野火のレビュー・感想・評価
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戦争が奪ったのは命だけではない
太平洋戦争末期、フィリピンのレイテ島に取り残された日本兵たちの姿を描いた作品です。
様々な攻撃により次々に命を落としてゆく兵士たち、巻き込まれて死んでいく島民たち。
とても多くの死を描いています。
本作のテーマはもちろん戦地の極限状況下での人間を描くことですが
ラストを観て感じました。
たとえ戦争で命を奪われなかったとしても、戦争に行く前には確かに自己の中にあったものをまるで戦地に置いてきてしまった用に感じている空っぽの夫や
体は帰ってきても心は出征前と同じではない家族を迎え入れる妻。
戦争が奪ったものは命だけではなかったのだと。
スプラッターが苦手な私にはきつい映画でした。
市川崑版を機会があれば観てみたいと思いました。ずっと原作を読みたいと思っていた作品です。配信されていたので鑑賞してみました。
まるで大災害映画の様なこの映画を、戦争映画として8月に見る意義はあるのだろうか?
2014年製作/87分/PG12/日本、配給:海獣シアター、劇場公開日:2015年7月25日
原作はよんでいない。1959年の市川崑監督作と比べると、銃弾も飛び交い戦争映画の側面は大きく出ていて、より共感はできた。功罪は不明だが、カニバリズムもより直接的に見せ、分かりやすくはなっていた。
戦争で起きたことを忘れないという意味で、2014年にこの映画を作ったということは大変に評価できるとは思う。ただ、日本が主体的に東アジア全域で引き起こした前の戦争を、大いなる苦難を経験した!というこの映画に代表させていいのかとは思ってしまう。
フィリッピンの地元住民を撃ち殺してしまうシーンはあるものの、戦争下での主人公が陥った超悲惨な状況の描写がどうしてもメインに思えてしまった。運悪く大災害を被ってしまった人間の描写の様で、加害者意識が無いだけでなく、こういう状況をつくった日本の指導者たちへの恨みも怒りも全く無いのは実にいけてない。原作がそもそも問題かもしれないが、戦争映画として歴史的な客観的視点という大事なものが欠けていると感じてしまった。
監督塚本晋也、製作塚本晋也、原作大岡昇平、脚本塚本晋也、撮影塚本晋也 林啓史、編集塚本晋也、音楽石川忠、サウンドエフェクト、北田雅也サウンドミックス、北田雅也助監督、
林啓史、スチール天満眞也、制作斎藤香織 山中亜矢子。
出演
田村一等兵塚本晋也、安田リリー・フランキー、伍長中村達也、永松森優作、神高貴宏、入江庸仁、山本浩司、辻岡正人、山内まも留、中村優子。
カラーだからよりグロい
1959年公開の市川崑監督の映画を塚本晋也監督、脚本、製作、主演により再び映画化した。
日本軍の敗北が濃厚となった第2次世界大戦末期のフィリピン戦線で、肺病を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られた。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に歩ける田村の入院を拒絶され、再び戻った部隊からも穴も掘れない隊員は要らないと再度拒否されてしまった。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会した。しかし、食料難から○肉を・・・という話。
先日、野火(1959)を観てサルの肉に衝撃を受けたが、本作はモノクロからカラーとなりよりグロくなってたのと、白旗持って降参した日本兵が現地の人に撃たれたシーンの伏線が有ったのが良かった。
塚本監督の演技も良かったし、リリー・フランキーや中村達也も良かった。
長さ的にもこのくらいで良い気がした。
やはり、反戦作品だなぁ、と思う。
反戦映画なのかエンタメ映画なのかホラー映画なのか
元々は文筆業だった生真面目な主人公が、奇跡的にレイテの激戦地で生き延びてしまい、極限の飢餓状態に至った時にどこまで正気を保てるかを問う作品です。
たまたまアマプラに出ていたのを見つけ、チラ観してみたら、続きが気になって結局最後まで観てしまいました。
