「死と男女の確執の物語を巧みに描く秀作」海街diary りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
死と男女の確執の物語を巧みに描く秀作
映画は、三人姉妹と異母妹が暮らす日常の物語を淡々と描いていきます。
大きなうねりはないが、小さな漣(さざなみ)は常に立っては消えていく、そんな物語。
よくも(よくぞ)こんな物語を上手く魅せることができるもんだ、ひとつひとつのエピソードがすんなり心に入ってきました。
そのための隠れた工夫を、脚本・編集も兼ねた是枝裕和監督が積み上げていきます。
淡々とした日常であるが、常に死の影がつきまとっている。
冒頭で示される父親の死、父の出奔の原因となった2番目の妻の死、三姉妹を育てた祖父母の死、そして、姉妹が世話になる食堂の女主人の母親と女主人自身の死。
さらには、幸は物語の後半で、週末ケア病棟の配置転換となる。
そしてまた、淡々とした日常であるが、男女・親子・肉親の確執が常につきまとっている。
親子・肉親の確執としては、三姉妹と亡き父、三姉妹と家庭を放棄した母、すずと父親、食堂の女主人と弟。
男女の確執は、姉妹の父と母親たちはもちろん、幸と妻子ある小児科医・和也、佳乃と若い彼氏。
そして、確執までは至らないが、関係が芽生え(てい)るものとしては、佳乃と信用金庫の課長、すずと同い年の風太。
字面で書くと、大変な死と確執のオンパレードだ。
そんな暗い面を、映画は生命の力でもって朗らかに蹴散らしていく。
生命の力、それは食べるシーン。
とにかく、冒頭からよく食べる。
三姉妹のごはんと味噌汁とお惣菜の朝食、父の葬儀に向かう佳乃と千佳が電車内で食べる駅弁、すずが越してきた後のお蕎麦、そのほか、食堂でのアジフライの類、おはぎ、アイスクリーム、梨、ポテトサラダ、シーフードカレーに、おばあちゃんがつくってくれたチクワカレー。
台所の床下に保存した過去何年か分の梅酒。
家庭の物語(ホームドラマ)の基本は、食卓を囲むシーンだと改めて思い知らされる。
そして、人生の漣(大波もか)にぶつかったとき、食べてだれもが元気を取り戻す。
食堂の女主人の余命が短いことを知ったときの佳乃と信用金庫の課長の何気ないシーンですら、ふたりは缶コーヒーを飲んで、力を取り戻す、と徹底している。
それから、是枝監督は、姉妹が暮らす世界に、もうひとつ魔法をかける演出をしている。
それは、話題にはのぼるが、画面に登場しない人物(写真一葉すらも登場しない登場人物)を多数用いている。
物語の陰の主役ともいうべき姉妹の父、すずの母、姉妹の祖父母、食堂の女主人の弟、小児科医・和也の病弱な妻。
さらに、幸の部下で、仕事が雑と思われていた荒井さん(実は、終末ケアが非常に丁寧)。
姉妹の父や祖父母などは写真が登場してもよさそうだが、そんなこともない。
(この写真一葉登場しないのは、エピローグの食堂の女主人の遺影が出てこないことでも徹底している)
見せないことで、姉妹が暮らす狭い世界を、広くみせようとする演出なのだろう。
このように簡潔に、見せない・説明しない(過去の回想シーンなど一度も用いない)ことで、映画の、物語の推進力を高めていく演出は見事である。
この簡潔性は、冒頭の父親の葬儀のシーン、会葬者への挨拶をだれがするかという会話でも端的に示されている。
幸と父の後妻(すずの養母)とすずとのシーンで、すずの置かれている・居場所ののない立場がわかるし、この映画が、親子の物語であるとともに、おとなの男女もの物語であることが判る。
葬式と鎌倉の風景によく似た鰍沢の風景ではじまった物語は、鰍沢によく似た鎌倉の風景と葬式で閉じる。