくもない陳腐な恋愛模様をあらゆる角度からベタベタベタベタ描き続ける日本の「恋愛映画」がどうも苦手だし退屈だし自分の学生生活と比べてみても恋愛云々よかは終業後にチャリでゲーセンに行ったり部室で友達と騒いだりすることのほうがよっぽど大切だったからなおのこと興味が湧かない。かといって俺は別に「女に興味ないッス笑」という冷笑がやりたいわけではなく、ただ率直に、学校ってそんなに猫も杓子も恋愛至上主義の桃色空間じゃなかっただろ、と思うのだ。というかむしろ恋愛なるものの闖入によってもっと大事にすべきだったものを失うような苦い体験のほうが多かった気がする、俺の場合は。あってもなくてもいいようなデートのために俺はいくつかの友達との予定をおじゃんにした。そこまでして馳せ参じたデートはやっぱりあってもなくてもいいものだった。俺はもっと友達を大事にすべきだったと思う。

本作の鮎子もまた恋愛の空っ風に吹かれ危うく揺れ動く。鮎子はもっと早く気がつくべきだった、バレーの授業中に体育館を抜け出していく武美の手が名残惜しげに扉を掴んでいたことを、病気との格闘の中で心と体を消耗させていたことを、ヒデホへの愛慕の向こう側に他ならぬ自分自身の存在があったことを。しかし気がついた時にはもう遅かった。ゆえに鮎子は武美を喪った。武美が鶴見橋を渡り切ることは冥界への旅立ちを意味していた。20年後に鮎子は武美と再会するが、それは厳密には再会ではなく追悼である。あのとき鮎子が手放した武美はもうそこにはいない。そこにいたのは苗字も名前も異なった記憶の遺骸だった。彼女が最後に死ぬのは必然だ。生者の反省のために呼び戻された死者は、死者のあるべき場所に還っていく。鮎子が二度目の喪失の中で手に入れた反省はスピーチを通じて今を生きる若者へと引き渡される。時機を決して逃すな、大きな声で名前を呼べ。一度喪ってしまえば、二度と戻ってはこないから。

女の友情モノは恋愛に終始したり媚びた百合物語に陥ったりと、結局のところ男の欲望に回収されてしまう作品が多い。本作はそこで無菌室的な女の園の中に閉じこもるのではなく、むしろ恋愛を作品世界に招き入れることで恋愛がもたらす悲劇を皮肉げに描いてみせた。別に恋愛ってクソですよね!意味ないですよね!と言っているわけじゃない。ただ、もっと大事なものがそのときあったんじゃないですか?ということ。

17歳の俺に告ぐ。そんな女はほっとけ。ほっといたところでお前の人生にはこれっぽっちも影響がない。だから今すぐ部室で待ってる奴らとマクドナルドに行け。そいつらのほうが何百倍も何千倍も大切だったんだよ、マジで。

因果