ある意味ロードムービー的な構成で、観客を飽きさせずに惹きつける演出という点において、エンタメ映画あるいはホラー映画の要素としては優秀だと思います。
ただ、だからと言って、製作意図が反戦映画として受け入れられるかという点においては違和感を感じました。
ホラー映画さながらのグロいシーンを立て続けに見せ付ける事で、人間を狂気に駆り立ててしまう戦争がどれ程の悪なのかという事を観客に訴えたいというのが、塚本監督の製作意図との事でした。
その意味では本来は反戦映画であるはずなのですが、その思想よりはむしろ、グロ演出が仇となり、戦争を題材にしたホラー映画の様な印象を受けてしまい、反戦の意図が逆に薄れてしまった気がします。
数日前に、海戦後にで漂流する人命を1人でも多く救おうとする、人道的な反戦映画の「雪風」を劇場で鑑賞した直後なだけに、何とも言えないキャップを感じてしまった。
反戦の気持ちを観客に喚起したいという意図なら、極度にグロい演出の本作よりは、どんな状況でも人道を見失わなわなかったという優しいタッチの雪風の方が成功しているのでは、との印象でした。
最初、戦後80年
1959年版のリメイクかというと全く違います 原作は同じ大岡昇平の小説なのですが実は違うのです
野火
ご承知の通り、この題名の映画は二つあります
1959年公開の市川崑監督版
そして本作2015年公開の塚本晋也監督版です
しかし、本作は1959年版のリメイクかというと全く違います
原作は同じ大岡昇平の小説なのですが実は違うのです
1959年版は、戦争の悲惨さ、残酷さを、地上の地獄として再現して、極限状態における人間の本性とは?人間性とは?人間の尊厳とは?といった小説のテーマを原作に忠実にそのまま映像化するものでした
人肉食はその中で極限状態の中では絶対タブーすら、もそうでは無くなってしまうという事を象徴する為の強烈なモチーフでした
なので1959年でははっきりとは人肉食をしたようには描かれませんでした
直接的に映像で視覚化することは観客にとって衝撃が大きすぎると市川崑監督はお考えになられたようです
反戦のメッセージは結果として観客にしっかりと伝わるものとなっています
さて、では2015年版はどうか?
あらすじは原作とも、1959年版とも概ね同じです
しかし出発点と目的が違うのです
本作においての出発点は、あくまでも塚本晋也監督が原作から感じたものを中心に究極の反戦映画を撮るのだというものです
そして目的とするものは、観客に戦争を人肉食と同じくらいのタブーとして観客にトラウマとして刷り込む
つまり洗脳するのだというものです
よって1959年版においては、市川崑監督が避けた人肉食のシーンこそを2015年版ではメインとして構成されていくのです
戦争は確かに悪です
絶対に忌避しなければなりません
そのために、このような映画が撮られるべきかもしれません
しかし、2025年の私達は、ウクライナ戦争を目撃して、自らが不戦の誓いを持っていても、問答無用とばかりに戦争を吹っかけてくる事があることを知りました
外交も交渉も理屈も話も通じない相手がいることを知ったのです
劇中の主人公のように身を守る手段を失ってしまえば、本作のレイテ島の有様のような弱肉強食の世界に、突き落とされて抵抗することもできない世界に、実は私達はいるのだといる事に気付かされたのです
そうして、本作は、そうなってしまった時の日本の有様を想像してしまうのです、本作のトラウマとともに
では人間の尊厳を保ったまま日本は自滅する方が正しいのでしょうか?
手榴弾を抱いて自爆死するように
あるいは、人肉を食べてでも生き延びて元の平和な日本に帰還するように醜く足掻く方が正しいでしょうのか?
本作は、自滅すべきだと洗脳している映画だと自分は感じました
劇中、降伏しようとした兵士は問答無用と銃撃されます
ウクライナ戦争では、ロシア軍は100万人以上もの死傷者を出しても侵略を止めません
プーチンの肉挽き機と呼ばれる程に膨大な人命を軽視して本作のレイテ島のような戦地に毎日送り込んでいます
手足を失った兵士にまで這ってでも出撃させているニュース映像まで見ました
恐らく本作と同様の生き地獄が本当にあるのでしょう
では、ロシアとウクライナ
どちらの国民が本作を観るべきなのでしょうか?
