「無神論者だからこそ」エクソダス 神と王 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
無神論者だからこそ
無神論者であろうリドリー監督による旧約聖書・出エジプト記の映画化。
宗教を讃えるというよりは、その怖さを炙り出している。
本作が、信者の方が多いアメリカで、ものすごく評判が悪かったのも、なるほど納得。セシルB監督の『十戒』と、粗筋はほぼ同じでも、意味合いが全く異なる映画だった。
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「殺人に長けた者は、神なのか?人間なのか?」というセリフが出てくるが、圧倒的に神様(宗教というシステム)が長けていたというのが、監督の見解なのだろう。
人間のラムセス王だって、いろいろと無慈悲なことをするんだが、神様の規模には敵わない。(あえてだと思うが、本作のラムセスは等身大な弱さがある。それこそ『十戒』でユルブリンナーが演じたラムセスのように狡猾な悪役として描かないと、王を倒した恩恵よりも、神様やりすぎ感が強くなってしまう。)
やりすぎな感もある「十の厄災」が、パニック映画のように降り掛かる。
厄災を受けて、神への憎しみを募らせていくラムセス王。報復の連鎖。
いや、そもそも「十の厄災」や「海の奇跡」は神様が起したものだとなっているが、実は単なる自然現象(隕石etc)だったんじゃないの?という揶揄も、映画には差し込まれる。
神を畏れるモーセや、神を憎むラムセスには、単なる偶然や自然現象には思えない。神の御業と思ってしまっていることで、それぞれの畏れや憎しみは更に深まり、両者の乖離は決定的なものとなってしまう。
(心の奥底ではどこか尊重し合っていた二人だったのに、もはや後戻りできない。)
「報復の連鎖」「敵対する者の乖離」を深め、新たな戦いを生む宗教。
「十の厄災」の怖さよりも。
対立を深める要因に宗教がなりうることが、真の怖さ。
対立の、どうしようもない平行線。
それは、形を変え現在も続いている。
なんというか、非常にタイムリーな、タイムリーすぎる映画だったのではないか。
最後、カナンの地に向かうモーセの「私たちは侵略者だ」という言葉も、だめ押しのように響く。
特定の宗教の良し悪しというよりも、対立の名分となる宗教というシステムへの疑義、監督自身の言葉を借りるなら「The biggest source of evil is of course religion.」そんな映画だったように思う。
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テーマは重い。
重いが、あくまでもエンターテイメント活劇に織り込んで描く。
それが、リドリー・スコットの諧謔精神ではないかと思う。