「歴史の偶像化」シャトーブリアンからの手紙 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
歴史の偶像化
「パリよ、永遠に」に続いてフォルカー・シュレンドルフのこの作品を鑑賞。
この作品に出てくる少年ギィ・モケはパリの通りやメトロの駅名にもなっているほどの、フランス人にとってはイコン的な存在。しかし、映画のように静かに死を受けいるれることが、はたして17歳の少年にできるだろうか。
他の犠牲者たちの描写にしても、あんなに誇り高い姿で処刑に臨むことなどできるものだろうか。死への恐怖。この当たり前の感情があのように抑制できるものだったのだろうか。
私にはどちらかというと、刑を執行する側の葛藤のほうが鬼気迫るものがあったように思えた。
シュレンドルフが映画で描こうとしたのは、冷静で誇り高く逝った犠牲者たちなのだろうか。しかしそれでは、共産主義やフランスへの愛国心は人々が命を賭けるに値するものだと言っていることになる。これはナチズム同様に、思想の下に人命を犠牲にすることを賛美していることに他ならない。
映画は、冷静に死へ赴いたギィ・モケの視点から描かれている。誰でもが知っている人物でありながら、彼の内面をうかがい知ることの出来る資料としてはほとんど何も残っていないはずなのに。映画はそのような実態のよく分からない人物の視線を創り出しているということだ。偶像化された人物の視点を借りて、その偶像化の歴史を描く。まさに二重の偶像化。
映画の題材としては、戦後のモケの偶像化をモケが恋をしていた女子収容所の娘の視点から描くとか(ご本人はいまだご存命なのだ)、副知事をはじめとするビシー政権の人々の立場から描くほうが面白いと思った。
だがしかし、サルコジ政権下で物議をかもしたようなギィ・モケの偶像化に対する一つの答えを、シュレンドルフがこの作品で提示しいるとしたら、上記の私の危惧など愚考に過ぎない。我々がどれほど安易に歴史上の人物を偶像化しているかということを、映画はその画面には見えないところで教えてくれている。