自分はロシアの国民だと思います
そして日本がウクライナのようにされてはならないと強く思うのです
戦後80年目の夏
多くの人に本作を観て欲しいと思います
そしてご自分の頭で、どうなのかをお考えになって欲しいと思いました
戦争は残酷なもの
戦後80年、世界は戦禍が止まない。
そんな中でこの映画を観るのは、観ることに意味がある。
編集とカットがよく練られていて飽きない。緊張感があるカメラ。俳優陣もなかなか良かったんではないか。脚本もわざとらしさはなく、独り言を始め、不自然な点は少なかった。ただ、軍の上官が、あんな話し方するかな的なとこらはいくつかあった。
映画は、映像自体にどこまで任せることができるかだと思うが、その辺のバランスはよく保てたと思う。この映画はそういう意味では、映像の強い映画である。
まぁしかし、撮影はフィリピンや沖縄で行われたそうだが、撮影自体が大変だったろうなというシーンがいくつもある。自然は美しい。その中のみすぼらしい様の日本兵。馬鹿げた時代もあったものだと思わざるを得ない。
人肉を食べるところまでの極限状態というのが一つのテーマだし、それに対する人間の尊厳もまた対比的に浮かび上がるテーマなのだが、その辺もかなり追求されていて、わかりやすい。
(その前に野犬を食べて仕舞えばいいのに、と思うが)
追記。リリー・フランキーの、信用できなさ加減が、彼らしい演技で良かった。
トラウマです…
リバイバル上映で始めて見ました。見なきゃなと思いつつ、これまで見れていなかったんですが、これは上映しつづける必要があると思います。
まさに体感で戦争の無理さが伝わってきました。もう暑いのも無理だし、食べ物無くて飢餓状態なのも無理、虫もいっぱいいるし、移動中もすごい撃ってくるし、隣にいた人が突然血まみれだし。住民を殺して食べ物を奪ったり、仲間の兵士同士で殺し合いしたり、ちょっと自分には無理です。当時の彼らも無理だったから全員発狂してたけど…。
自分には無理なので、反戦を訴えてくしかないなと思いました。周りの人にも、誰にもこんな体験してほしくない。被害者にも加害者にもなりたくない。とにかく無理です。夢に出てきそうだ。
そこに大和魂はあるんかて話
それはもう見るにも耐えない飢餓に喘ぐ日本兵の姿。
彼らが喰わなければ、今は無い命がある。
物に溢れた今となっては米が高いだの
関税が上がるだの
以前に我々の心には
彼らのような危機迫る大和魂はあるのだろうか。
敗戦の歴史が日本から奪ったものはデカい。
見てよかった。
反戦映画をどう撮るか
川越スカラ座にて塚本監督の舞台挨拶有りの一日限定上映。
舞台挨拶は監督のぎっくり腰によりオンラインに変更。スクリーンにカメラの映像を映し出しての舞台挨拶となりました。辛い状態だったと思いますが、質問一つ一つに真摯に受け答えしてくださる姿勢に感銘を受けました。それはまた、本作に対する熱量の表れでもあったのかな、と思いました。
鑑賞当日の午前に同劇場にて、1959年の市川監督による「野火」を鑑賞した後でしたので、舞台挨拶での解説もあり、塚本監督の撮りたかった「野火」とは何だったのかが、より分かりやすかったです。
監督の口から出た「戦争に対して"良い"トラウマを植え付ける」ということ。これが本作の軸になっています。戦争をエンタメとして、よりドラマティックに撮る監督もいるかと思いますが、反戦映画として撮るならば、美談にしてはいけない。「はだしのゲン」のような強烈なトラウマを植え付け、戦争に対して嫌悪感を抱かせなくてはならない。だからこそ、市川版よりも視覚的に強烈なインパクトを与える必要があったのです。
そして人物描写。塚本版は登場人物達がより身近な存在であることを感じさせるものとなっています。セリフ回しや感情の表現などにそれが反映されています。これは、戦争を他人事ではなく、自分の身にも起こり得ることであること、実際に戦争に巻き込まれたらどうなってしまうのかを感じて欲しいとの思いからだそうです。
ストーリーですが、大筋は市川版と同じですがラストに塚本監督の思いが強く込められていました。市川版ではややドラマティックに描かれていたラスト。私も思わず涙をこぼしてしまいました。しかし、塚本版の胸糞悪い終わり方よ。主人公が下した究極の選択とは。そこには人間の本質と、戦争によって歪められた倫理観がありました。
塚本監督の思惑通り、まんまとトラウマを植え付けられた私ですが、是非とも多くの人に観て頂きたい作品です。そして、戦争とは何なのかを感じて欲しいです。テレビのニュースでは知り得ないものが沢山あります。
最後に、塚本監督、本当にありがとうございました。
※川越スカラ座は、外観、内装含め昭和の香り漂うレトロな雰囲気のコミュニティシネマですが、資金難による閉館が迫っている状況です。現在「川越スカラ座閉館回避プロジェクト」を実施中で、LINEスタンプや川越スカラ座グッズの購入による支援が可能です。(詳細はHPにて)館内にて募金も行っております。ご興味を持たれた方は是非、この独特な雰囲気の映画館を体験してみてください。
戦場という極限状態の中、人間の本性は何処に!!
戦争反対‼️
戦争末期、フィリピン。
敵はアメリカ、機銃掃射で、バッタバッタと
撃たれ倒されて行く。
さっきまで腹減ったとイモの取り合いしてた
連中が、腕や脚がちぎれて内蔵や脳が飛び出し
顔の皮むけた者もいて血まみれで死んでいく。
密林の中歩いて行くと
ハエがたかった兵士の死体がゴロゴロ。
たまたま転がる死体から生存者を見つけ、
保護する米軍の様子を見て、
田村は褌を抜いて白旗代わりに掲げて、
降参❗️と米兵の前に出ようと思ったが、
先に躍り出た日本兵が、
一緒に乗っていたゲリラ兵士によって
穴だらけになるほど撃たれ死ぬ
のを見たので、また彷徨う。
当地のゲリラ兵士が日本兵を忌み嫌う理由が
わかる描写もあった。
あんな日本兵が目の前に来たら恐怖しか無い。
そうこうすると、以前に会った永松に再会し、
猿の干し肉をもらい食べる。
俺が猿を仕留めるから、あのオヤジは
俺を殺さない、と。
アメリカ兵に殺されなくとも、
この島で熱病や肺病に罹り死ぬ。
田村も肺病病みだった。
また食べる物が無く飢餓で死ぬ者も。
近年、日本から民間の団体で
遺骨収拾に赴く方々のニュースを目にする。
あの密林の遺体の状況を見ると、
かなりのご苦労だと思う。
猿は同じ霊長類でも猿じゃなかったという
現実、事実。
田村自体、銃で撃たれた自身の肩の肉を食らっていた。
帰国できて小説家みたいのようだが、
あのハッハッハッと何しているのだろう。
実話なのか⁉️内地にいる日本人には知らなかった真実、なのだろうか、
戦死と一括りにされてもその理由は様々。
いずれにしても惨い。
久々に再見してみて
リアルタイムで観てから大分時間が経ちましたが、先日「ほかげ」を観てとても感動しました。同時に、戦争後に生まれて普通に生きていることのありがたさを改めて痛感し、戻ってきました。
世間的には「野火」のほうが有名で評価されてますか?わたしとしては「ほかげ」の方が好きだし感動しました。
どちらも、戦争の実態と、翻弄された人達(軍人、現地の人、日本に残った人)の姿を蒸せるような暑さの中で描いて、繰り返すべきではない戦争、犠牲になった人達への追悼、その上で成り立っている今の平和を強く感じさせてくれます。その中ですが、わたしは日本に残された人達たちの姿を追った後者の方により感動を覚えました。
塚本監督、本当はもっとダイエットして出演したかったのでしょうか?リリーさんとか全体的には細い役者陣だったと思います。
あの戦闘シーンは本当に怖いです。演出としても上手いなぁと思いました。見えないところから(相手を見せない)タマが飛んでくる。「地の群れ」でも感じたマジの恐怖です。味方の脳ミソ踏んづける辺り、ゾクッと画面を見入りました。
戦後を生き抜いた方々、日本を復興させてくれた方々、頭が下がります。あのような現地を体験されて、その後どのように精神的に立ち直ったのか、下世話で恐縮ですが興味があります。「野火」の塚本監督は戦後奇妙な後遺症(癖なのか?)が出ています。「ほかげ」の河野さんは完全にフラッシュバックが出ています。でも大森監督は幸せそうに夕食を食べれています。少なくともわたしだったら銃声(のような音も含む)がしたら普通ではいられなくなるような気がします。上司からの携帯着信音の比ではないです。
太平洋戦争末期のフィリピンが舞台。 これはもはや戦争ではなく、一方...
吐き気すら感じさせるほどの画で描いた、 南方の“戦争体験”
すべてが理不尽、全てが不条理、その中でかろうじて人間性を律した男の眼から見る“惨状”・・・。本作は第二次世界大戦の末期、フィリピンの戦線における日本軍の悲惨さを、生臭さを一切取らずに描いている怪作です。
ストーリーの舞台は、戦争末期のフィリピン戦線です。敗色濃厚で武器も食料もないなか、肺病を患った主人公:田村は部隊からは除け者にされ、野戦病院では重傷ではないと厄介払いされる。行く当てのない田村は病気の中、わずかな食料を持ってジャングルの中をさまよう。しかし、行くとこ行くとこ人間の所業とは思えないような、まさに地獄絵図の世界だった・・・てな感じです。
正直、あんま考えることはないかもしれません。
その画を見て、おぞましさを感じることに特化したような作品と自分は思うています。
理不尽な暴力、不条理な対応、白骨化していく死体、ウジがわいてるのに生きた人間、戦場の血生臭さ、そして生きるために仲間を手にかける味方。この世界には良識など一切ない。残酷で、おぞましくて、吐き気すら感じさせる世界。まるで自分も体験しているかのような感覚すら感じるくらい、
「それが戦争なんだ」と、言っているかのような説得力ある画です。
歴史資料を見れば、フィリピンも含めた南方戦線の困窮ぶりを知ることができます。自分もある程度は知識としてこういうことが起こっていたのは知っていました。しかし、たとえフィクションだったとして、ここまでリアルに再現した画は観たことがありませんでした。まさに「どれだけ戦争が、人間性を失わせる嫌なモノか」を強く訴えているように感じました。
しかも、これが“自主映画”であることにもっと驚きです。本作の監督で主演も務めた塚本晋也さんは、並々ならぬ思いで本作を描いたのでしょう。逆に言えば、自主製作という大きな制約があったからこそ、その“制約内での自由さ”を全面的に表現することができたゆえのモノかもしれません。
この映画は、グロテスクな描写を省かずに描いているため、かなり刺激的な部分もあります。苦手な人がいるかもしれません。しかし、自分は本作こそ必見であると思います。
87分という短さに、「戦争は嫌」だと思わせる内容がふんだんに盛り込まれているからです。
それは、一種の反戦につながると、自分は思うからです。
映像体験
行き着く先の戦争
大局的でもなく、民衆目線でもない、でもこれも確かに戦争のひとつの形。
ハッキリ言って、分かりづらい部分も多い。
暗い画面や目茶苦茶に揺れるカメラ、聞き取りにくい台詞。
登場人物ほとんどが同じ軍服のため、見分けるのが大変。
大きな転換でも一連シーンでも、カットの繋ぎが上手くない。
劇中での説明が少ないので、場所や戦況などの知識が求められる。
画面から暑さが伝わりづらいのも惜しい。
しかしそれでも、迫るものがある。
グロ目の死体も出てくるが、それ以上に自然との対比が目に刺さる。
密林の鮮やかな緑の中を歩く汚い軍服は、画面のバランスとしては違和感を覚えるほど。
度々差し込まれる美しい空や雲も、状況に全くそぐわない。
でも実際にこうなんだろう。
人間の営みの如何に醜いかが、こんなにも分かり易く表現されているとは。
内容は物語というより、戦場という地獄を彷徨う様をひたすらに映す。
一部は夢や幻覚の可能性もあるが、どれも起こり得ること。
結局追い込まれてしまえば、国の戦争より個人の戦争になってしまうのはあまりに滑稽だ。
敵側の野戦病院に救われ帰還を果たすのも皮肉。
世界平和のような綺麗事ではなく、「こうなりたくないでしょ」と、“個”に訴える戦争映画でした。
毎年この作品が上映されている意味
第三の敵。
敗戦が濃厚となった時期に30を過ぎた老兵としてフィリピンミンドロ島に配属された作家大岡昇平の実体験をもとしたフィクションが原作。ご本人が人肉食を体験したわけでなく現地で聞いた事実をもとに想像を膨らませて書いたものだ。
原作では主人公は飢餓状態に追い込まれながらも人肉を食うか食わないか、宗教観を交えて延々と葛藤するその心理が描かれている。しかし、塚本監督はそこはあっさり主人公に食べさせる。劇中では騙されて食べるわけだが、当時の兵隊たちは食べるか食べないか葛藤する余裕もないくらい追い詰められていて、食べないという選択肢はなかったという。いかに戦争が人間をそこまで追い詰めてしまうのかと感じてそのように原作とは違う描写にしたとのこと。
本作のように日本兵同士でも殺し合って互いに人肉を食べたというのは確かにあったらしい。
補給路を断たれただけでなく、もともと人命を甚だ軽視していた日本軍では飢えから規律は失われて互いの食料を奪い合っていた。大岡昇平の所属部隊には備蓄食料があっていつ襲われるか警戒していたという。
当時の従軍兵の言葉に我々の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリピンゲリラ、そして第三の敵は日本兵だったという証言もある。
それくらい当時の日本軍は崩壊していた。そしてそんな彼らが人間性を失うのも時間の問題だった。
これが先の戦争の実態。フィリピンの美しく自然豊かな景色とは対照的に日ごと行われた醜い殺し合い。そんな愚かな人間たちの行為をただ、自然はたたずんで見守っていた、昔から何ら変わらず。互いに殺し合う兵士たちの叫び声、怒号、銃声だけが静かな森の中では響き渡っていた。
主人公の田村は常に抗い続けた。物書きであり学のある彼は明治政府が植え付けた教育には染まっていなかった。このような愚かな戦争を否定し、けして自分は加担したくなかった。
自伝小説の「俘虜記」でも森の中で米兵に遭遇してもけして引き金を引くまいという原作者自身を投影した主人公の気持ちが吐露されている。
田村は無下に人殺しをすることを拒んだ。どんなに飢えても生草やヒルを食べて飢えをしのぎ、けして人肉だけは食べまいと抗い続けた。まるでそれが自分の人間性を保つ最後の砦であるかのように。
彼の行くところには常に野火が上がっていた。それは農民が行うただの野焼きなのか、あるいはフィリピンゲリラが自分たちを見つけたという合図なのか。それは知る由もないが、田村はその野火が自分を常に見張っている気がした。まるで自分の罪を見定めようとするかのようにそれは彼に付きまとった。
人肉食を繰り返す同僚兵士を殺して復員を遂げた田村、いまだ戦場でのトラウマに苦しめられている。そんな彼が庭先の焚火の火を見つめる。
自分は自ら人肉を食わなかった、自分は人間でい続けた、自分は罪を犯さなかった。果たしてそうだろうか、本当は猿の肉ではなく人間の肉だと知っていたのではないか。あれほどジャングルをさまよい一度も目にしたことがない猿の姿、人肉食の噂、自分は人肉だとわかってて食べたのではなかったか。
自分は罪を犯さなかったか。自分はあの無辜の女性を殺めたのではなかったか。あの戦争を否定しながらも暗黙により加担したのではなかったか。あの戦争に突入する大きな流れに抗えなかった、仕方がなかった。だから自分には罪がなかったといえるのだろうか。
あの日の野火のように燃え盛る焚火の火は今も自分の罪を見定めようとしてるかのようであった。
映像表現に唸る作品
「野火」みたいな映画を観るのは体力がいる。解説やら説明じみたセリフやらは一切無い。観る→感じる→考える→確かめる、のループの中で映画は進む。
更に観終わった後も自分が何を受け取ったのか、日常のふとした瞬間に振り返る。そんな映画だ。
大きな資金を得られず、インディペンデントに近い形で制作されているにも関わらず、野戦病院や戦闘、亡霊のような日本兵蠢く山道など、どれをとっても鬼気迫るシーンの連続。
特に田村が何度も追い出される野戦病院の、積み重なるように収容された傷病兵のヌラヌラとした動き。生と死の狭間を行き来する様子は鳥肌が立つほど不気味だ。
予算がなくても、絶対にコレを撮りたい!という思いと明確な絵を描く力が、素晴らしい映像表現に繋がっている。
自分のビジョンをしっかり持っている監督はやはり違う。意味を主張できない映像の羅列みたいな映画だと、やっぱ途中で飽きちゃうもの。
塚本監督は「野火」の中で、その想像を絶する戦場の光景を描きたかった、という。
そこにはただ現実があるだけ。そこから何を感じとるのかは観ている我々次第だ。
反戦?それも良いだろう。人間の愚かさ?それも良いだろう。
私はなぜか神の視点を感じた。田村は状況に翻弄される小さな命に過ぎない。田村の生死を決めるのは田村自身ではなく、もっと大きな存在のような気がしてならない。
例えるなら人間の撒いた水に流される蟻の列、その列でたまたま乾いた土の上にいた一匹の蟻のような、そんな存在に見えた。
だから私が感じたのは、命の哀れさ、ということになる。
野火という単語は「野原での火葬」という意味があり、遠い南方の島で息絶えた戦友達への弔い。それと同時に、死体を焼くことで甦りを妨げる訣別の意味もあるように思う。
また「野焼き」という意味にとれば、植物の環境形成をリセットする再生の象徴のようにも思える。
もう一度観たら、5年後に観たら、私の「野火」への印象はまた変わるように思う。毎年8月に観るべき映画、なのかもしれない。
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